在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

《保存》三笠宮崇仁親王殿下、大東亜戦争(支那事変、南京事件)かく語りき。

ヤマトの皆さんは、皇室を《戦争》という名の牢獄に幽閉してしまったのだ。

  

「釈放」は何時か?、というか「刑期」はあるのか?

「恩赦」はあるのだろうか? というか「誰」が出すのか?出せるのか?

 

天皇、皇太子、秋篠宮~半永久に戦争を背負わされる「しんどさ」~愛国は戦い。尊皇は反戦。 - 在日琉球人の王政復古日記

の続き。

 

リンク切れに備えてコピペしておく。

 

都市伝説とかいうヤクザな商売に

「信じるも、信じないも、あなた次第です」

という逃げ口上があるらしいが、偶然にも同じ想いである。

今回、結論はない。

 

 

「罪もない中国の人民にたいして……」100歳を迎えられた三笠宮殿下の“斬新なお言葉”集 | デイリー新潮

 明治以降の皇族方では最長老の「大(おお)殿下」こと三笠宮崇仁親王殿下が、12月2日に100歳を迎えられた。戦後、軍人から学者へと転じた昭和天皇の末弟は、まさに激動の一世紀と向き合われてきたのだが、そこで思い出されるのは、皇族らしからぬ「斬新なお言葉」の数々……。

 ***

三笠宮崇仁親王殿下が、12月2日に100歳を迎えられた

 数年前から心臓の弁に異常がみられた三笠宮さまは、2012年6月、長男の寛仁親王の葬儀に参列された翌日に体調を崩して入院。「鬱血性心不全」と診断され、手術を受けられたものの、現在は92歳になる百合子妃ともども、元気なお姿を見せられている。

 11年10月にご結婚70年を迎えた際には、次のような「ご感想」を寄せられていた。

〈結婚のとき、私は陸軍大学校の学生だった(中略)間もなく戦争となり、厳しい生活が始まった。陸大の研究部部員を務めた後、私は支那派遣軍総司令部の参謀として南京に赴任した〉

〈帰国後、大本営の参謀などを務めているうちに、敗戦となった。三笠宮家は新しく創設されたために経済的な基盤がなかったばかりでなく、空襲で邸(やしき)が全焼したため、経済的な労苦はほかの宮家と比べてはるかに大きかった。それを支えてくれたのも妻であった〉

 今回、100歳を迎えるにあたり、宮内記者会はあらためてご感想を伺うべく質問を準備したという。

「当初はお答え頂けるというご意向で、我々もご年齢の感想とともに、先の大戦についての思いをお尋ねする項目も盛り込んだのですが、内容に目を通された後、『これまで書いたり話したりしてきたことをなぞるだけになってしまう』といった理由で、職員を通じてご回答をお断りしてこられたのです」(宮内庁担当記者)

 では、その“書いたり話したり”の中身とは、一体いかなるものであったのか。

■“「聖戦」というものの実体”

 三笠宮さまは1943年1月から1年間、お印にちなんだコードネーム“若杉参謀”として南京に赴任され、戦後は東大でオリエント史を学ばれた。56年には『帝王と墓と民衆』(光文社)を上梓。ご自身の戦時中の感慨について、同書に付された『わが思い出の記』の中で、

〈わたくしの信念が根底から揺りうごかされたのは、じつにこの一年間であった。いわば「聖戦」というものの実体に驚きはてたのである。罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった〉

〈この失敗は軍および日本政府首脳者に真剣な反省をうながし、新たに対華新政策なるものが決定され、わたくしが南京に在住していた一年間は、司令官以下この新方針の徹底に最大の努力をした〉

 と、現地で見聞した日本軍の行状をひたすら嘆かれ、

〈新政策が発表されるや、軍司令官はただちに「四悪」を禁止するという厳重な命令をくだした。四悪というのは略奪、暴行、放火、強姦のことである。(中略)ある第一線の大隊長のいうことがふるっていた。今までは敵のいた家は焼きはらって進んだので、自分の大隊の第一線がどの辺を前進しているかすぐ分かった。ところがこんど放火を禁ぜられてみると、第一線がどこにいるかさっぱり分からない、と。まったく笑えないナンセンスであった〉

