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在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

「勝新太郎座頭市VSフランス革命」の200年戦争~冷酷な自由VS無情な平等VS慈悲ある差別VS根拠ある特権。

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日本映画史上トップ5に入る、超ビッグ天才映画スタア「勝新」が大化けしたのが、この大映映画「不知火検校」(1960)である。

平成の皆さんも名前くらいは聞いたことがあるだろう、盲目の居合抜きの達人・座頭市の原型になったキャラクターでもある。

 

日本国憲法第22条
何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。  

 

不知火検校~座頭市と、日本国憲法いやフランス革命は、200年以上にわたって戦い続けている。人類史の正統を賭けた天下分け目の戦いだ。

 

ポスターで勝新にイヤラシイことされてる女優が、明石家さんまのテレビ・バラエティでゲヘヘと笑ってた、変なおばさん・中村玉緒

昔は大映という映画会社を代表する美人女優だったのだ。勝新と彼女は、この映画の翌々年に結婚する。

 

中村玉緒のお兄さんが、最近、奥さんのガン闘病で毎日のように芸能ニュースに出てくる市川海老蔵がおそらく将来継ぐことになるだろう江戸歌舞伎のトップブランド・市川團十郎と、東西の双璧をなす、上方歌舞伎界の金看板・四代目坂田藤十郎である。

藤十郎の奥さんが、元タカラジェンヌ、元参議院議長の自民党扇千景だ。

 

「女性にモテない夫なんてつまらない」~宮崎謙介VS四代目坂田藤十郎~金子恵美議員は扇千景大先輩を見習え。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

このニュースは、非常に重要なニュースである。

 

あん摩養成校の新設制限は違憲 国を提訴 | 河北新報オンラインニュース

 視覚障害がない晴眼者を対象としたあん摩マッサージ指圧師養成校の新設申請を厚生労働省が退けたのは違憲だとして、福島県郡山市の学校法人「福寿会」が29日までに、国に処分取り消しを求める訴えを仙台地裁に起こした。国は視覚障害者の保護を名目に晴眼者向けの養成校の新設を制限してきたが、法人側は「職業選択の自由を保障する憲法に反する」と訴える。
 「あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律」は、視覚障害があるあん摩マッサージ指圧師の生計維持を図るため、国が「当分の間」、養成校の新設を制限できると規定。国は1964年にこの規定を追記して以降、見直していない。
 訴えによると、法人は昨年9月、郡山市の医療専門学校に晴眼者向けのあん摩マッサージ指圧師養成コースの新設を国に申請。国は制限規定を適用し、申請を退けた。
 法人側は「半世紀前に比べ、視覚障害者の雇用環境は改善された。国が新設制限の根拠としてきた『当分の間』は明らかに過ぎており、規定は違憲だ」と主張する。
 29日の第1回口頭弁論で国は請求の棄却を求めた。今後、具体的に反論する。
 厚労省の2006年の調査によると、視覚障害者の就業者約8万1000人のうち、3割に当たる約2万4000人があん摩マッサージ指圧師鍼灸(しんきゅう)師だった。同省医事課によると、過去10年、晴眼者向けの養成校の新設は認められていない。同様の訴訟は系列の法人が東京、大阪両地裁にも提起している。

 

憲法改正がどうしたこうした、なんていうローカルな話ではなく、真の意味で、憲法の理念の根幹を揺るがす、「近代」というホモ・サピエンスの歴史の是非を問う、裁判なのだ。

「人権」とは一体何なのか?、こっちのほうがホンモノの憲法問題である。

 

人間世界のありとあらゆる問題を、理性的に、かつ、暴力的に、解決してきたはずの「近代」すら容易に解決し得ない難問、いまだに(永遠に)正解の出ない難問が、ここにある。

 

「自由」「平等」「人権」は、人間にとって至高の価値である(はずだ)。

フランス革命とその後続の騒乱は、その3つを獲得するために、大量の人間を殺してきたのである。

 

アイドルは人権思想と闘う。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

そこには、当然「職業選択の自由」「就職機会の平等」も含まれる。
すべての人間は、その職業を遂行する能力が有る限り、その職業を選択する自由がある。
ゆえに、健常者も盲人も、能力に応じて、平等に、職業に就く権利がある。


例えばマッサージなら、自由と平等の観点からいえば、「資格」など不要な職業である。「資格」など、あろうが、なかろうが、お客を満足させる技能を持つマッサージ師が本物なのだ。

もし、マッサージの上手な健常者と、それより劣る技能の盲人がいたら、自由と平等の観点からいえば、健常者が儲けて、盲人が失業するのが当然である。
もし、資格を理由に、盲人だけの職業とし、健常者を排除するならば、その資格は、健常者への差別であり、盲人の特権なのだ。

 

じゃあ、弱者を保護する、この差別は本質的に「悪」か? その特権は根源的に「悪」か?  そうでないとするならば、自由と平等がいつ何時でもどこでも普遍的に通用する価値ではないことになる。つまり近代社会を根幹から揺るがす難問なのだ。 

自由と平等の近代社会は、職業選択の自由競争は、人権社会は、特権さえ認めればちゃんと自活できる盲人を、能力的に失業させて、社会福祉の対象にしてしまうのである。 

 

フランス革命以前、前近代の世界においては、自由も平等も人権も無かった。ゆえに、逆に、解決方法があった。

弱者を保護するため、盲人と健常者を差別して、盲人に特権を付与すればいい。明治維新以前の日本なら、盲人は検校や座頭として、健常者とは別の自治組織を持ち、特権や職業を保護された。世界中、同じような差別=特権システムがあり、それで何とかやりくりしてきたのである、

