在日琉球人の王政復古日記

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#自殺 #安楽死 #尊厳死 は「人間の自由」、と同時に、バチカン・教会が人間の自由に反対するのは「正しい」。

「神に対する罪」のバチカンを批判 米尊厳死女性の母親が反論 - 産経ニュース

2014.11.19
 【ロサンゼルス=中村将】尊厳死が合法化されている米西部オレゴン州で今月1日、末期の脳腫瘍を患っていたブリタニー・メイナードさん=当時(29)=が投薬によって死亡したことに関連し、母親のデビー・ジーグラーさんが娘の死を批判したローマ法王庁バチカン)に反論したことが分かった。
 バチカン側はメイナードさんの死後、「尊厳というのは人生を終わらせることではない。安楽死は神と創造に対する罪である。非難すべきことである」とするメッセージを発していた。
 これに対し、ジーグラーさんは、尊厳死を支援する米団体のホームページで「29歳の娘に肉体的、精神的に襲いかかる激しい痛みを知らない、大陸を隔てた見知らぬ人に非難されることではない」とし、「この批判は、ほほを平手打ちされる以上のこと」と家族の気持ちを記した。
 メイナードさんは今年1月、脳腫瘍と診断され、4月には余命半年と宣告された。当時暮らしていたカリフォルニア州から、死を選ぶ末期患者への医師による薬剤の処方が認められているオレゴン州に転居。10月に入ると発作が頻発するようになり、「夫の名前も言えない痛み」にたびたび悩まされていた。彼女の死をきっかけに、尊厳死の是非に関する議論が米国内外で活発化している。

 

尊厳死」だの「安楽死」だの、どっちがどっちなのかややこしいが、

病気などの耐え難い苦しみの中、

・強制的な延命措置を止めて、死の訪れを阻止しない。

・死に至る医学的行為を故意に積極的に行う。

このどっちかを尊厳死」と呼び、残りを「安楽死」と呼ぶらしい。

どっちがどっちなのか、よく知らない。

そしてどっちも、ただの「自殺」とは分けて考えるらしい。

 

私にはその区別・その判断が判らない。

ていうか、どうやってデジタルに線が引けるのか?

引いた上で、他人の死にたい気持ちに「上下」をつけられるのか?

 

末期癌の苦しみの中、早く楽にしてくれと思う、

進行する認知症で、自分の理性が失われる前に、自分が自分の間に死にたい、

それと

事業が失敗して借金でどうにもならない、

政府の悪政に抗議する、

阪神タイガースが負けて頭が真っ白だ、

信じてた乃木坂46がまたスキャンダルだ、

この人だけはと思っていた愛しい恋人に振られた、

長年連れ添った女房が死んで寂しくてたまらない、

言葉には出来ない、ただ、なんとなく、生きていたくない、

などなどとの違いは何なのだろうか?

 

阪神が負けて悔しいのは馬鹿馬鹿しい理由で、末期癌の痛みはホンモノか?

どっちにしても私は当人じゃない。

どっちがどれくらい真剣なのか、上下はつけられるのか?

プロ野球の負けや、アイドルが処女じゃなかったことが、当人には耐え難い精神的苦痛かもしれない。私には理解不能なだけだ。

仮に、阪神やアイドルが客観的に馬鹿馬鹿しい理由だとして、その「客観」を個人に強制してもいいのだろうか?

 

脳腫瘍で余命わずかのアメリカ女性の尊厳死安楽死?に対して、バチカンが批判した。

そのバチカンの態度に対して、ネットでは反論や異議が上がってるようだが、

 

「神は、尊厳死安楽死?を許さない」というバチカンと、

阪神が負けたくらいで死ぬのはアホや」「アイドルなんてそんなもん。真剣になるな」「恋人に振られたくらいで死ぬなんて馬鹿だ」という意見の違いはどこにあるのか?

