在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

承詔必謹平成玉音放送~親政200年、摂関200年、院政800年、明治75年、戦後75年~院政復古の大号令。 #生前退位

「2・26」「8・15」に続き、三度目の御聖断「8・8」。

 

平成初の、そしておそらく最後の「玉音放送」。

 

日本人は承詔必謹であろう。

 

あ、私は、親日とはいえ、隣人とはいえ、しょせんは化外の琉球人ですから、

もちろん、失礼にならぬよう、しかし、それなりに客観的に考えてみたい。

 

さてヤマトの方々は、「サムライ」という存在をどう思われているのか?

 

異国である我が琉球には、当たり前な話だが、歴史が全く異なるので、そもそもサムライなる存在がないからよくわからない。

 

サムライは、ヤマトの誇りか?ヤマトの恥か?ヤマトの栄光か?ヤマトの闇か?

ま、大半のヤマトンチュにとっては自国の誇りだろう。

日本と言えばサムライ、サムライと言えば日本。

サムライはこの国の中核的価値の体現者であり、理想的・代表的人格だろう。

 

となれば、サムライが活躍した時代こそ、日本が一番日本らしかった時代と言って、反論は少ないと思う。

だいたい平安末期から、鎌倉、室町、戦国、江戸時代までだ。

 

さて、初代天皇は誰だ?、という質問は、政治的には難しい話だが、文学的なら日本書紀神武天皇、しかし現実的・歴史的には初めて大王(オオキミ)から天皇号に名乗り替えた天智天皇天武天皇となるだろう。だいたい西暦668年くらいである。

 

天智天武から天皇親政が始まったとして、体制に質的変化が生じたのが、866年に人臣初の摂政に就いた藤原良房から始まる藤原北家いわゆる藤原摂関家の時代の始まりである。

摂関時代とは、血縁でいえば、天皇の母系(お母さんの一族)が政治の実権を握った時代といえる。

 

そのあとで、天皇の父系つまり天皇のお父さん≒前天皇上皇法皇が政治の実権を握った時代が、1086年の白河院政で始まる。

この院政が制度として終わったのが幕末の光格院まで。1840年だ。

 

これ以後は明治維新から平成の御代まで近代天皇制と呼ばれる。

形式的には、上皇院政の廃止、摂関常設の廃止、天皇親政の復活である。

 

大雑把に

古代天皇親政:約200年、

母系摂関時代:約200年、

父系院政時代:約800年、

明治天皇制:約75年、

戦後天皇制:約75年、

となる。

 

そして、サムライが活躍した時代とは、その開始(平清盛源頼朝)から、その終焉(徳川慶喜)まで、ピッタリ、院政の800年と重なるのだ。

武士の時代とは、天皇にとっては院政の時代なのである。

 

仮に武士の登場を前倒ししても、平将門藤原純友までで、藤原摂関家の時代だ。

天皇親政の時代は、昔も、今も、武士がいない時代ということだ。

 

これは偶然ではなく、そうなるしかないのである。

武士とは、プライベートな暴力の行使者であり、中央に強力な法治権力が存在しない時代に、私的な暴力を駆使して私有財産を獲得した暴力団つまりヤクザ集団だ。

天皇親政とは、モメゴトは天皇がルールと御叡慮に基づいて決裁する時代なわけで、問題解決に私的な暴力は使っちゃダメな時代なのである。

よって、サムライと、天皇親政は、両立不可、トレードオフの関係にある。

どっちが正しいという決め方と、どっちが強いという決め方は、両立しない。

 

摂関体制や院政は、天皇の、お母さんの一族だの、お父さんだの、プライベートな関係が、オフィシャルより優先される時代であり、プライベートな暴力である武士と相性がいい。事実、藤原摂関家上皇法皇こそが、源氏や平家などの武士勢力を育てたパトロンなのである。

 

だから、日本の歴史だの伝統だのが大事だというのなら、日本史の華・サムライたちの時代、つまり院政を否定するのは、まったく話がサカサマである。

しかも、単純に量的比較でいっても、院政800年、親政時代を全部合計しても、さらにその2倍以上の歴史を誇る。日本史の半分以上は院政の時代だ。

 

