在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

WSJ『原爆が投下されたことを神に感謝しよう』=ヨハネ黙示録『ハレルヤ、彼女が焼かれる火の煙は、世々限りなく立ちのぼる』

 

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長崎浦上天主堂被爆マリア像

 

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「彼女ら」だって、何度も何度も読んだはずなのだ。

「彼」とまったく同じ「御言葉」を。

 

【オピニオン】原爆投下を神に感謝 - WSJ

2015年8月7日
 筆者は広島へ向かう機内でファッセル氏のエッセイを読んでいた。特に印象深かったのが次の一節である。「数カ月後には東京近くの海岸から突撃射撃をしながら上陸を試み、機銃、迫撃砲、大砲の攻撃を受けることを覚悟していたが、その任務から解放されたという驚くべき朗報を耳にしたとき、何とか勇敢に見せようと冷静を装ってきたにもかかわらず、われわれは安心と喜びで泣き崩れてしまった。これで生きられると実感した」。
(略)
 原爆投下70周年を迎えた今週、米国は原爆の被爆者に謝罪しなければならない、核兵器は廃絶されるべきである、広島は非人道的な残虐行為の記念碑だ、日本はもう少しましな形で敗戦を迎えられたはずだ、といったうわべだけの言葉が多く聞かれるだろう。しかし、ファッセル氏が指摘した基本的なポイントが広く理解されるかは疑問だ。広島と長崎への原爆投下は単に戦争を終わらせた恐ろしい出来事ではなかったということだ。多くの人々の命も救ったのである。原爆は大日本帝国を平和主義者の国に変えたのだ。
(略)
  そうした状況下で2つの原爆が投下され、日本は敗れた。完全な敗戦である。軍事力に物を言わせて主張を通す傾向がある文化がなくなった現代の日本は、その完敗にも恩恵があったということを証明している。現代の広島は大惨事に直面した人間の回復力を証明している。確かなモラルや強い復讐への渇望でさえも寛大さへの障害にならないことを理解した米国の証でもある。そうしたことはある意味、寛大さの前提条件なのだ。
 広島はあまりにも長きにわたり、ある種の左翼政治、暗黙の反米主義に塩漬けされた退屈な反戦主義と関連付けられてきた。これは残念なことだ。米軍が勝利という言葉を禁止し、米国の大統領が軍事力の行使を信じず、米国民が犯してもいない罪に罪悪感に苛まれている今日、われわれは広島の歴史から教訓を得るべきだろう。
 広島の夜の明かりを見れば、その文化の穏やかさに気付くことだろう。原爆が投下されたことを神に感謝しよう。
 (筆者のブレット・スティーブンスはWSJ論説室の副委員長) 

 

今さらだが、ウォール・ストリート・ジャーナルはアメリカの高級紙。

ニューヨークタイムス、ワシントンポストがリベラル系なのに対し、WSJは保守系であり、かなり明確に共和党支持である。

といっても「ティーパーティ(茶会)」のような感情的な反連邦政府宗教右派ではなく、理性的な経済保守である。

しかし、そういう新聞でも、原爆を神に感謝する。そういう記事として載せる。日本語版に和訳する。

 

日本人にだって、上記の記事のように「原爆の悲劇は悲惨だが、大きく見れば、マクロで見れば、原爆によって戦争が終わり、それ以上の犠牲者や被害を出さずに済んだ」みたいなリアリストもいるだろう。それも一理ある。

一理あるが、そういう意見の人だって「必要悪」「盗人にも三分の理」「残酷だが、それが現実」みたいな割り切り方であり、上記のアメリカ人のように、「神」に感謝はしない。冷酷な歴史の法則は持ち出しても、神は持ち出さない。

この世界に神なんかいない。いないからこそ、悪でしかない人間同士の争いがあり、その中でも「よりマシ」な悪を評価するしかない、、、そういう発想のはずだ。

 

しかし、上記の著者も記者も神を信じている。

まず間違いなくキリスト教徒であり、キリスト教の神は唯一神であり、絶対者であり、創造主である。

日本のスサノオ神みたいに荒ぶると悪事もやっちゃう人間臭さは微塵もない。

キリスト教の神は、いついかなる時も、誰に対しても、完全な善である。

 

