在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

《リバタリアン映画列伝》「砂の器」(1974年)その2~実父、養父、偽父、義父~村落、国家、市場。

 ハンセン病ハンセン氏病、らい病、癩病、といえば、この映画である。

 

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《リバタリアン映画列伝》「砂の器」(1974年)その1~流れよわが涙、と少年は言った。 - 在日琉球人の王政復古日記

の続き。

 

自らの意思に反して村落共同体から排除され、

逆に、自らの意志で近代国家システムから逃亡した少年。 

今までの人生からはまったく無縁な大都会・大阪の自転車屋に潜り込み、住み込み奉公することで何とか生き延びる。

 

しかし通常ならば、今を生きるわれわれがそうであるように、残酷なまでに「慈悲深い=執念深い」近代国家システムから逃亡することは不可能である。

近代国家システムは個人が「名無し」で生きていくことを許さない。

少年も生きている限り、いつかどこかで近代国家システムに捕獲され、再び近代国家システムの保護管理下に置かれることは時間の問題だった。

 

だがここに、奇跡のような千載一遇のチャンスが訪れる。

近代国家がそのシステムを喪失する異常事態=戦争の勃発である。

少年は、近代国家システムの裂け目(空襲による戸籍焼失)を利用し、「本浦秀夫」を捨てて、空襲で死んだ自転車屋の孤児「和賀英良」を名乗る。

大阪の自転車屋の店主・和賀某氏がどんな人物だったかは不明だが、彼は死後、少年によって「偽父」にされてしまうわけだ。

 

名無しの少年は近代国家システムからの逃亡に成功する。

彼はやっと、誰の息子でもない、一人ぼっちの孤独な人間になることが出来た。

 

成長した少年は音楽家として成功する。

もしも彼が《悲劇の人・千代吉の聖なる子・秀夫》という役目に愛着があったのならば、不幸な病と闘う医師や、差別を糾弾する社会運動家になってもよかった。

もしも放浪がやめられないのなら浮浪者になってもいいし、無慈悲な世間に復讐するために犯罪者・ヤクザになる手もある。

しかし少年は音楽を売る音楽家になる。

 

少年は、フィアンセの父・つまりは未来の「義父」である大物政治家・田所に語る。
「周りが敵だらけで誰も信じられないのは、政治の世界も音楽の世界も同じだが、音楽の世界は作品で勝負できる」

つまり、音楽の世界は、「誰の子供だ」「どこの生まれだ」「どうやって生きてきた」とは無関係に、「自分の中身」ではなく、「自分の作品の中身」で勝負できる。

 

少年は、

血縁を問う「村落」でもなく、

所属を問う「国家」でもなく、

作品を問う「市場」=資本主義社会を選択したのだ。

 

血でつながる巡礼者「実父」千代吉。 
善意の保護者たる「養父」三木巡査。

名前を盗んだ自転車店主「偽父」和賀某。

ギブアンドテイクで結びついた「義父」田所代議士。 

 

少年にとって、一番心安らかだったのは、4人の「父」のうち、誰だったか?

おそらく、まったく愛してないからこそ、逆に、自由な人間として対等に付き合えた「義父」田所だけだったのではないか?

 

村落(選挙区)、国家(政府)、市場(経済)の間を自由に立ち回り、支配する保守政治家。

村落という怪物に苛め抜かれ、国家という怪物から逃れる人生だった少年にとって、その怪物たちを見事に飼い慣らす「義父」こそ、真に尊敬すべき《父》だったのではないか。

 

しかし少年の平穏は長くは続かない。

近代国家システムから逃げ切れたはずの少年の前に、善意の債権者「養父」三木が現われる。 

 

「養父」三木は宣告する。

秀夫よ、お前は、「和賀英良」じゃなく、 「本浦秀夫」なのだ。

お前は永遠に消えないスティグマ(烙印)を刻まれた《悲劇の人・千代吉の聖なる子・秀夫》なのだ。

そんなお前が悲劇の父を捨てるような卑劣な悪人であってはならない。責任から逃げるような無責任は許されない。

今の生活を捨てて、ただちに「聖職」に復帰しろ。 

 

少年は思う。

なぜ、私が、この私だけが、たまたま「難病の父を持った」という、ただそれだけの理由で、悲劇の主人公であることを、善人であることを「強制」され続けなければならないのか?

なんで、自分が選んだわけじゃない苦役から逃げてはいけないのか?

なんで、イヤな過去を忘れて、勝手気ままな仕事を選び、ゼニを稼いで、快楽を味わう、そんな自由を、一個の人間として選べないのか?

なんで私だけが、われわれを排除した生まれ故郷や、巡礼で出会った差別的な連中と同じように、無責任な悪人=普通の個人として、生きていく自由を与えられないのか?

 

これからも自由な個人として生きたいのなら、少年は善意の押し売り「養父」三木を殺すしかない。

しかし、その瞬間、ずっと眠っていた近代国家システムが、殺人事件捜査というスイッチで再起動してしまう。

 

もちろん、慈悲深い「養父」三木個人は、自分を殺した不幸な少年の罪を許すだろう。

真相にたどり着いた刑事たちにしても、いまさら少年を逮捕したところで、被害者を含めて誰も幸せにしないし、さらに何の責任もない「義父」やフィアンセを初めとする多数の関係者を傷付け、悲劇を広げるだけだと判っている。  

 

これが前近代の村落共同体なら、カミ隠しだ、犬神サマのタタリだ、八墓明神のお怒りじゃ、と犯罪捜査を中止して犯罪を不問に付す=犯罪の存在自体を排除する(外へ捨てる)方法も可能だ。 

厄介な難病親子を「最初からそこには居なかった」ことにする理屈と、

厄介な犯罪を「そもそも発生してなかった」ことにする理屈は、

まったく同じ前近代の村落共同体のシステムである。

 

しかし 「養父」は、死んだ後も、少年を追いかけ続ける。

そもそも「養父」三木は、元巡査であり、名無しの自由な個人の存在を許さない近代国家システムの体現者だったのである。

いや「養父」=近代国家だから「不死」なのだ。しかも「システム」だから人間の手では止められない。

被害者が許しても、捜査員が許しても、近代国家は許さない。

近代国家に「排除」や「忘却」という選択肢はない。厄介だろうがナンだろうが、内部に存在するモノはすべて「管理」しなければならない。

難病の父を療養所に収容して生き永らえさせる(逃げること=死ぬことを許さない)慈悲深い社会福祉制度と、

殺人者の子を刑務所に収容して生き永らえさせる(逃げること=死ぬことを許さない)厳格な治安維持制度は、

これまた、まったく同じ近代国家システムである。

 

刑事の持つ逮捕状には、逮捕者の名前が書いてある。
「和賀英良こと本浦秀夫」
この短い方程式から逃れるために、少年は全人生を賭けた。

しかし近代国家システムは少年の願いを許さない。

「正義」は回復され、近代国家システムは少年をその保護管理下に取り戻す。

今度は《善意の「養父」三木を殺した犯罪者・秀夫》役として、実父が生きている療養所にも極似した刑務所の中に。

 

森田健作「和賀(加藤剛)は、父親に会いたかったんでしょうね」
丹波哲郎「そんなことは決まってる!」「もはや彼は音楽の中でしか父親には会えないんだ」

 

・・・私には、そうは思えないんですよ、丹波さん。

 

砂の器」は、前近代の村落共同体の無慈悲と戦い、近代国家のシステムに敗北した、一人ぼっちで自由に生きたかった、名無しのリバタリアンの映画だと見ることもできる。

 

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