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在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

『犭二』『犭犭』の発見~インドの感電サルVS支那の孔子。

02.宗教/思想/科学

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全文表示 | サルの「美談」、実は人間の誤解だった? 気絶状態の仲間を救助したように見えたが... : J-CASTニュース

感電して意識を失ったサルを仲間のサルが助けようとした「救出劇」がインドで話題だ。日本でもテレビ番組内で紹介されるなどして注目を集めている。
ところが、この「美談」は人間目線の都合のいい解釈に過ぎない可能性もあるようだ。

 

世界にはいろんな宗教があるが、無人島に持っていくと、つまりこの世に人間が一人ぼっちになってしまうと、成立しない宗教がある。儒教はその典型だ。

 

キリスト教は究極的には「神-個人」の関係である。1人の人間が如何に神と向き合い悔い改め、神が人間を救済するか、という宗教である。キリスト教は世界に人間が1人だけになっても成立する。

 

仏教も究極的には「世界-個人」の関係である。1人の人間が如何に世界の本質を覚り、この「生命の牢獄」から脱出できるか、という宗教である。世界に人間が1人だけになっても成立する。

 

しかし儒教はそうはいかない。儒教は、親子・君臣・師弟、つまり「他人」が存在しないと成立しない宗教なのだ。儒教根本要素である「礼」も「仁」も「孝」も、複数の人間がいてこそ成立する話である。

 

ロビンソン・クルーソーは無人島でいくらでもキリスト教仏教を極められるが、儒教は不可能である。

他人であるフライデーがやってきて、初めて、儒教は成立するのである。

 

インドのサルが感電した別のサルを蘇生させたらしい。

自分が得するわけでもないのに、困っている別人を助ける。他人との類的共感性、それが孔子の説いた「仁」である。

 

「仁」という漢字は「人と人」が向かい合ってる形である。

人人→亻亻仁」だ。

孔子は他者同士でも発生する高度な類的共感性は人間同士の間でのみ成立すると考えた。

もちろん畜生においても、親が子を養い、子が親を慕う、親子関係は成立するだろう。この親子関係性が、他者同士の「仁」の原初である。ゆえに親子という人間関係は儒教にとって最重要なものとなる。

 

ここら辺が無人島の1人でも成立するキリスト教仏教は異なる。

イエスは母や兄弟や養父を捨てたし、釈迦も親や妻や子を捨てた。

究極的にはキリスト教仏教も家族を解体する。

キリスト教は、家族の血の絆より、神との関係を重視する。

仏教では、家族の血の絆、愛こそが地獄の始まりである。

 

どっちも儒教の「仁」を否定する宗教なのだ。

イエスなら『「人と人」より、「人と神」でしょう、孔子さん』と言うだろうし、

釈迦なら『人と人」? 頼むからオレを一人にしてくれ、孔子殿』と言うだろう。

 

孔子は、その親子関係を、血の繋がらない人間社会全般にまで発展・昇華させたモノを「仁」と呼んだ。人間が、親子のエゴしかない畜生世界からテイクオフするためのジャンピングボード、それが「仁」というわけである。

 

「仁」があるからこそ、人間は畜生と異なり、人間なのである。 

言い方を変えれば、「仁」あれば人間なのだ。

 

しかしインドのサルが教えるところでは、サルにも血縁を越えた類的共感性があるという。 

儒教根本要素・人間の『仁』ならぬ、ケモノの仁=『犭二』または『犭』の発見だ。

これが本当ならば、儒教は根本的に再考する必要があるわけだ。ダーウィンとの関連も考える必要がある。 

 

キリスト教ダーウィンは完全に対立する。

ダーウィニズムは、神の不在、または不要の証明だからだ。

 

仏教ダーウィンと同じように世界を見ている。

ダーウィンの発見した自然淘汰こそ、釈迦の発見した諸行無常である。

釈迦にすれば「ダーウィンは正しい。しかしオレは、そんな苦しみしかない悪魔の生命サイクル=ダーウィン世界に居たくない」ということだ。

 

儒教ダーウィンと同じように世界を見ている。

そして遺伝子メカニズム「孝」を尊重しながらも、自然淘汰を超えた「仁」を目指す。

 

もしサルにも「仁」、いや畜生世界にも『犭二』『犭犭』があるのなら、
孔子はそれをどう解釈しただろう?