しかし、「大量の人間を瞬時に焼き殺す、原爆という存在を、この世に実現させたる万能の父よ、救い主に栄光あれ、ハレルヤ!」みたいな、感謝のされ方をされてしまう一面が、キリスト教の神(ユダヤ教イスラムも同様)には確かに「ある」のだ。

 

旧約聖書 創世記
6:1 人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、
6:5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
6:6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
6:7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。
6:12 神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。
6:13 そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。
7:10 こうして七日の後、洪水が地に起った。
7:12 雨は四十日四十夜、地に降り注いだ。
7:21 地の上に動くすべて肉なるものは、鳥も家畜も獣も、地に群がるすべての這うものも、すべての人もみな滅びた。
7:22 すなわち鼻に命の息のあるすべてのもの、陸にいたすべてのものは死んだ。
7:23 地のおもてにいたすべての生き物は、人も家畜も、這うものも、空の鳥もみな地からぬぐい去られて、ただノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った。

 

旧約聖書 出エジプト記
12:12 その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち(赤ん坊を殺し)、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。
12:26 もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、
12:27 あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。民はこのとき、伏して礼拝した。
12:29 夜中になって主(神さま)はエジプトの国の、すべてのういご(赤ん坊)、すなわち位に座するパロのういごから、地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、また、すべての家畜のういごを撃たれた(殺した)
12:30 それでパロとその家来およびエジプトびとはみな夜のうちに起きあがり、エジプトに大いなる叫びがあった。死人のない家がなかったからである。

 

旧約聖書 申命記
13:6 同じ母に生れたあなたの兄弟、またはあなたのむすこ、娘、またはあなたのふところの妻、またはあなたと身命を共にする友が、ひそかに誘って『われわれは行って他の神々に仕えよう』と言うかも知れない。これはあなたも先祖たちも知らなかった神々、
13:7 すなわち地のこのはてから、地のかのはてまで、あるいは近く、あるいは遠く、あなたの周囲にある民の神々である。
13:8 しかし、あなたはその人に従ってはならない。その人の言うことを聞いてはならない。その人をあわれんではならない。その人を惜しんではならない。その人をかばってはならない。
13:9 必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、あなたがまず彼に手を下し、その後、民がみな手を下さなければならない。

(略)

20:10 一つの町へ進んで行って、それを攻めようとする時は、まず穏やかに降服することを勧めなければならない。
20:11 もしその町が穏やかに降服しようと答えて、門を開くならば、そこにいるすべての民に、みつぎを納めさせ、あなたに仕えさせなければならない。
20:12 もし穏やかに降服せず、戦おうとするならば、あなたはそれを攻めなければならない。
20:13 そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。
20:14 ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる。また敵からぶんどった物はあなたの神、主が賜わったものだから、あなたはそれを用いることができる。
20:15 遠く離れている町々、すなわちこれらの国々に属さない町々には、すべてこのようにしなければならない。
20:16 ただし、あなたの神、主が嗣業として与えられるこれらの民の町々では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。
20:17 すなわちヘテびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとはみな滅ぼして、あなたの神、主が命じられたとおりにしなければならない。
20:18 これは彼らがその神々を拝んでおこなったすべての憎むべき事を、あなたがたに教えて、それを行わせ、あなたがたの神、主に罪を犯させることのないためである。

 

旧約聖書 民数記
31:3 モーセは民に言った、「あなたがたのうちから人を選んで戦いのために武装させ、ミデアンびとを攻めて、主のためミデアンびとに復讐しなさい。
31:7 彼らは主がモーセに命じられたようにミデアンびとと戦って、その男子をみな殺した。
31:8 その殺した者のほかにまたミデアンの王五人を殺した。その名はエビ、レケム、ツル、フル、レバである。またベオルの子バラムをも、つるぎにかけて殺した。
31:9 またイスラエルの人々はミデアンの女たちとその子供たちを捕虜にし、その家畜と、羊の群れと、貨財とをことごとく奪い取り、
31:10 そのすまいのある町々と、その部落とを、ことごとく火で焼いた。
31:17 それで今、この子供たちのうちの男の子をみな殺し、また男と寝て、男を知った女をみな殺しなさい
31:18 ただし、まだ男と寝ず、男を知らない娘はすべてあなたがたのために生かしておきなさい。

 

