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在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

人間が自殺・安楽死・尊厳死するのは自由。同時に、バチカンがその死に反対するのは正しい。

尊厳死」だの「安楽死」だの、どっちがどっちなのかややこしいが、

病気などの耐え難い苦しみの中、

・強制的な延命措置を止めて、死の訪れを阻止しない。

・死に至る医学的行為を故意に積極的に行う。

このどっちかを尊厳死」と呼び、残りを安楽死」と呼ぶらしい。

どっちがどっちなのか、よく知らない。

そしてどっちも、ただの「自殺」とは分けて考えるらしい。

 

私にはその区別・その判断が判らない。

ていうか、どうやってデジタルに線が引けるのか?

引いた上で、他人の死にたい気持ちに「上下」をつけられるのか?

 

 

末期癌の苦しみの中、早く楽にしてくれと思う、

進行する認知症で、自分の理性が失われる前に、自分が自分の間に死にたい、

それと

事業が失敗して借金でどうにもならない、

政府の悪政に抗議する、

阪神タイガースが負けて頭が真っ白だ、

信じてた乃木坂46がまたスキャンダルだ、

この人だけはと思っていた愛しい恋人に振られた、

長年連れ添った女房が死んで寂しくてたまらない、

言葉には出来ない、ただ、なんとなく、生きていたくない、

などなどとの違いは何なのだろうか?

 

阪神が負けて悔しいのは馬鹿馬鹿しい理由で、末期癌の痛みはホンモノか?

どっちにしても私は当人じゃない。

どっちがどれくらい真剣なのか、上下はつけられるのか?

プロ野球の負けや、アイドルが処女じゃなかったことが、当人には耐え難い精神的苦痛かもしれない。私には理解不能なだけだ。

仮に、阪神やアイドルが客観的に馬鹿馬鹿しい理由だとして、その「客観」を個人に強制してもいいのだろうか?

 

時事ドットコム:米女性の「尊厳死」非難=バチカン

 

脳腫瘍のアメリカ女性の尊厳死安楽死?に対して、バチカンが批判した。

そのバチカンの態度に対して、ネットでは反論や異議が上がってるようだが、

 

「神は、尊厳死安楽死?を許さない」というバチカンと、

阪神が負けたくらいで死ぬのはアホや」「アイドルなんてそんなもん。真剣になるな」「恋人に振られたくらいで死ぬなんて馬鹿だ」という意見の違いはどこにあるのか?

どっちも当人の死にたい気持ちを、他人が反対してることに違いはない。

 

だから、阪神、アイドル、恋愛で自殺する人を批判するな、と言ってるのではない。正反対だ。そういう反対意見が自由であるように、バチカンが「神は自殺を許さない」という反対意見も自由だということだ。

 

私個人は、尊厳死」だろうが安楽死」だろうが「自殺」だろうが、全部同じ「自殺」だと思うし、そして自殺は人間の自由だと思う。どんな理由だろうが、勝手にすればいい。

 

しかし、同時に、自殺を認めないバチカンの態度を支持する。彼らは正しい。

 

だいたい、なんで、このオレとバチカンの意見が一致しないといけないのか?

ナザレのイエスを、

自分探しの果てに政治に巻き込まれた、妄想癖のある大工の私生児と見るか、

全人類の原罪を背負う神の一人子と見るか、

なんて根本的なことで意見が一致しない同士なのに、

自殺の考え方だけが一致するわけねーじゃねーか(笑)。

 

神そのものが存在しないのに(笑)、神が許すも許さないもないだろう。

 

しかしバチカンの態度は正しい。

私には神が見えないだけで、彼らには彼らの神が見えているのだから、彼らが神に従うのは当たり前のことである。

私は自殺を自由だと思い、バチカンはそれを許さない。それでいいではないか。

 

「自由」と「正義」が対立して、

「人間」と「神」が対立して、

何がいけないのか?

 

中世のバチカンのように、自殺する人間やその家族に危害を加えるようだと話は違うが、暴力や物理的な嫌がらせはしないで、言葉だけで「神は自殺を認めない」と言い続ける事は、人間にあらゆる自由が認められたこの近代世界において、とても大切なことだ。

 

バチカンの主張する神が、妄想であり、イデオロギーであるように、

近代が生んだ自由だって、妄想であり、イデオロギーなんだから。

 

神がいないのと同様、人間が自由なわけがない(笑)。それはイデオロギーに過ぎない。

しかし人間は己のイデオロギーに生きるのだ。イデオロギーを持たない人間はいない。「私はイデオロギーを信じません」なんていうヤツが一番の馬鹿である。

 

バチカンの反論は、自由もイデオロギーに過ぎない、という「忘れがちの当たり前」を思い出させてくれるだけでもありがたいのである。

 

そもそも、逆の世界を想像してみよ。

バチカンみたいな多数の信者を抱えた組織が「自殺OK!」なんて言い出す方が、よっぽど恐ろしい世の中になる。

「自殺OK!」はすぐに「自殺幇助OK!」になり、事実上の「殺人OK!」に化けるのは時間の問題である。

 

どんなつまらない理由かはともかく、人間が自殺を真剣に考えるとき、「神は自殺を許さない」という意見はとても大事である。

その意見=障害を乗り越えるくらいの真剣さがあれば、自殺してもしょうがないではないか。

「神は自殺ウエルカム」なんて意見が蔓延して、中途半端な気持ちの人間の背中を押して自殺させるより、健全な世の中であることは間違いない。

 

自殺は神の御心への裏切りである。神は自殺を許さない。

しかし、神の御心ですら止められなかった自殺を、そこまで追い込まれた人間を、神は必ず許してくださるだろう。

すでに2000年前、自殺という原罪すらも、ナザレのイエスは分かち合ってくださったのだから。

 

新約聖書って、そういうお話(イデオロギー)だと思ってるんですが、

バチカンさん、どうかな?