だいたい親政なんぞ世界中どこにでもある。支那でも朝鮮でも琉球でもやってる外国臭い制度である。日本のオリジナルなんて何もない。

院政こそ、サムライとともに活躍した、日本が日本らしかった時代の政治体制であり、院政こそ日本なのだ。

 

皇位継承については、大原則として、聖上御自らが、皇室各位とご相談のうえ、お決めになればいいだけの話であって、政府が、そもそも、口出しするのがおかしいのだ。

さらに、そこら辺の一山いくらの草莽・凡下が口出しするなど、僭上も甚だしい大逆不忠である。

 

皇室典範こそ不敬大逆。畏れ多くも皇位に口を出す凡下ども。皇位継承は大御心のみ。 #生前退位 #譲位 #日本会議 - 在日琉球人の王政復古日記

 

戦後の天皇陛下のお仕事は、大きく3つに分かれる。

A.宮中祭祀天皇家のプライべーどな宗教儀式。

B.国事行為:主に憲法に規定された政治・外交行為。

C.その他の公務:国民向けの国内行幸、友好親善の海外行幸

 

このうちAは、たしかに日本広しと言えども、天皇陛下御一人しかできない。

宗教的意味が強いので、譲位した(ある意味俗世に戻った)上皇では勤まらない。

まあ、細かく言えば、現行の宮中祭祀は、つい最近の明治時代に決まったもので、中世の窮乏した朝廷や天皇家にこんなにたくさんの祭祀をやるヒマと経済力があったかどうか、歴史と伝統の意味合いからかなりアヤシイのだが、今後は現実的に整理する必要もあるだろう。

逆に、天皇御自らやるべき、しかできない行為はAだけだ。

 

Bは純粋に政治的行事であり、逆に天皇の宗教性は関係ない。元首としての権威があればいい、ある意味、世俗の仕事だ。

Cも親善行事であり、宗教性は不要だ。

どっちも、年齢的に若くて元気な皇太子を常設の摂政として、世俗権威の代行者・摂政の専権事項にすればいい。

外国首脳レベルの対応は天皇マターとしても、大使レベルは摂政マターで分けていいのではないか。

Cの一部は、譲位されて悠々自適の院(上皇)に、旅行のお楽しみも兼ねて、お任せするのも一案である。

 

「皇太子」という名称も、事態をややこしくするだけで、現状に合わない。

常時、皇太子が成立するのは、直系男子がたくさん生まれる環境のみである。

そんな環境は、一夫多妻でないと成立しない。御側室を置けない現在、皇太子がいない可能性は五分五分なのである。

今後、弟や甥に皇位継承する可能性が増えるし、だからと言って皇太弟だの皇太甥だの名称を増やすのも不合理だ。ワンポイントにしろ、娘、妹、姪だって可能性はある。

いっそ皇室典範の「皇嗣」を正式名称にして、長男だろうが、弟だろうが、甥だろうが、孫だろうが、女性だろうが、皇位継承第1位は「皇嗣摂政殿下」でいいではないか。

 

※追記※

この日記は、2016年8月8日に書いた。 

2017年4月13日、皇嗣が正規名称に採用されそうである。

 

秋篠宮さま呼称「皇嗣殿下」に 皇太子待遇を示す狙い:朝日新聞デジタル

2017年4月13日
 天皇陛下の退位後、皇位継承順位第1位となる秋篠宮さまの呼称について、政府は「秋篠宮皇嗣(こうし)殿下」とする方向で調整に入った。秋篠宮さまの敬称である「殿下」に、皇位継承順位第1位にある者を意味する「皇嗣」を加える。公式な場面で使うことで、次の天皇であることを明確に示す狙いがある。複数の政府関係者が明らかにした。

 

★★★BINGO!★★★

 

天皇」、「院(上皇)」、「皇嗣摂政」の三位一体

 

増加する御祭祀・御公務の分散処理こそ、天皇制長期継続のためだと愚考するが、ヤマトの皆さんは如何?

 

今上陛下→いちのゐん(一院)、皇后陛下→半蔵門院、東宮殿下→みかど、雅子様→中宮、秋篠宮殿下→ひつぎ(皇嗣)。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

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(まとめ)琉球人から見た天皇制。 - 在日琉球人の王政復古日記