新約聖書 ヨハネ黙示録
6:1 小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。
6:2 そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた。
6:3 小羊が第二の封印を解いた時、第二の生き物が「きたれ」と言うのを、わたしは聞いた。
6:4 すると今度は、赤い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、人々が互に殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され、また、大きなつるぎを与えられた。
6:5 また、第三の封印を解いた時、第三の生き物が「きたれ」と言うのを、わたしは聞いた。そこで見ていると、見よ、黒い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、はかりを手に持っていた。
6:6 すると、わたしは四つの生き物の間から出て来ると思われる声が、こう言うのを聞いた、「小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒とを、そこなうな」。(※飢饉の象徴)
6:7 小羊が第四の封印を解いた時、第四の生き物が「きたれ」と言う声を、わたしは聞いた。
6:8 そこで見ていると、見よ、青白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者の名は「死」と言い、それに黄泉が従っていた。彼らには、地の四分の一を支配する権威、および、つるぎと、ききんと、死と、地の獣らとによって人を殺す権威とが、与えられた。
(略)
18:1 この後、わたしは、もうひとりの御使が、大いなる権威を持って、天から降りて来るのを見た。地は彼の栄光によって明るくされた。
18:2 彼は力強い声で叫んで言った、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。
18:5 彼女の罪は積り積って天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる。
18:6 彼女がしたとおりに彼女にし返し、そのしわざに応じて二倍に報復をし、彼女が混ぜて入れた杯の中に、その倍の量を、入れてやれ。
18:8 それゆえ、さまざまの災害が、死と悲しみとききんとが、一日のうちに彼女を襲い、そして、彼女は火で焼かれてしまう。彼女をさばく主なる神は、力強いかたなのである。
18:9 彼女と姦淫を行い、ぜいたくをほしいままにしていた地の王たちは、彼女が焼かれる火の煙を見て、彼女のために胸を打って泣き悲しみ
18:10 彼女の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた』。
18:20 天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都について大いに喜べ。神は、あなたがたのために、この都をさばかれたのである」。
18:21 すると、ひとりの力強い御使が、大きなひきうすのような石を持ちあげ、それを海に投げ込んで言った、「大いなる都バビロンは、このように激しく打ち倒され、そして、全く姿を消してしまう。
19:1 この後、わたしは天の大群衆が大声で唱えるような声を聞いた、「ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のものであり、
19:2 そのさばきは、真実で正しい。神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、神の僕たちの血の報復を彼女になさったからである」。
19:3 再び声があって、「ハレルヤ、彼女が焼かれる火の煙は、世々限りなく立ちのぼる」と言った。

 

上記は聖書にある、神による大量殺人の、そのまた一部である。

ユダヤ人による他民族大量虐殺祭りである旧約「ヨシュア記」なんて、残虐な部分を引用しだしたら、まるまる全部になるから(笑)止めた。

これ以外にも、取るに足りない、たかが1人や2人、10人や100人程度の、神による「小さな人殺し」は、たくさんありすぎてキリが無くなる。 

 

世界でキリスト教徒の人口は、20億人を越えるといわれる。

タテマエでは、彼ら彼女らは、こんな世界残酷物語を読んで、善なる神の存在を確信し、その神を自分の救済者として受け入れたのである。

 

まあ、実際は、自分から選び取ったわけではなく、大昔から、親の代から、信者ということになっているだけで、聖書なんか通しで読んだことはない、または、教会の牧師さんや神父さんが独自編集した、流血の少ない「映倫カット」バージョン、特にイエスさんの出てくる温和なシーンだけをピックアップしたもんを聞かされて育ったんだろう。

 

生まれたときから生活にキリスト教文化があふれていたし、近所の教会の牧師さんや神父さんが、ホームレスに食事を与えたり、チャリティーバザーを開いたりする優しいおじさんで、彼がいうことなら、まあ良い教えなんだろう、と思いました、、、こういう人は善良であり健全である。

 

しかし、自分から積極的に聖書を読んで、それでキリストを受け入れた人は、どの部分に感じ入って神の門を潜ったのか?、、、正直言って共感が難しい。

 

聖書の神は、不義の都市を炎を持って焼き払う、のである。

特にヨハネ黙示録の中に、原爆を見出さない者に、災いあれ。

こんな書物を信じたら、そりゃ原爆を神に感謝するに決まっている。

 

ヨシュア記やヨハネ黙示録に、神の愛を感じ取る人は幸いである。

確かに、天国はあなたのものだ。

 

私にその天国はちょっとキツイ(笑)。