在日琉球人の王政復古日記

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『犭二』『犭犭』の発見~インドの感電サルVS支那の孔子。

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全文表示 | サルの「美談」、実は人間の誤解だった? 気絶状態の仲間を救助したように見えたが... : J-CASTニュース

2014/12/24

感電して意識を失ったサルを仲間のサルが助けようとした「救出劇」がインドで話題だ。日本でもテレビ番組内で紹介されるなどして注目を集めている。
ところが、この「美談」は人間目線の都合のいい解釈に過ぎない可能性もあるようだ。

 

上位ザルに「逆転」するチャンスだった?
「奇跡の救出劇」は2014年12月20日、インド北部カンプールの鉄道駅で目撃された。一部始終をとらえた動画を見てみると、最初に一匹のサルがぐったりとしたまま線路の脇に倒れているのが分かる。電線の上を歩いていた際に感電し、意識を失ってしまったらしい。
そこに仲間のサルが現れると、感電したサルの頭や首に何度も噛みつき、激しく揺すり始めた。それでも目を覚まさないと今度は地面に体を打ち付ける。ついにはサルを線路脇の水路に投げ込むという少々手荒な行動に。するとサルは意識を取り戻し、一命を取り留めた。回復後は助けたサルが背中をさするような姿も見られ、「観客」も温かく見守っていた。
インドのメディアは、仲間を救ったサルを「ヒーローモンキー」「スーパードクター」などと称賛し、日本のメディアも「仲間が必死の救出劇」「仲間が懸命救助」などと紹介した。動画を見た人たちからは、
「めっちゃ感動」「仲間を気遣う気持ちは人間と変わらない」「凄い雑だけど優しい気持ちに癒やされた」「人間だったらスマホで写真撮ってる奴ばっかりなんだろうな」
といった声が続々とあがり、「美談」「感動話」として反響を呼んでいる。
ところが、サルが救出したとの捉え方には懐疑的な見方を示す専門家も少なくない。京都大学霊長類研究所古市剛史教授は22日放送のNHKニュースウオッチ9」のインタビューの中で、救出説を次のように否定した。
「噛み付いたり水路に突き落としたら、相手が覚醒するかもしれないということを(サルが)考えるわけがありませんので、おそらくこれは救助ではなくて攻撃だったんだと思います」
古市教授は、感電したサルは助けたとされるサルにとって「頭の上がらない存在」だったと説明。その上で、相手が身動きのとれない状態だと確認したため「引きずり下ろす千載一遇のチャンス」だと考えて、こうした行動に出たものではないかと分析した。
労わっているように見えた背中を撫でる行動についても「相手が覚醒してしまったら、昔通りの関係に戻るんですね。相手が身動きの取れない時間帯だけが、一種独特の攻撃行動を誘発する時間帯なんじゃないかなと思います」と語った。
単なる状況確認、水に落としたのも「たまたま」
東武動物公園(埼玉県)の下康浩飼育課長も23日放送の「ひるおび!」(日テレ系)のインタビューで「助けているというよりは、動かなくなった仲間をいじくり回している感じに見えますけど...」と救助説に疑問を投げかけた。水の中に落とす行動も「息を吹き返すためではなくて、色々動かしているところに水があり、たまたま水に入ったのではないかと思う」と話した。
日本モンキーセンター(愛知県)の伊谷原一園長は、異変が起きた仲間の状況確認だったと見る。
「助けるというかやっぱり気になりますよね。その時まで一緒にいたやつが急にああ(動かなく)なったら、人間でも同じように『大丈夫ですか』と声をかける。あれと同じだと思います。確認したいんだと思いますね」(23日放送「ひるおび!」より)
真相は分からないものの、専門家の意見を聞いた上でもう一度動画を見ると違った印象を受ける人も少なくないだろう。
ちなみに8月ごろには、ハンガリーブダペストにある動物園でカラスが池で溺れているところをクマが助け、襲うことなくその場を立ち去ったという「感動話」が話題になった。しかしこれについても「カラスに興味をもち引き上げたものの、鼻をクチバシで突かれたためその場を離れた」という専門家の意見がテレビ番組で紹介され、動物の「友情」を信じたかった人々からは残念がる声が漏れていた。

