さらに、ぶっちゃけていえば、裁判所は、他人を殴った「あなた」を裁いているわけではない。
法VS人間~刑法は犯罪を禁じていない~近代は自由意志・自己責任のネオリベ思想。 - 在日琉球人の王政復古日記
の続き。
国民は、殺人鬼も、盗人も、誰も「刑法に違反する」ことは不可能なのだ。
なぜなら刑法は、他人を殴ることを、他人を殺すことを、禁じた法ではないから。
仮にあなたが他人を殴っても、刑法に違反したことにはならない。
だって、刑法にはどこにも「人を殴ってはならない」とは書いてないからだ。
刑法には「人を殴ったら、ムショ送りか、罰金ネ」と書いてあるだけだ。
刑法第204条 人の身体を傷害した者は、十五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。
刑法第208条 暴行を加えた者が人を傷害するに至らなかったときは、二年以下の懲役若しくは三十万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。
この条文に違反する(できる)のは、ムショに入る側ではなく、ムショに送る側なのである。
あなたが、他人を、どれだけ殴っても、刑法には違反しないが、
殴ったあなたに、死刑や無期懲役を求刑したり、
殴ったあなたを、死刑や無期懲役にしたら、
始めて刑法違反になる。
そして、そんな違反ができるのは、検察と裁判官だけなのである。
刑法は、被告の暴力を縛るのではなく、裁判官と検察つまり司法権力を縛るためにある。
簡単にいえば「どんなに極悪非道でも、他人を殴っただけのヤツを、勝手に死刑にするな」という、司法権力への縛りなわけだ。
憲法が、「国民を縛る」法ではなく、「国家権力を縛る」法であるように、
刑法は、「犯罪者を縛る」法ではなく、「司法権力を縛る」法なのだ。
近代の刑法とは、
「他人を害した悪党を罰する法」というよりは、
「国家が悪党を《過剰に》罰することを《禁じた》法」というべきだろう。
つまり近代の刑法は「犯罪者や被疑者(彼らも国民だ)の味方」なのである。
元オウム・菊地被告に逆転無罪判決 都庁爆弾事件で高裁 :日本経済新聞
2015/11/27
1995年の東京都庁小包爆弾事件で、殺人未遂ほう助罪などに問われたオウム真理教元信者、菊地直子被告(43)の控訴審判決で、東京高裁(大島隆明裁判長)は27日、懲役5年とした一審・東京地裁の裁判員裁判判決を破棄し、無罪判決を言い渡した。
菊地被告側は控訴審で「運んだ薬品が人を殺傷する事件に使われる認識はなかった」として改めて無罪を主張していた。
東京地裁の裁判員裁判は昨年6月、事件の指揮役だった元幹部、井上嘉浩死刑囚(45)の証言の信用性を認め、菊地被告は「危険な化合物を製造すると容易に認識しえた」と判断。弁護側の無罪主張を退けていた。
この刑事裁判で、裁判官が裁いた相手は、元オウム信者Kではない。
裁判官が裁いた相手は、殺人未遂幇助罪を求刑した検察だ。
裁判官が刑事裁判で裁くのは、「被告」ではなく、「検察(および警察)」なのである。
裁判官は、被告の主張ではなく、弁護人の主張ではなく、検察の主張や証拠(つまり警察の捜査)が適法か?妥当か?を調べているのだ。
刑事裁判とは、「被告が善人か?悪党か?」ではなく、「検察(および警察)が正しいか?間違ってるか?」を判断するものなのだ。
刑事裁判は、
被告が刑法に違反してるかどうか?ではなく、
検察(および警察)が刑法に違反していないかどうか?
さらに、裁判官自身が刑法に違反していないかどうか?
を裁くのだ。
それは納得いかない!オウムはオウムだ!無罪はおかしい!被害者は権利はどうなる?悪党は厳罰に処すべき!人殺しは死刑だ!という庶民の素朴な気持ち、「勧善懲悪」感情こそが、昨今流行の「反知性主義」なわけだ。
だから「反知性主義」は、馬鹿の代名詞ではないし、必ずしも倫理的に間違っているわけでもない(といって、倫理的に正しいわけでもないが)。
法VS人間~「今のはストライクです」と申告するバッターはいない~弁護人の仕事を否定する《土人》は近代システムに向いてない。 - 在日琉球人の王政復古日記
われわれ人間は、たかが200年ぽっちの近代の、はるか前から1万年以上も生きてきた。そこには近代とは異なる倫理や道徳もあった。
どっちが正しいか?は最高裁でも決められない。
「反知性主義」とは、冷酷非情で、人情を理解しない、頭でっかちな「知性=近代」に対する、異議申し立てでもあるのだ。
だから必殺仕事人・中村主水(あ、最近はジャニーズさんか)に「仕事」の依頼が絶えることもない。
法VS人間~死刑になりたいなら、殺人は無駄。確実なのは内乱・外患誘致。ただし難問が。 - 在日琉球人の王政復古日記
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