東宝映画「大学の若大将(1961)」の10年戦争(その4)~ブルジョアVS中産階級VS夜の蝶VS中卒勤労者。 - 在日琉球人の王政復古日記
の続き。
対して日活。実は日活も、特に今回のアキラや石原裕次郎の作品は、オシャレでカッコイイことになっている。しかし、そのオシャレがどうも「無理してる」「背伸びしてる」感じがするのが日活である(笑)。東宝のように自然なオシャレじゃないのだ。
でも、その日活特有の「ダサカッコ良さ」が、慣れると非常にカッコイイのだ。
「ダサカッコ良さ」のカッコ良さが頂点を極めるのが、同じくアキラの渡り鳥シリーズである。「いい歳したオトナの男の子」必見である。
東宝の銀座はリアルな銀座である。若大将もリアルな学生だ。話もSFやファンタジーではない。しかしリアルであるがゆえに、庶民には絶対手が届かない高嶺の花なのだ。
日活の銀座は荒唐無稽な銀座である。旋風児も荒唐無稽なヒーローだ。話の筋も現実感ゼロだ。しかしファンタジーであるがゆえに、庶民は手が届かないという乾きを感じずに済む。
なんでオレはウルトラマンみたいにスペシューム光線を出せないんだ!?と嫉妬する若者はいないのである。
言っちゃ悪いが、「銀座旋風児」は日活アクション映画の中でもダサさが際立った作品だ。
若大将に比べて、脚本はガタガタだし、演出もアラが目立つ。
なぜかまたまた後ろにある隠し扉も、海に繋がる落とし穴も、ご都合主義丸出しである。
宍戸錠がアキラと公衆電話から会話するシーン、ジョーの腕時計とアキラの腕時計の時間が会ってない(ように見える)。
若大将ならば、登場する不良コックの左腕には目立たないがさりげなくハートの刺青が彫ってある。あれでこいつはチンピラだな、とわかるのだ。
しかし、こういうダサい映画で堂々と主人公を演じられるアキラは一週回ってカッコイイ。荒唐無稽を平気で演じられるアキラには、東映時代劇の市川右太衛門、片岡千恵蔵両御大に通じる映画スタアの格を感じる。
後年、アキラが千恵蔵の当たり役・多羅尾伴内を演じたのも当然であろう。
※ここで、多羅尾伴内の説明を、いやそれどころか、東映両御大の説明をしないと、平成の皆さんには通じないんだろうが、そこまで行くとブログが終わらないんで、あきらめる(笑)。
警察や検察をツーカーみたいだけど、何の公的資格があるのかよく判らない、なんで犯罪に目をつけたのか?根拠と理由が不明瞭、変な変装ばかりして行動が意味不明、しかしなぜか有名人、そう、銀座旋風児・二階堂卓也は多羅尾伴内ソックリのキャラなのだ。
判る人は判るだろうが、だからこそ、今回の話が大東亜戦争のアジアでの日本の軍部や特務機関に絡んだ犯罪なのである。
大陸の特務機関のメンバーが敗戦のどさくさにまぎれて日本軍の隠匿物資を横領する。そして支那人に化けて、日本人の利便性と支那人の利便性を操って蝙蝠のように生きる。
銀座旋風児はそれを許さない。元は日本国民の財産だ。日本国民に返せ! 日本国民の財産を横領するのは売国奴だ!・・・日本映画で主人公側が悪役を「売国奴」と罵るのはあんまりないはずである。
旧軍部の悪事を暴くからって銀座旋風児は左翼ではない。
なぜなら相手を売国奴と罵るからには銀座旋風児には愛国心があるからだ。
しかし右翼だからといって、旧軍部の悪事は許さない。徹底して糾弾する。
ここに川内康範氏の政治思想である民族派思想、亜細亜主義が体現されている。
神風連、西郷隆盛あたりを源流とし、玄洋社、国柱会、皇道派を経て、戦後の新右翼に流れる、尊皇攘夷、親亜細亜、反近代、反欧米、諸民族同和の右翼思想である。
日活という会社には、東宝や東映のような統一した政治思想は感じない。
「キューポラのある街」や「いつでも夢を」を「上を向いて歩こう」などの青春映画は民青テイスト爆発の左翼映画だが、裕次郎の「あいつと私」は反安保映画だし、アクションものはハッキリ資本主義肯定だ。
で、川内康範氏のような新右翼民族派みたいなのもあったりする。
一応、ある仮説は持ってるのだが、それはまた次の機会にでも。