在日琉球人の王政復古日記

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キリスト教ペンテコステ派~異言&スネーク・ハンドラーVS予定説~ワンネスVS三位一体~宗教は学問ではない。

日米ワンネスOneness対決~同性婚歓迎!臨済宗春光院VS同性婚拒否!ペンテコステ派。 - 在日琉球人の王政復古日記

の続き。

 

キリスト教プロテスタント、と一口にいっても、中身はバラバラである。

「ローマにいる法王を神の代理人とは認めない」

バチカンだけが真理を独占しているという態度を認めない」

「なによりもまず聖書が根本だ」

というくらいが共通項で、プロテスタント内部対立も激しかったりする。

 

ペンテコステ派とは、昔々、 

ローマン・カトリックと喧嘩して分派した、英国国教会の、
その英国国教会と喧嘩して分派した、メソジストの、
またそのメソジストの革新運動である、ホーリーネス運動の、
またまたそのホーリーネス運動で出現した「異言Glossolalia」を契機として生まれた一派である。

 

ペンテコステ派が始まったのが西暦1900年くらいとされているので、ざっと100年強の伝統ある宗派であり、ポッと出のカルトではない。それどころか近年キリスト教業界の中でも一番信者数を増やしているイケイケ軍団なのだ。

 

こういう雰囲気だ。

 


Pentecostal Preaching Gone Crazy

 


Thomas Morton Goes Pentecostal (BALLS DEEP - Tent Preachin' Clip)

 


Glossolalia

 

おいおい大丈夫か(笑)?これがキリスト教か?とビックリだろうが、キリスト教である。それも珍しいカルトではなく、大きなメジャー宗派だ。

馬鹿に見えるが(笑)、馬鹿にしてはいけない。

「異言」とは、真に宗教的現象なのである。これが宗教なのである。

  

ペンテコステ派「異言」とは、失礼を承知で、まあ簡単に言えば、「青森・恐山のイタコ」だ。 

宗教的興奮の極限状況で、人間は、神と出会い、神の言葉を語り出す。
集会で突然立ち上がり、踊りだしたり、歩き回ったり、または座り込んだり、転倒して体を痙攣させたり。上記youtubeで紹介した通りだ。
発する言葉も、聞き取れないほど早口だったり、間延びしてたり、全く意味不明だったり、習得していないはずの外国語(みたい)だったり、スゴイ大声だったり、ぶつぶつ小言だったり、超高音または重低音。

 

こういうのはキリスト教だけでなく、イスラムにもヒンドゥーにもある。イタコも神道と仏教の混交だ。
仏教なら、護摩を焚いてマントラを唱えエクスタシーに至る密教が典型だし、浄土系の念仏も、法華・日蓮系の題目も、必死で唱えてる内にトランス状態になることはよくある話だ。

春光院の臨済宗も、理性的と思われてる座禅が行き着く先は、結局同じトランス状態ではないのか? ちなみに、イタコの恐山も禅宗である曹洞宗である。

 

宗教は学問ではない。本を読んで頭で理解しても信仰にはならない。
信仰とは、理性ではなく、魂を震わせることだ。

 

そのペンテコステも、さらに行き着くと、不信心者には悪魔崇拝に間違いそうな光景になる。スネーク・ハンドラーだ。

 


A look at the snake-handling churches of Appalachia

 

最近の流行りではない。アメリカのキリスト教の昔からの伝統だ。

 


Insane Footage of an Appalachian Snake Handling Church-Balfa Brothers-J'ai Vu le Loup

 

素手で蛇をつかんでハイテンションで叫ぶ。

まるで蛇を崇拝しているように見えるが、蛇が信仰対象ではない。

蛇は、イエスへの信仰を証明する道具なのだ。

根拠はキリスト教新約聖書の一説にある。

 

マルコ福音書
16:17 信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、
16:18 蛇をつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。

 

信仰が本物ならば、イエスが守ってくださる。毒蛇にも噛まれないのだ。

まあ、実際には、噛まれて病院送り、そして、ちょくちょく死ぬ(笑)。

アメリカのアパラチア山脈に住んでる白人さんは、聖書を文字通り信じる。

しかし蛇さんは、エデンの園でイブさんを騙した昔から信心が足りない(笑)。

 

というわけで、ペンテコステ派は、理屈じゃない!感じろ!アタマじゃなくハートで勝負!なのだ。

もともとペンテコステ派の源流のメソジスト自体が、そういうタイプだったこともある。

メソジストはプロテスタント内の大勢力なんだが、その特徴は「人に優しい」ことにある。

 

