在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

法VS人間~刑事裁判は、被告を裁いていない。検察を裁いている~近代VS反知性主義。

さらに、ぶっちゃけていえば、裁判所は、他人を殴った「あなた」を裁いているわけではない。

 

法VS人間~刑法は犯罪を禁じていない~近代は自由意志・自己責任のネオリベ思想。 - 在日琉球人の王政復古日記 

の続き。

 

なぜなら刑法は、他人を殴ることを、他人を殺すことを、禁じた法ではないからだ。

だって国民は、殺人鬼も、盗人も、誰も「刑法に違反する」ことは不可能だからだ。

仮にあなたが他人を殴っても、刑法に違反したことにはならない。

だって、刑法にはどこにも「人を殴ってはならない」とは書いてないからだ。刑法には「人を殴ったらムショ送り」と書いてあるだけだ。

 

この条文に違反する(できる)のは、ムショに入る側ではなく、ムショに送る側なのである。 

どれだけ殴っても、刑法には違反しないが、

殴った人間に、死刑や無期懲役を求刑したり、

殴った人間を、死刑や無期懲役にしたら、

始めて刑法違反になる。

そして、そんな違反ができるのは、裁判官と検察だけなのである。

 

刑法は、被告の暴力を縛るのではなく、裁判官と検察つまり司法当局の権力を縛るためにある。 

簡単にいえば「どんなに極悪非道でも、他人を殴っただけのヤツを、勝手に死刑にするな」という、司法当局への縛りなわけだ。

 

憲法が、「国民を縛る」法ではなく、「国家権力を縛る」法であるように、
刑法は、「犯罪者を縛る」法ではなく、「司法当局を縛る」法なのだ。

 

近代の刑法とは、

「他人を害した悪党を罰する法」というよりは、

「国家が悪党を《過剰に》罰することを《禁じた》法」というべきだろう。

 

つまり近代の刑法は「犯罪者、被疑者(彼らも国民だ)の味方」なのである。

 

オウム菊地直子被告に無罪判決 都庁小包爆発 東京高裁 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

 オウム真理教が1995年に起こした東京都庁郵便小包爆発事件で、爆薬の原料を運んだとして殺人未遂幇助(ほうじょ)などの罪に問われた元信徒・菊地直子被告(43)の控訴審判決が27日、東京高裁であった。大島隆明裁判長は「被告に犯行を助ける意思があったと認めるには合理的な疑いが残る」と述べ、懲役5年とした一審・東京地裁裁判員裁判による判決を破棄し、被告を無罪とした。

 

この刑事裁判で、裁判官が裁いた相手は、元オウム信者Kではない。

裁判官が裁いた相手は、殺人未遂幇助罪を求刑した検察だ。

刑事裁判で裁判官が裁くのは、「被告」ではなく、「検察」なのである。

 

裁判官は、被告の主張ではなく、弁護人の主張ではなく、検察の証拠が適法か妥当かを調べているのだ。

刑事裁判とは、被告が善人か?悪党か?ではなく、検察が正しいか?間違ってるか?を判断するものなのだ。

 

刑事裁判は、

被告が刑法に違反してるかどうか?ではなく、

検察が刑法に違反していないかどうか?

裁判官自身が刑法に違反していないかどうか?

を裁くのだ。

 

それは納得いかない!オウムはオウムだ!無罪はおかしい!被害者は権利はどうなる?悪党は厳罰に処すべき!人殺しは死刑だ!という庶民の素朴な気持ち、「勧善懲悪」感情こそが、昨今流行の「反知性主義」なわけだ。

だから反知性主義」は、馬鹿の代名詞ではないし、必ずしも倫理的に間違っているわけでもない(といって、倫理的に正しいわけでもないが)。

 

法VS人間~「今のはストライクです」と申告するバッターはいない~弁護人の仕事を否定する《土人》は近代システムに向いてない。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

われわれ人間は、たかが200年ぽっちの近代の、はるか前から1万年以上も生きてきた。そこには近代とは異なる倫理や道徳もあった。

どっちが正しいか?は最高裁でも決められない。

反知性主義」とは、冷酷非情で、人情を理解しない、頭でっかちな「知性=近代」に対する、異議申し立てでもあるのだ。

 

だから必殺仕事人・中村主水(あ、最近はジャニーズさんか)に「仕事」の依頼が絶えることもない。

 

法VS人間~死刑になりたいなら、殺人は無駄。確実なのは内乱・外患誘致。ただし難問が。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

法VS人間~刑事裁判は被害者や遺族の怨念を晴らせない。近代は感情に反する。 - 在日琉球人の王政復古日記