在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

法VS人間~《決闘》は「暴力」ではない~ボンクラ小僧どもの「国家反逆クーデタ」。

恐るべき大犯罪である。

 

今ニュースになっている、ありとあらゆる事件の中で最も深刻である。このボンクラ小僧たちの犯罪の「政治的意味」に比べれば、日中首脳会談も、解散総選挙も、ハナクソ程度である。

 

これは、いわゆる殺人、強盗、暴行のような「低レベルの犯罪」ではない。
このボンクラ小僧どもの犯した犯罪は、おそろしく高度なものである。

これは「国家に対する反逆」なのだ。

 

決闘の約束した疑い、少年2人送検 警察の更生策は…:朝日新聞デジタル

  対立する少年グループ同士で決闘の約束をしたとして、警視庁は12日、土木業の少年(17)=東京都武蔵村山市=と解体工の少年(17)=東京都府中市=を決闘罪に関する件違反の疑いで書類送検し、発表した。

 少年事件課によると、2人はそれぞれ、東京都福生市府中市を拠点とするグループのリーダー。8月21~23日未明にかけて電話で数回やりとりし、土木業の少年が解体工の少年に「俺とやろうぜ」と決闘を申し込み、解体工の少年は応じた疑いがある。
 同月22日深夜に府中市の大国魂(おおくにたま)神社に高校生7人を含む16~17歳の計29人が集まったが、福生市のグループが金属バットを用意しているのを見て、府中市のグループがその場から逃げたため、決闘はなかった。
 少年らは「けが人が出なくてよかった」と反省しているという。警視庁は今月末に警察官チームを結成し、両グループの混合チームとソフトボールで対戦する。その場でグループを解散させて更生を促すという。
 決闘罪に関する件は1889(明治22)年制定の特別法。 

 

変な言い方になるが、「決闘」とは、「暴行」ではない。 

「決闘」とは「国家反逆」「脱税」「クーデタ」に近い犯罪である。

また、決闘した当事者よりも、立会人のほうが、はるかに犯罪性が高い。

 

「決闘」というのは、個人または集団における、国家権力を無視した、暴力による「自力救済」である。
日本でも西洋でも、前近代・中世は、それが当たり前であった。当時の国家(幕府、朝廷)は、個々の対立を救済したり面倒を見るたりするだけの意思も能力も無かった。
個人同士の争い、集団(村、町、寺院)同士の争いは、すぐに喧嘩となり、エスカレートして武器を持った小規模戦闘に発展した。中世においては村人も都市民も寺社も平気で決闘した。当然簡単に死人が続出した。 

というか「桶狭間」も「川中島」も「関が原」も、双方の対立を法律を経由せず暴力で解決する、自力救済の喧嘩、「決闘」の一種なのだ。規模の大小が異なるだけで、背後に流れる理念は同じである。

 

そんな「双方話し合いの上での解決」ならぬ「双方殺し合いの末での解決」が横行すると、人員、治安など社会資源の損失が大きすぎる。社会が疲弊する。
よって徐々に抑制が始まる。逆にいえば抑制できるだけの強力な権力が誕生する。それが「幕府」とくに徳川幕藩体制である。
大規模な闘争は禁止され、政治現場での闘争も禁止される。

禁止の基準は、喧嘩をしたら内容の如何、正当性の有無など問答無用で、双方を罰する。「喧嘩両成敗」だ。 

逆に、双方合意がなく、一方に喧嘩する意思も行為もなければ、喧嘩とは見做されない。

 

典型例は元禄忠臣蔵の「刃傷松の廊下」だ。
ドラマや小説のせいで世間には誤解があるが、あれは決闘でも喧嘩でもない。
浅野内匠頭はやる気満々だが、吉良上野介はやる気がないからだ。
浅野内匠頭は抜刀したから「切腹」なのである。
吉良上野介は抜刀していないから「お咎めなし」で当たり前なのだ。

「自力救済」が原則の鎌倉や室町の中世の世界ならば「浅野のやり得、吉良のやられ損」だが、
江戸時代になると「浅野のやり損、吉良のやられ得」になる。
それだけ、幕府が公権力としての実体・実力を持つようになったのだ。

 