 

世界にはいろんな宗教があるが、無人島に持っていくと、つまりこの世に人間が一人ぼっちになってしまうと、成立しない宗教がある。儒教はその典型だ。

 

キリスト教は究極的には「神-個人」の関係である。

1人の人間が如何に神と向き合い悔い改め、神が人間を救済するか、という宗教である。キリスト教は世界に人間が1人だけになっても成立する。

 

仏教も究極的には「世界-個人」の関係である。

1人の人間が如何に世界の本質を覚り、この「生命の牢獄」から脱出できるか、という宗教である。世界に人間が1人だけになっても成立する。

 

しかし儒教はそうはいかない。

儒教は、親子・君臣・師弟、つまり「他人」が存在しないと成立しない宗教なのだ。儒教根本要素である「礼」も「仁」も「孝」も、複数の人間がいてこそ成立する話である。

 

ロビンソン・クルーソー無人島でいくらでもキリスト教仏教を極められるが、儒教は不可能である。

他人であるフライデーがやってきて、初めて、儒教は成立するのである。

 

インドのサルが感電した別のサルを蘇生させたらしい。

自分が得するわけでもないのに、困っている別人を助ける。他人との類的共感性、それが孔子の説いた「仁」である。

 

「仁」という漢字は「人と人」が向かい合ってる形である。

人人→亻亻仁」だ。

孔子は他者同士でも発生する高度な類的共感性は、人間同士の間でのみ成立すると考えた。

もちろん畜生においても、親が子を養い、子が親を慕う、親子関係は成立するだろう。この親子関係性が、他者同士の「仁」の原初である。ゆえに親子という人間関係は儒教にとって最重要なものとなる。

 

ここら辺が無人島の1人でも成立するキリスト教仏教は異なる。

エスは母や兄弟や養父を捨てたし、釈迦も親や妻や子を捨てた。

究極的には、キリスト教も、仏教も、家族を破壊・解体する。

キリスト教は、家族の血の絆より、神との関係を重視する。

仏教では、家族の血の絆、愛こそが地獄の始まりである。

 

キリスト教も、仏教も、どっちも、儒教の「仁」を否定する宗教なのだ。

エスなら『「人と人」より、「人と神」でしょう、孔子さん』と言うだろうし、

釈迦なら『人と人」? 頼むからオレを一人にしてくれ、孔子殿』と言うだろう。

 

孔子は、その親子関係を、血の繋がらない人間社会全般にまで発展・昇華させたモノを「仁」と呼んだ。

人間が、親子のエゴしかない畜生世界からテイクオフするためのジャンピングボード、それが「仁」というわけである。

 

「仁」があるからこそ、人間は畜生と異なり、人間なのである。 

言い方を変えれば、「仁」あれば人間なのだ。

 

しかしインドのサルが教えるところでは、サルにも血縁を越えた類的共感性があるという。 

儒教の説く、人間の『仁』ならぬ、ケモノの仁=『犭二』または『犭』の発見だ。

これが本当ならば、儒教は根本的に再考する必要がある。

ダーウィンとの関連も考える必要がある。 

 

キリスト教ダーウィンは完全に対立する。

ダーウィニズムは、神の不在、または不要の証明だからだ。

 

仏教ダーウィンと同じように世界を見ている。

ダーウィンの発見した自然淘汰こそ、釈迦の発見した諸行無常である。

釈迦にすれば「ダーウィンさんは正しい。しかしオレは、そんな苦しみしかない悪魔の生命サイクル=ダーウィン世界に居たくない」ということだ。

 

儒教ダーウィンと同じように世界を見ている。

そして遺伝子メカニズム・生命の連続性「孝」を尊重しながらも、無機的で非情なダーウィン自然淘汰を超えた「仁」を目指す。

 

もし、サルにも「仁」、いや畜生世界にも『犭二』『犭犭』があるのなら、

エスは「でも、サルは、仲間を認識できても、神は認識できないでしょ?」と反論し、

釈迦は「だから、この世への執着を捨てきれない畜生は、人間と変わらない、って言ってんじゃん。どっちも輪廻から逃れられない呪われた存在なのよ」と笑うだろう。

さて、孔子はそれをどう解釈しただろう?