在日琉球人の王政復古日記

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刃傷「松の廊下」は浅野内匠頭の乱心である(それで不可解な点は何も無い)。元禄忠臣蔵、赤穂浪士、吉良上野介。

「松の廊下」直後の吉良上野介 様子を記す文書発見 | NHKニュース

2016/12/03

赤穂浪士の討ち入りの発端となった江戸城「松の廊下」の刃傷(にんじょう)事件直後の吉良上野介の様子を記した文書が京都の西本願寺で見つかり、当時の様子をうかがうことのできる貴重な史料として注目を集めています。
見つかったのは、吉良上野介と関わりが深かった京都の西本願寺から江戸の築地御坊、現在の築地本願寺に宛てて書かれた書状の控えです。京都市下京区本願寺史料研究所が西本願寺が保存している資料の中から見つけました。
書状は、江戸城「松の廊下」で上野介が浅野内匠頭に斬りつけられた刃傷事件からおよそ3週間後の日付で、「吉良殿の傷が比較的浅く、ふだんどおりに食事をとっていると聞いたので、お見舞いにうかがうように」という内容が記されています。そのうえで、浅野内匠頭が斬りつけた理由について、「乱心した」という情報しかないのでさらに調べるよう、築地本願寺に求めています。
本願寺史料研究所の大喜直彦上級研究員は「西本願寺の情報収集でも、刃傷事件の詳しい理由がわからなかったということから、当時、理由が明らかにされていなかったことがうかがえる。これまで事件直後の史料はほとんど見つかっていないので大変貴重だ」と話しています。

 

「詳しい理由がわからなかった」「理由が明らかにされていなかった」って(笑)、

西本願寺の築地御坊は「乱心」とハッキリ書いてるじゃないか。

 

ホントに理解に苦しむのだが、これだけ状況証拠が揃っているのに、

なんで、元禄赤穂事件に限っては、「乱心以外の理由が何かあるはずだ」という、根拠薄弱な思い込みが、世間から無くならないのか?

 

平成の世、高齢者ドライバーの交通事故が相次いでいる。

そのどれでもいいけど、コンビニに突っ込んだり、通行人を轢いたり、みたいな事件で、「高齢者だから判断能力が鈍っていた」とか、「認知症の疑いもあるかもしれない」とか、これ以上ない常識的な「理由」や「原因」や「動機」が上がってるのに、

「いや、高齢者ドライバーはコンビニに怨恨があったのではないか?」だの、「そうじゃない、事件の背景はもっと深い。老人には見ず知らずの通行人を殺す動機があったに違いない!」だの、そういう、根拠がサッパリ不明な理由」や「原因」や「動機」を持ち出す人が、どれだけいるだろうか?

 

でも、元禄赤穂事件に限っては、そういう根拠がサッパリ不明な理由」や「原因」や「動機」を持ち出す人が後を絶たないのだ。

 

幕府の公式の調べでも、浅野内匠頭「乱心」ということで決着している。

吉良上野介は「理由はわからない。怨みを受ける覚えはない」と供述しているし、

浅野内匠頭だって「コレコレこういう理由でどうしても松の廊下で吉良を切らねばならない理由があった」とは、一言も述べていない。

 

そして、今回見つかった、西本願寺の築地御坊の情報収集でも、「乱心」ということしか判っていない。書いてないんだから、一番有力な理由は「乱心」なのだ。それで何が困るのか?

もしも、その後の調査の結果で異なる理由を浮上したというのならば、西本願寺も記録を残しているはずである。

それがないのならば、もっとも、妥当性のある理由は、事件発生当時の調査が正しく、「乱心」しかありえないではないか。

 

そもそも、浅野内匠頭「乱心」だと仮定して、松の廊下刃傷事件において、疑問点も、不可解な点も、何一つないのである。

吉良を斬り殺そうが、失敗しようが、抜刀の時点で、赤穂藩改易は確実なわけで、理性の働いている大名ならやるはずがない。大名にとって御家以上に大事なモノはない。

だから、破滅確実の凶行をやらかす理由は、「季違いじゃが仕方ない」(c)了念和尚@獄門島、以外にないではないか。

 

元禄の浅野内匠頭は、平成の高齢者ドライバー同様、乱心なのである。それ以外に想定できる理由は見当たらない。

元禄の吉良上野介は、平成のコンビニや通行人同様、100%純粋に可哀想な被害者なわけだ。それを覆すだけの具体的な証拠は何もない。

 

それなのに、「いやいや、日ごろからコンビニが老人をイジメていたんだ」とか、「老人と通行人には、隠された財宝を巡る争奪戦があった」みたいな、ファンタジー仮説を持ち出す人がいるのである。

 

刃傷事件後「痛み軽い」=吉良上野介と面談-西本願寺で史料発見・京都:時事ドットコム

 江戸城・松の廊下で浅野内匠頭吉良上野介に切り付けた「忠臣蔵」の刃傷事件の後、吉良の様子を伝える記録が西本願寺京都市下京区)の所蔵史料から見つかった。吉良について「痛みも軽く、食事も変わらない」と記されていた。西本願寺によると、事件直後の吉良の様子を伝える史料は極めて珍しいという。
 史料は「江戸江遣書状留帳(えどへつかわすしょじょうのとどめちょう)」。西本願寺から江戸の築地本願寺に出した手紙の内容を記録したもので、刃傷事件から赤穂浪士の討ち入りまで、2年足らずの吉良と寺側のやりとりが含まれていた。
 史料によると、元禄14(1701)年3月14日の刃傷事件後、吉良家と親交のあった西本願寺は江戸の関係者らに、見舞いや原因究明を求めた。同年4月5日の手紙には「吉良殿、痛みも軽く、食事も相変わらず」と記述。同10日の手紙では吉良の辞職について触れ、西本願寺側の人間が吉良本人と直接面談したとの記述もあった。
 刃傷事件が起きたときは「不慮の儀」(思いがけないこと)と記述していたが、その後は「(浅野の)乱心」と表現。西本願寺は「うわさでもいいから詳細を知りたい」と江戸に要請するなど、深い関心を寄せていた。元禄15年12月14日の討ち入り後、同24日には「驚いたことである。言語に絶える」とつづっていた。
 本願寺史料研究所の大喜直彦上級研究員は「吉良家と近い関係だった寺側にも、事件の真相はつかめていなかった。浅野家にとっても同様で、この不透明性こそ、討ち入りに発展した原因ではないか」と話している。

 

西本願寺は、討ち入りを驚いている。

つまり、「赤穂側は、コレコレこういう理由があるんだから、怨みを晴らす可能性がある。吉良側に討ち入るかもしれない」なんていう、分析も、噂も、当時は、何にもなかったのである。

つまり、怨恨説も、陰謀説も、当時は考えられていなかったわけだ。

 

政治だろうが、歴史だろうが、陰謀論が当たったことはほとんどない。

ほとんどないんだから、持ち出さないのが、マトモな態度なのである。

 

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