〈聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけはなれたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか〉

 当時から、聖戦への信念を完全に失っていたと明かされているのだ。

 

南京虐殺は“人数に関係はありません”のお立場「三笠宮殿下」 | デイリー新潮

 12月2日に100歳を迎えられた「三笠宮崇仁親王殿下」で思い出されるのは、皇族らしからぬ「斬新なお言葉」の数々である。例えば1956年に上梓された『帝王と墓と民衆』(光文社)に付された『わが思い出の記』の中で、1年間ご赴任された南京で見聞した日本軍の行状をこう嘆かれている。

〈一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった〉

〈内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか〉

 ***

 同じ頃、世間では48年にGHQの意向で廃止された祝日・紀元節を復活させようとの気運が高まっていた。そんな中、57年11月13日付「毎日新聞」は、ある歴史学者の祝いの席でなされた三笠宮さまの発言を報じている。

〈二月十一日を紀元節とすることの是非についてはいろいろ論じられているが、カンジンの歴史学者の発言が少ないのはどうしたわけか。紀元節問題は歴史科学に影響するところが大きいと思う。(中略)このさい、この会をきっかけに世話人が中心となって全国の学者に呼びかけ、二月十一日・紀元節反対運動を展開してはどうか。(中略)この問題は純粋科学に属することであり、右翼、左翼のイデオロギーとは別である」〉

 学者の立場から「紀元節に科学的根拠なし」との論陣を張った三笠宮さまは、その後も、

紀元節についての私の信念〉(「文藝春秋」59年1月号)

 と題した論文を発表。

〈日本人である限り、正しい日本の歴史を知ることを喜ばない人はないであろう。紀元節の問題は、すなわち日本の古代史の問題である〉

 そう強調され、以下のように結んでおられたのだ。

〈昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史――それは華やかではあるが――を信じた人たちは、また勝算なき戦争――大義名分はりっぱであったが――を始めた人たちでもあったのである。もちろん私自身も旧陸軍軍人の一人としてこれらのことには大いに責任がある。だからこそ、再び国民をあのような一大惨禍に陥れないように努めることこそ、生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての責務だと考えている〉

■「毒ガスの生体実験をしている映画」

 こうしたお考えの集大成ともいえるのが、84年に刊行された自叙伝『古代オリエント史と私』(学生社)である。そこでは、

〈今もなお良心の苛責にたえないのは、戦争の罪悪性を十分に認識していなかったことです〉

 と前置きしつつ、南京での実態をさらに詳述され、

〈ある青年将校――私の陸士時代の同級生だったからショックも強かったのです――から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった、と語っていました。

「聖戦」のかげに、じつはこんなことがあったのでした〉

■〈昭和天皇にもお見せしたことがあります〉

 南京から帰任する直前の44年1月、三笠宮さまは“若杉参謀”の名で将校らを前に講話をなさっている。軍紀の乱れや現地軍の独走を激しく指弾する内容は「支那事変に対する日本人としての内省」という文書にまとめられ、94年には半世紀ぶりに公表された。当時、月刊誌の取材でご自身は、いわゆる「南京虐殺」についても、

〈最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係はありません〉(「THIS IS 読売」94年8月号)

 そう断じており、

〈中国側は、日本軍の残虐行為を『勝利行進曲』という映画にしていましたが、それを日本側が重慶あたりで没収してきたものを手に入れた私は、東京に連絡で戻った時に、その映画を持っていき、昭和天皇にもお見せしたことがあります。もちろん中国が作った映画ですから、宣伝の部分も多いでしょうが、多くの部分は実際に行われた残虐行為だっただろうと私は考えています〉

 老境に差し掛かってもなお、決して節を曲げることはなかったのである。

 