じゃあ逆に「人に厳しい」宗派もあるのか?といえば、ある。これもプロテスタントの大勢力カルヴァン派である。

カルヴァン派は「予定説」を取る。

予定説というのが、これまた難しいのだが、すげー雑に言えば「神がいったい何を考えてるのか、人間如きゴミクズには判るはずがない」「だからアンタが救われるかどうかは、牧師にも誰にも判らない」という冷徹な考え方だ。

予定説では、神と人の間に絶対的な断絶があるのだ。 

こういう宗派はとても厳格で禁欲的になる。

笑ったり唄ったり踊ったりしない。信仰を頭で考え抜き、論争的になる。

 

対してメソジストは、これも雑に言えば「人が神を求めるなら、愛にあふれた神は必ず応えてくれる」というアルミニウス主義を取る。

神は学力や学歴で人を区別しないわけで、学問ではなく信じる心が大切なわけだ。なにやら法然親鸞阿弥陀信仰にも近い。

神が人の傍に居てくれるし、頭じゃなく心で感じることが大切なわけで、 そういう態度を極端に突き進むと、結果として異言や熱狂を引き起こしやすいことになる。

 

カルヴァン派ならばペンテコステの「異言」に対して、「超絶した絶対的存在の神が、ゴミのような凡俗がたかが祈ったくらいで、簡単に降臨したりするか!」と怒るだろう。

 

人間は賢くなるとすぐ理性で宗教を把握しようとする。特に科学の発展した近代はそういう時代だ。
しかしペンテコステ派は、本を読んで勉強して宗教を判った積もりになっている小賢しい連中が嫌いな、どっちかというと本なんか読まない、高度な教育を受けていない、大学にも行ってない、まあ正直に言えば、本を読んだり大学に行ったりするような経済的余裕のない、ぶっちゃけ貧乏人が多い。

 

同性愛者を嫌うキム・デービスさんはそういう宗派なのだ。

しかも、 ペンテコステ派の中でも「ワンネス」系だ。

 

「ワンネス」とは、カトリックプロテスタント正教会も統一する、キリスト教絶対多数派の共通教義「三位一体」論に反する、ぶっちゃけ「異端」なのだ。

 

父(神)と子(イエス)と聖霊の「三位一体」ではなく、「神様は1つだ」というのがワンネスである。

 

「三位一体」も予定説並みに難しい話で、というか、理屈が通ってない話だ。

「神様は1個で、父と子と聖霊という3つの性格・表情を持っている」ではない。

「神様は1個で、父と子と聖霊という3つの形式に変化する」でもない。

神はハッキリと3つの「位」に分かれている。お互いに別々だ。しかしその本質は1「体」なのである・・・・・わかる(笑)? 私はわからない(笑)。

理屈ではない。信じるしかないのだ。

 

予定説もそうだが、三位一体も、難しいのである。難しすぎる。

とてもじゃないが、学問のない人は、そんな話についていけない。

・・・予定説は残酷だ。神様は優しいお方だ。

・・・神様が3つ有って、でも1つ? なにそれ?

一般庶民は、ただただ偉大で、ただただ優しい、そういう神様を求める。

予定説も三位一体も余計なお世話だ。そういう小理屈は信仰の邪魔でしかない。

一番大事なのは、人間の魂が救われることであって、神様の正体ではないのである。

 

ジーザス!神様はこの世界にただ御一人だろ? わかりやすく、単純に行こうぜ!・・・というわけで、ワンネスなのだ。

神学なんてどうでもいい。私は神様に会いたい、神様を感じたい。魂を震わせて、叫んで、歌って、心を開放して、失神したい!・・・というわけで、ペンテコステ派なのだ。

 

この切実で純朴な想いを「反知性主義」というのなら、その通りである。

 

最近、主に、アンチ安倍の皆さんの間で流行した「安倍ちゃんは反知性主義」みたいなフレーズは、ハッキリ言えば、使い方を間違っている。

 

戦争はイヤだ!原発はイヤだ!だって、理屈じゃなく、心の叫びではないか。そういう意味では、戦争反対も、反原発も、「反知性主義」なのだ。

国際政治を考えろ、日本経済を考えろ、という安倍ちゃん派のほうが、ある意味、理屈しかない、非人間的な、血も涙もない、魂の欠如した、「知性主義」的なモノの言い方なのである。

 

反知性主義とは、「<反→知性>主義」ではない。「反→<知性万能主義>」だ。

「反エリート」「反権力」「反格差」「人民平等」と言い換えてもいいのである。

 

インテリも馬鹿も、金持ちも貧乏人も、みんな平等に1人1票の民主主義も、

難しい試験をパスしたエリート裁判官の煩雑な理屈ではなく、一般庶民の知恵・正義感覚を信じる陪審制・裁判員制度も、

どっちも反知性主義なのだ。だからアメリカなのである。

 

たしかに反知性主義だけでは困るが(笑)、知性主義だけでも地獄なのだ。