在日琉球人の王政復古日記

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武藤貴也その2~砂川判決の田中耕太郎VS「裁判所万能論」を廃す。

武藤貴也その1~武士道・日本精神を選ぶか?国民主権・基本的人権を選ぶか?~あなたと私の選択。 - 在日琉球人の王政復古日記

の続き。

 

武藤さんの新しい日記を読んだ。

 

「国民に課せられる正義の要請」|武藤貴也オフィシャルブログ「私には、守りたい日本がある。」Powered by Ameba

 このように、田中裁判長は自国の防衛を考慮しない態度も、他国の防衛に熱意と関心を持たない態度も、憲法が否定する「国家的利己主義」だと言っています。そしてその上で、真の自衛の為の努力は、正義の要請であるとともに、国際平和に対する義務として「各国民に課せられている」と言っています。

つまり、「SEALDs」の方が仰る「だって、戦争に行きたくないもん」という自分個人だけの感情で、今議論されている平和安全法制に反対するのは、田中最高裁長官の言うように「真の平和主義に忠実なものとは言えない」と私も考えます。

 

ここで出て来る、自民党金科玉条、砂川判決に関しては、前に書いた。

 

「日米安保条約VS日本国憲法」~砂川判決。禁酒法。統治行為論。日本司法の野合。 - 在日琉球人の王政復古日記

典型例が、自民党が持ち出す「砂川判決」である。
判決の意味を簡単に言えば、日本の司法は、日本の行政の邪魔をしない。アメリカの日本における政治軍事活動の邪魔はしない。つまり司法と行政のツーカーということだ。

砂川事件は戦後の話だが、裁いた田中耕太郎裁判長は明治の生まれ。戦前の教育を受け、戦前の司法でメシを食ってきた人物である。彼が戦後憲法日米安保より優先する義理はなにもない。 

特に田中耕太郎は、反共・親米のクリスチャン。 

 

田中耕太郎さんは、まず結論が最初から「司法は日米安保条約の邪魔はしない」と決まっていて、そこから逆算して美しい理屈を考え出してるだけだ。

 

まあ、それでも司法は司法である。

砂川判決を武器に使うのは、戦法としてはアリだと思うが、武藤さんの場合は、過去にこんなことを書いてしまっている。

 

司法は科学よりも科学的に勝るのか ~「裁判所万能論」を廃す~|武藤貴也オフィシャルブログ「私には、守りたい日本がある。」Powered by Ameba

「裁判所万能論」を廃し、国民の利益を守れ
 裁判所は万能ではない。まして科学的分野においては、研究所を裁判所が兼ね備えているわけもなく、尚更万能とは言えず、科学的見地において確立された事柄に、本来口を挟むべきではない。

 

ご本人が司法の万能性を否定してるんだから、砂川判決だって万能ではない。

科学的分野が司法の専門外だというのなら、それこそ同志社学長・ダンディ村田が喝破したように、外交や国際政治や安全保障だって司法の専門外である。

となれば、砂川の田中裁判長だって、twitterで有ること無いこと書いてる一般人と同等の信頼性しかないわけだ。

 

なにしろ、武藤さんは裁判所万能論を否定しているのである。

原発に関する都合の悪い判決を否定するために裁判所自体を否定したのだから、都合のイイ判決だけを自説の補強に持ち出すのはダメであろう。

 

しかし武藤さんはイイことを書いている。

 

裁判所が間違えた場合はどうするのか

 今回の判決を行った裁判長は、これをもって名古屋の家裁に異動になるようだが、裁判所が特定のイデオロギーや偏見に基づいて判決を行う、あるいは事実について誤認や誤解をして判決を行っていたのでは、「法の支配」は中立性を失い、極めて不公平・不当なものになってしまう。更にそれが国益に影響を及ぼす場合、その損失は計り知れない。 

 

原発判決における司法に特定のイデオロギーや偏見の疑いがあるのなら、

砂川判決における司法にも特定のイデオロギーや偏見の疑いを持ってもイイわけだ。

 

英米の発想である「法の支配」(←やっぱ出た出た笑)と、フランス革命臭い(笑)日本国憲法国民主権基本的人権が、完全に合致するとは言わないが、

すくなくとも、アジアのエテ公が思い付いた「武士道」だの「日本精神」よりは、双方の整合性が取れているだろう。

 

武藤さんは、「法の支配」を言い出すなら、オリエンタルまる出しの「武士道」だの「日本精神」より、国民主権基本的人権を優位に置くべきである。

 

逆に、「武士道」だの「日本精神」を持ち出すのなら、支那人や韓国人と同じように、どうも「法の支配」は肌に合いません、と正直になるべきだ。

  

武藤貴也その3~集団的自衛権VS「TPP」~コメは反米エゴイズムのクセに、安全保障は親米グローバル? - 在日琉球人の王政復古日記