在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

孔子「苛政猛於虎也」~アメリカ憲法修正第2条が世界の共産化を防いだ。

アメリカ合衆国憲法修正第2条(人民武装権利)
『規律ある民兵(ミリシア)は自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利はこれを侵してはならない。』

 

スーパーで2歳の男児が誤射、母死亡 米アイダホ州 - 産経ニュース

 米アイダホ州ヘイデンのスーパー「ウォルマート」の店内で30日、2歳の男児が、買い物中の母親(29)がバッグ内にしまっていた銃を誤って発砲、母親が死亡した。米メディアが報じた。
 ショッピングカートに乗った男児は母親のバッグに手を入れて中にあった銃を握り、1発発砲した。母親は銃を携行する許可証を持っていた。事件当時、男児以外にも3人の子供が一緒にいたという。同店は事件後閉店した。
 ヘイデンは人口9千人ほどの保守的な町で、銃所持の権利を主張する共和党が優勢な地域。

 

日ごろ共和党ヨイショの産経新聞にしては、この悲劇に対して、ちゃんと「銃所持の権利を主張する共和党」と書いてあるのは誠実で素晴らしい。

 

海外のtwitterを見ると、

銃規制反対派の本家・全米ライフル協会のスローガン

"Guns don't kill people, people do."

「銃(それ自体)が人を撃ち殺すのではない。(悪意から銃を使う)人が他人を撃ち殺すのだ」

をパロッて、

"Guns don't kill people, toddlers do their mother."

「銃(それ自体)が人を撃ち殺すのではない。(悪意などあるはずがない)赤ん坊が自分のママを撃ち殺すのだ」

みたいな皮肉がちょこちょこあった。

銃規制賛成派のリベラル派か、ヨーロッパ人だろう。

 

アメリカ銃規制反対派の有力な根拠は「銃規制は憲法違反だ!」ということだ。 

アメリカ合衆国憲法修正第2条は、アメリカ独立戦争という「建国時の戦争経験=トラウマ」に強い影響を受けている。それは他の条文からも明らかだ。

 

アメリカ合衆国憲法修正第3条(兵舎の制限)
平時においては、所有者の同意を得ない限り、何人の家屋にも兵士を舎営させてはならない。戦時においても、法律の定める方法による場合のほか、同様とする。 

 

こんなの、再びイギリスがいつ攻めてくるか判らない、なんていう独立戦争当時なら意味はあっても、19世紀以降から21世紀の現在まで、アメリカにはほとんど適用例がない。

 

※ただし、琉球には、この修正第3条(兵舎の制限)を適用して欲しい(笑)。
琉球がアメリカになったら、在琉米軍基地は修正第3条違反だ!

 

しかし現在のアメリカにはもはや意味がない修正第3条は今でも残っている。同じく修正第2条も今となっては無意味いや社会的に無益有害な改正すべき条文、、、と考えられなくもない。

これは面白いことに、日本の憲法問題に良く似ている。

日本の戦後憲法第9条大東亜戦争敗北という「亡国の戦争経験=トラウマ」が生んだ条文であり、21世紀にもなって、国際情勢も大きく変わった今となっては無意味いや安全保障上無益有害な改正すべき条文、、、という主張になるわけだ。

 

しかし、この条文(修正第2条/第9条)こそが、憲法ともに誕生した新しい国家(アメリカ合衆国/戦後平和ニッポン)の理念(独立/平和)の中核であり、変える事は出来ない!という反論もあるわけだ。

まあ日米で改憲vs護憲の左右は完全に逆転してるんだが(笑)。

 

さて、アメリカ社会に流血をもたらし続けている、この野蛮で血生臭い「修正第2条」は、世界史においてどういう役割があったのだろうか?

もしも、この地球にアメリカ合衆国という国が存在しなかったら?、存在していても修正第2条なんかをすぐに廃止して、ヨーロッパみたいな普通の国家に変貌していたら? ・・・おそらく世界は「共産主義化」していた可能性がかなり高くなっていただろう。
銃を取るのが平気な、軍事オプションへのためらいが少ないアメリカ無くして、イギリス・フランス・ドイツ、あるいは日本だけで、人間の命を屁とも思わない(笑)ソヴィエト共産党に軍事的・経済的に対抗するのはけっこう厳しかったと思われるからだ。

 

思想の前には人間の命を屁とも思わない「共産主義の野蛮」に互角以上に張り合える対抗馬としての、武装するのは当たり前、邪魔者には躊躇わずに引き金は引く、こっちも独立を守るためなら人間の血を流すのに平気な「建国精神の野蛮」(どっちも【革命】の産物だ)は、世界史の流れを確実に変えた。

 

支那古典にこのような話が載っている。

孔子泰山の側を過ぐ。婦人墓に哭する者有りて哀げ也。夫子式して之を聴き、子路をして之に問わしめて曰く、子の哭くするや、壱に重ねて憂い有る者に似たり。而ち曰く然り。昔者吾舅と虎に死し、吾夫又また死し、今吾子又また死せり。夫子曰く、何の為ぞ去らざるやと。曰く、苛政無ければ也。夫子曰く、小子之を識るせ、苛政は虎よりも猛也。』(礼記

孔子が弟子たちとの亡命旅行中、泰山を過ぎようとしたとき、墓前で号泣する婦人を観る。
理由を尋ねると婦人は「私の家族は、舅も、夫も、そして息子まで野生の虎に食い殺されたのです」と答える。
孔子は「人食い虎の出るような危険な土地からなぜ逃げないのか?」と問う。
婦人は「この僻地には虎はいても、圧政を敷く暴君の手は届きませんから」と返事する。
孔子は弟子に命じる「お前たち肝に銘じよ。過酷な悪政は人食い虎より恐ろしいことを」

 

これこそ、孔子の「憲法修正第2条」である(笑)。

人食い虎よりも、悪政のほうが、恐ろしい。

銃を乱射するキチガイより、あれこれと権利を縛る連邦政府のほうが、自由の敵だ。

個別の散発的暴力より、国家の組織的・制度的暴力の方が、危険だ。

 

紀元前、支那の泰山に生きた老母は、野生の虎に息子を食い殺されるような苛酷な環境にありながら、御領主様に虎退治を頼まない。虎(=銃)より、権力(=苛政)の方を恐れるのだ。

21世紀のアメリカでも、2歳児が実の母を撃ち殺すような環境にありながら、アイダホ州民はオバマに銃規制を訴えない。銃より、連邦政府の権限拡大を拒否するのである。

 

最悪なのは国家の暴力だ・・・この考え方を敷衍すると、国家の役割を最小限とし、個人の自由を最大限とする「リバタリアン」思想となる。

ただし、支那孔子とアメリカのリバタリアンには、微妙な、そして決定的な違いがある。

 

孔子は「苛政(悪政)は虎よりも猛也」とは言ったが、「全ての政治は虎よりも恐ろしい」とは言わなかった。政治には「苛政(悪政)」もあれば「虎よりマシな善政」もあると考える。孔子は「虎におびえる老母が引越して住みたくなるような善政」を目指した政治家なのである。決して国家不要を訴えるリバタリアンではなかった。

しかしリバタリアンは「孔子さん、悪政と善政を区別するのはアンタじゃない。オバマでもない。人間は誰も区別なんか出来ないんだよ」と反論するだろう。

 

ここが支那とアメリカの分かれ道である。
それが、野蛮な共産主義に対抗した、野蛮なアメリカン・スピリットでもある。

 

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