 

差別問題といっても、種類が違えば、解決への道も異なる。
差別問題に関心を持つ(だいたいは左翼)人々が間違ってるのは、あらゆる差別を「一緒くた」にしていることだ。


例えば、人種差別や民族差別や部落差別。
これらは、差別するマジョリティ側と差別を受けるマイノリティ側で、知能も体力も変わらない。日本人と朝鮮人アイヌ琉球人は、生物としての能力に格差はない。 
ゆえにこっちの差別は、資本主義社会、自由市場社会が続けば、ある程度は時間の問題で解決する、比較的簡単な差別問題なのだ。
自由な資本主義社会においては、商才があれば、勉強ができれば、スポーツなどの才能があれば、マイノリティ所属者がマジョリティ所属者に勝つこともできる。
お金の無い白人と、お金の持ってる黒人なら、リッチな黒人の方がお客様なのだ。貧乏白人は何の価値も無い。
しかしマイノリティ側とその支援者は、なぜか資本主義を嫌う(笑)。社会主義の方に差別解消の期待を寄せた。しかし、効率よく差別を解消したのは、歴史的にも、資本主義のほうだった。


女性差別は、人種差別や民族差別とぜんぜん違う。
たとえば、ナチスはユダヤ人を皆殺しにしようとしたし、KKKは黒人の全滅を願ってる。しかしイスラム原理主義みたいな女性差別主義者は、女性の滅亡を願ってるわけではない。だってセックスはしたいからだ(笑)。

ゆえに女性差別は資本主義や自由市場だけではすべては解決しないが、それでも資本主義や自由市場がかなり有効な手段には違いない。

 

一番困難な差別は、心身障害者への差別である。
これは人種差別とも女性差別とも異なる。
マッサージ師の問題にもあるように、自由と平等、資本主義と自由市場では、全く解決しない、どころか、正反対に差別を助長するのだ。

なぜなら、自由と平等と人権、資本主義と自由市場、近代は、天皇陛下すら逆らえない、労働至上の「サントリーオールド主義」だからだ。

 

サントリーオールド~天皇陛下生前退位~雅子皇太子妃殿下~相模原障害者殺傷事件~労働価値説。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

もちろん前近代は、近代よりも残酷で陰惨な時代だった。

前近代の世界は、近代のイスラム国やナチスやKKKの連中が、「いくらなんでも残酷すぎる」と青ざめるような蛮行が日常だった世界だ。

心身障害者に対する、差別というより虐待リンチも、想像を絶する。

 

「笑い」は常に「弱者」の敵であり、民主主義は「笑い」の敵だ~動物や障害者を嬲り殺して楽しんできた人間の歴史。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

しかし、差別が許されたゆえに、特権も許される。不完全であっても、前近代社会は前近代なりに、自由と平等と人権ヌキで、心身障害者を保護してきたのである。 

 

前近代において、心身障害者は、そのハンデゆえに、逆に「神に近い人」という宗教的価値を付与された。

 

子冕見。及階。子曰。階也。及席。子曰。席也。皆坐。子告之曰。某在斯。某在斯。師冕出。子張問曰。與師言之道與。子曰。然。固相師之道也。

論語 衛霊公15-41

楽器演奏者が来訪した。孔子は、ここにはこれがあります、あそこにはあれがあります、と一つ一つ丁寧に案内した。

弟子が不満を漏らす。なんで先生ほどの偉い方が楽師風情にあんなにへりくだるのが礼儀ですか? そうだ、あれが楽師に対する礼儀だ。 

 

支那に限らず、古代において、音楽家も盲人の特権的職業だった。

耳なし芳一」の説話にあるように、日本でも平家物語などを弾き語りしてメシを食っていた琵琶法師も盲人の職業だ。盲目に生まれた天皇の皇子・蝉丸法師が彼らの特権を保護する根拠として伝説化したりしている。

孔子が対応した楽師も盲人であり、ゆえに目が見えない彼らに丁寧に状況説明をしたのである。

それは弱者保護でもあるが、ある種の宗教的畏敬も含んでいた。音楽は神への接近手段だったからだ。

 

アフリカ・ルワンダ・サッカー魔法VS靖国神社VS青森イタコ - 在日琉球人の王政復古日記

  

子曰。不得中行而與之。必也狂狷乎。狂者進取。狷者有所不爲也。

論語 子路13-21

正道を行く思想家がいないのならば、凡俗な連中より、思い余って狂気に至るくらいの求道者が好ましい。

 

楚狂接輿。歌而過孔子曰。鳳兮鳳兮。何徳之衰。往者不可諫。來者猶可追。已而已而。今之從政者殆而。孔子下欲與之言。趨而辟之。不得與之言。

論語 微子18-05 

狂気を装った隠者が孔子に忠告する。政治の世界に真理を求めるのは無理だよ。孔子は隠者ともっと対話したかったが、隠者は孔子から世俗から逃げた。

 

孔子の周辺には、狂気すらはらんだ求道者や、狂人を装った世捨て人が現れる。孔子は彼らこそ真理を求める同志だと認めていた。狂気は、真理に、神に、近い存在なのである。

 

もしも、自由と平等と人権の無条件な強制が、逆に、盲人を困窮させるとすれば、自由とは平等とは人権とは、一体何なのだろう?