どっちも当人の死にたい気持ちを、他人が反対してることに違いはない。

 

だから、阪神、アイドル、恋愛で自殺する人を批判するな、と言ってるのではない。

正反対だ。

そういう反対意見が自由であるように、バチカンが「神は自殺を許さない」という反対意見も自由だということだ。

 

私個人は、尊厳死」だろうが安楽死」だろうが「自殺」だろうが、全部同じ「自殺」だと思うし、そして自殺は人間の自由だと思う。どんな理由だろうが、勝手にすればいい。

しかし、同時に、自殺を認めないバチカンの態度を、私は支持する。

 

私(人間)は私(人間)で自由だ。同時に、彼ら(神)は彼ら(神)で正しい。

私(人間)と彼ら(神)は対立する。それでいいではないか。

 

そもそも、なんで、このオレとバチカンの意見が一致しないといけないのか?

ナザレのイエスを、

自分探しの果てに政治に巻き込まれた、妄想癖のある大工の私生児と見るか、

全人類の原罪を背負う神の一人子と見るか、

なんて根本的なことで意見が一致しない同士なのに、

自殺の考え方だけが一致するわけねーじゃねーか(笑)。

 

神そのものが存在しないのに(笑)、神が許すも許さないもないだろう。

 

しかしバチカンの態度は正しい。

私には神が見えないだけで、彼らには彼らの神が見えているのだから、彼らが神に従うのは当たり前のことである。

私は自殺を自由だと思い、バチカンはそれを許さない。それでいいではないか。

 

「自由」と「正義」が対立して、

「人間」と「神」が対立して、

何がいけないのか?

 

中世のバチカンのように、自殺する人間やその家族に危害を加えるようだと話は違うが、暴力や物理的な嫌がらせはしないで、言葉だけで「神は自殺を認めない」と言い続ける事は、人間にあらゆる自由が認められたこの近代世界において、とても大切なことだ。

 

バチカンの主張する神が、妄想であり、イデオロギーであるように、

近代が生んだ自由だって、妄想であり、イデオロギーなんだから。

 

神がいないのと同様、人間が自由なわけがない(笑)。それはイデオロギーに過ぎない。

しかし人間は己のイデオロギーに生きるのだ。

イデオロギーを持たない人間はいない。「私はイデオロギーを信じません」なんていうヤツが一番の馬鹿である。

 

バチカンの反論は、自由もイデオロギーに過ぎない、という「忘れがちの当たり前」を思い出させてくれるだけでもありがたいのである。

 

そもそも、逆の世界を想像してみよ。

バチカンみたいな多数の信者を抱えた組織が「自殺OK!」なんて言い出す方が、よっぽど恐ろしい世の中になる。

「自殺OK!」はすぐに「自殺幇助OK!」になり、事実上の「殺人OK!」に化けるのは時間の問題である。

 

どんなつまらない理由かはともかく、人間が自殺を真剣に考えるとき、「神は自殺を許さない」という意見はとても大事である。

その意見=障害を乗り越えるくらいの真剣さがあれば、自殺してもしょうがないではないか。

「神は自殺ウエルカム」なんて意見が蔓延して、中途半端な気持ちの人間の背中を押して自殺させるより、健全な世の中であることは間違いない。

 

自殺は神の御心への裏切りである。神は自殺を許さない。

しかし、神の御心ですら止められなかった自殺を、そこまで追い込まれた人間を、人間の痛みを、人間の苦しみを、神は必ず許してくださるだろう。

すでに2000年前、自殺という原罪すらも、ナザレのイエスは分かち合ってくださったのだから。

神は、そんな罪深き無力な人間たちを救済するために、彼のひとり子を地上に遣わされたのだ。

 

新約聖書って、そういうお話(イデオロギー)だと思ってるんですが、

フランシスコ法皇猊下、如何でございましょうか?

  

「死後の世界」は2つある(ただしどっちも無い)~パッケージに笑顔の写真「私が育てました」 #尊厳死 #安楽死 - 在日琉球人の王政復古日記