〈太平洋戦争は“架空な歴史”“勝算なき戦争”〉赤い宮様「三笠宮殿下」に関する識者の見方 | デイリー新潮

 明治以降の皇族方では最長老の「三笠宮崇仁親王殿下」においては、過去の数々の”斬新なお言葉”で知られている。

 お印にちなんだコードネーム“若杉参謀”として南京に赴任されていた殿下は、そのご経験に基づき、44年1月に将校らを前に講話を行われた。「支那事変に対する日本人としての内省」という文書にまとめられたその内容は、軍紀の乱れや現地軍の独走を激しく指弾するものだった。

南京虐殺への言及

 南京で見聞きした日本軍の行状についても、56年に上梓された『帝王と墓と民衆』(光文社)に付された『わが思い出の記』にてこう嘆かれている。

〈罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった〉

〈聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけはなれたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか〉

 いわゆる「南京虐殺」についても、

〈最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係はありません〉(「THIS IS 読売」94年8月号)

 と、言及される。

紀元節反対

 また、GHQによって廃止された祝日・紀元節を復活させようとの気運が高まった時期には、“紀元節に科学的根拠なし”との論陣を張る。

「文藝春秋」59年1月号に発表した論文〈紀元節についての私の信念〉によれば、

〈昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史――それは華やかではあるが――を信じた人たちは、また勝算なき戦争――大義名分はりっぱであったが――を始めた人たちでもあったのである。〉

 さらには、中国側が日本軍の残虐行為を映画化した『勝利行進曲』なる作を、昭和天皇にお見せしたというのだから驚きである。

〈その映画を持っていき、昭和天皇にもお見せしたことがあります。もちろん中国が作った映画ですから、宣伝の部分も多いでしょうが、多くの部分は実際に行われた残虐行為だっただろうと私は考えています〉(前出・「THIS IS 読売」)

 12月2日に100歳を迎えられた殿下。これらのご意見を、識者はどう読み解くか。

■大変な記憶力

 実際に三笠宮さまを取材したことのある皇室ジャーナリストの久能靖氏は、

「30年も前、殿下の研究室にお邪魔したことがあります。幼少時代に過ごされた御用邸のお話をされた時には、敷地内の細部まで正確に回想なさるなど、さすが学者らしく、大変な記憶力に驚きました」

 そう振り返りながら、

「一連のご発言は、当時の情勢では宮様でなければ命を落としかねないような内容で、勇気がおありだったのでしょう。お年が14歳離れている昭和天皇にとっても、殿下からもたらされる中国の情報は、仮にそのままは受け入れられないとしても、実際に軍に籍を置く弟宮からの貴重なお話ですから、お耳を傾ける価値がおありだったと思います」

 一方で現代史家の秦郁彦氏は、こう推察する。

「当時の中国で軍紀の乱れがあったのは事実で、参謀である殿下の耳に入るほど不祥事が頻発していたということです。それでも、主たる敵はあくまで米国で、広い視点から戦争全体を考えた時、いつまでも中国戦線が終わらず大軍が大陸に残ったままで勝てるのか、という思いが殿下にはあったはず。軍紀が乱れれば中国の民心を掌握できず、戦局に悪影響が出かねない。そんな懸念からなされた講話なのでは、と思います」

 また、戦後においても、

紀元節についても学者としてのお立場から発言されたのでしょうが、国の記念日だから根拠が重要だという主張と、根拠が不十分でもよいのではという2つの論陣があり、いずれの立場で発言してもそれ自体が政治問題となってしまう内容でした。たとえ事実であっても、皇族のご発言は必ずどちらかの陣営から利用されてしまうのです」(同)

■100歳を迎えた暁には……

 時に“赤い宮様”と呼ばれながらも信念を貫かれ、3男2女に恵まれた三笠宮さま。が、02年には三男の高円宮さまが急逝、12年には長男の寛仁親王、その2年後には次男の桂宮さまが続けて薨去されてしまう。

 皇室ジャーナリストの神田秀一氏が明かす。

「10年前、90歳のお誕生日を迎えられた際には、ご家族が集まってお祝いが催されました。殿下はそれを大層お喜びになり、100歳を迎えた暁には、寛仁親王殿下が中心となり、より盛大にお祝いしようというお話が、お身内で出ていたのですが……」

 公私ともども、万感胸に迫る一世紀を過ごされてきたのである。

 

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