ところで、なぜ、浅野内匠頭切腹なのか?罰せられたのか? 
言い方を変えれば、浅野内匠頭の抜刀・刃傷は「誰に対する」犯罪なのか? 
これは吉良上野介に対する犯罪ではないのだ。徳川幕府に対する犯罪なのである。
「抜刀しちゃだめですよ」「刃傷しちゃだめですよ」と決めた徳川幕府に対する反逆だからこそ、浅野内匠頭切腹なのである。

 

平成のボンクラ小僧たちのケンカ=決闘は、敵対する相手に対する傷害などというチンケな犯罪ではない。「日本国」の主権を侵害した国家的犯罪なのだ。 
「暴力は国家権力が独占保有するから、君たち国民は勝手に使わないでね」という近代国家の基本理念を破ったから犯罪なのである。

「暴力の行使」という「国家しかやっちゃダメな行為」「国家が独占的に保有する権能」を簒奪したから「国家に対する犯罪」なのだ。
国家の存在意義(なぜ国家が必要なのか?)を害したという意味では「国家転覆」と同じである。
つまり「決闘」は、「暴行」というより、国家の権能に対する挑戦という意味で「脱税」に近い。

 

決闘罪こそは、近代国家の根幹を成す刑罰だ。
近代は、国家が、国内全ての暴力を独占保有する体制だからである。
逆に言えば、
決闘罪がある(決闘を否定する)国家は、近代国家
決闘罪がない(決闘を黙認する)国家は、前近代国家
と呼びうる。

 

「殺人」「暴行」が国家によって取り締まられるのは、国家の独占物(暴力)を、個人が勝手に行使するのを、国家が許さないからである。
ただし、「殺人」や「暴行」は、加害者Aのみの国家反逆(勝手な暴力行使)であり、被害者Bに国家反逆(勝手な暴力行使)の意思が無い。まだマシだ。

 

しかし「決闘」は、当事者AとBの双方が、国家反逆(勝手な暴力行使)を行う点で、殺人や暴行よりもさらに「反・国家」的である。
「決闘」は、「国家の独占物である暴力を、国家に無許可で、お互いに使用しよう」という双方の密約・共同謀議・国家財産(暴力)の強奪、国家反逆である。

国家から見れば、殺人よりも暴行よりも、決闘の方が、はるかに犯罪性が高い行為なのだ。

 

さらに「暴力を行使した決闘の当事者」よりも「暴力を行使しない立会人」の方がはるかに犯罪的である。
「決闘者」は、暴力の行使という、国家の枝葉の部分を簒奪しただけだが、
「立会人」は、暴力の許可という、国家の心臓部を簒奪したのだ。
このボンクラ小僧どもは国家を「代行」したのである。これは「クーデタ」である。

 

徳川幕府江戸城松の廊下を実力支配していたが、日本政府は日本全国を実力支配している。日本全国が「松の廊下」となった。それが近代ということだ。

言い方を変えれば、安全を得る為に、自由を放棄した歴史でもある。個人の「殺し合う自由」を放棄し、国家権力の無敵の強大化を容認してきた。それを「進歩」と呼んできたわけだ。

 

法VS人間~死刑になりたいなら、殺人は無駄。確実なのは内乱・外患誘致。ただし難問が。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

しかし、ホントに「進歩」だったのか?


ボンクラ小僧どもは、喧嘩をした。決闘をした。
これは言い換えれば、2人または2つの集団が【国家の介在抜きに・国家の保護無しに】お互いがお互いを「対等の権利保有集団」と相互承認したことになる。
「オレとオマエは対等な人格である」と認め合ったからこそ喧嘩・決闘が成立したのだ。対等でない集団の間では、たとえば大学生と小学生の間には喧嘩や決闘は成立しない。

 オレとオマエは対等な人格だ。しかも国家権力は必要ない。 

これは自由至上の世界、リバタリアンの世界である。

 なぜ、喧嘩・決闘などの暴力行為に、人間は魅せられるのか? 

それは、人間がそこにリバタリアン的なアナーキーユートピアを見るからではないかと思う。

 

ただし、そのユートピアで、はたして人間は眠ることができるのか?、という難題に直面することになる。

 

自由と平等だけの「眠れない」世界(その1)~映画「シティ・オブ・ゴッド」~ブラジル警察、1日平均6人「殺害」 - 在日琉球人の王政復古日記