在日琉球人の王政復古日記

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タリウム女子大生「人を殺してみたかった」~ルカ福音書「与えよ。さらば与えられん」~西郷隆盛「始末に困るものなり」

キングコング西野亮廣「お金の奴隷解放宣言」VSリバタリアン西原理恵子「金が無いのは首がないのと同じ」。 - 在日琉球人の王政復古日記

の続き。

 

西郷隆盛が賞賛する、命も名も官位も金もいらぬ人間は、21世紀のイスラム社会にたくさんいる。無差別テロリストが、まさにこのタイプの人間なのである。

 

自分の命も名も官位も金もいらぬ人間は、だいたいにおいて、他人の命も名も官位も金も大事には思ってくれないものなのだ。

自分の命も名も官位も金も「ギブ&ギブ」な人間は、他人の命も名も官位も金も「テイク&テイク」になってしまいがちなのだ。

 

リバタリアン西原理恵子アイン・ランドが、「無償のやり取り」を嫌悪をする理由がここにある。

自分の価値をゴミのように扱う人間は、他人の価値もゴミのように扱うからだ。

 

「カネなんか要らない」という人間は無欲ではない。

カネでは買えない巨大な欲望を持っている可能性があるからだ。

 

この女子大生の欲望も、「他人の生命」というカネでは買えないものだった。

 

<タリウム事件>高校の時に妹殺そうと思った (河北新報) - Yahoo!ニュース

2017/01/20

 森さんを殺害したことは間違いない。人が死ぬ過程を見たかった。一番抵抗されにくいと思う撲殺にした。森さん殺害を決めたのは犯行の1週間前。2014年12月7日、森さんに誘われた宗教の集会後に解説を頼み、私の自宅に向かった。森さんは本当にうれしそうだった。途中で殺害をやめようと思ったり、迷ったりしなかった。
 聖書の解説中、背後に回った。かばんからおのを取り出し、森さんの頭に力いっぱい振り下ろした。木魚をたたくような感触だった。森さんは「私を殺すの?」と聞いたので「はい」と答えた。「どうして?」との問いには「人を殺してみたかった」と答えた。
 森さんは倒れ、意識を失った。5分ほど観察し、まだ息があったので「首を絞めたらどうなるか」を知りたくて森さんのマフラーで力いっぱい首を絞めた。ナイフの刺さり具合を試したくなり、血を掃除しやすい浴室に運んだ。自分のバタフライナイフで首とふくらはぎを刺した。計4、5枚、携帯電話で写真を撮った。実験記録として残しておきたかった。

 

「人を殺してみたかった」タリウム女子大生も、西郷という「始末に困るもの」だ。

 

実際、西郷隆盛の人生だって、暗殺、反幕府テロ、戦争、内戦、人殺しの連続の果て、最後は自決だった。たしかに始末に困るもの」だったのだ。

 

カネでは買えないモノへの欲望。

それは、生命だったり、神だったり、国家だったり、天下だったり。

レーニン毛沢東ポルポトみたいな、共産主義者も、西郷隆盛ナザレのイエス、無差別テロリスト、「人を殺してみたかった」女子大生、つまり、キングコング西野亮廣の陣営なのである。

 

父母妹だけは殺せなかったタリウム事件名大女子大生VS儒家(孔子、孟子、荀子)法家(商鞅) - 在日琉球人の王政復古日記

 

同じく、戦争といえば、支那春秋戦国時代、秦国の始皇帝の配下に王翦という老将がいたそうな。

ちなみに、人気らしい「キングダム」という漫画は全く読んだことがない(笑)。ごめん。

始皇帝は、楚国征伐のため、王翦に、秦国が保有する軍の大半を預ける。

ところが、王翦は、戦争を始める前から、出発した後まで、始皇帝に対して、戦勝の褒美として、土地が欲しい、金銀が欲しいと、ことあるごとに、おねだりした。始皇帝は苦笑しながら約束した。

あまりの貪欲に、王翦部下が「将軍はみっともない」と苦言を呈する。

すると王翦は「おまえは皇帝の猜疑心を判ってない。大半の軍を指揮する私がその気になれば、反乱が起こせる。今の私は皇帝にとって危険人物なのだ。いつ粛清されてもおかしくない。だから、少々の土地や金銀に必死なチンケな守銭奴で、とても国家や天下を狙う大きな器量ではないことを、演じておく必要があるのだ」と答えたという。

 

王翦は、自分が「始末に困るもの」ではないことを証明するために、官位や金を求め続けたのである。

つまり、秦の王翦将軍は、西郷隆盛ではなく、西原理恵子の陣営である。

 

リバタリアンは、あらゆる束縛・支配を嫌い、自由を貴ぶ思想である。

しかし、束縛・支配を嫌い、自由を貴ぶ思想は、リバタリアンだけではない。

もう一つ、大きな思想として、自由のために国家を否定する、アナキズム無政府主義がある。

 

ネットではいまだに、リバタリアンを、まったく正反対の右翼やナショナリズム国家主義とカン違いしてる人々が多い。

 

自由の観点から見れば、

リバタリアンは、アナキズムに近く、

右翼やナショナリズム国家主義は、共産主義に近いのだ。

 

しかし、近いが同じではない。決定的な分かれ道は、

リバタリアンが、カネ=私有財産権を絶対的に重視するのに対して、

アナキズムは、カネ=私有財産権を否定するところである。

 

アナキストに言わせれば「カネも、国家同様、人間の自由を縛る鎖じゃないか」となる。「カネからも解放されないと、真の自由じゃない」ということだ。

 

リバタリアンカネ=私有財産を重視する。

それはエゴイズムに見えて、実は、他人を、社会を、重視することなのである。

だって、カネを直接食うことはできない。カネを食い物と交換して初めて食える。

つまりカネを信頼するということは、交換「ギブ&テイク」を信頼するということであり、つまりは売ってくれる、買ってくれる、他人という存在を、そういうルールを守る社会を、信頼することなのだ。

 

カネを信頼することは、他人を信頼すること。社会を上手く回すこと。

そのシステムを日本に本格的に持ち込んだのが、平安末期の平清盛であった。

清盛入道も、秦国の王翦将軍と同じく、西原理恵子の派閥だ。

 

チョコパイとマルボロ~「平清盛VSポルポト」の5000年戦争(その1) - 在日琉球人の王政復古日記

 

NHK大河ドラマで不人気だった(笑)、武士の時代を開いた平清盛と、

次の大河ドラマらしい、武士の時代を終わらせた西郷隆盛は、

思想的に正反対なのだ。

 

逆に、カネなんかどうでもいいと軽視することは、交換を軽視し、他人を軽視し、社会を否定する態度につながる。

アナキストは、カネを否定し、国家を否定し、ルールも否定する。

となれば、どうやって食い物を手に入れるのか?、という問題になる。

そこで、キングコング西野亮廣とルカ福音書が登場するのだ。

 

キングコング 西野 公式ブログ - お金の奴隷解放宣言。 - Powered by LINE

それに、「西野君、こないだはありがとね」と夜ご飯ぐらいご馳走してもらえるんじゃねぇかな、と思っています。
だったら、もう『お金』なんて要らないです。
僕とあなたの間から『お金』を取っ払います。 

 

「与えよ。さらば与えられん」の世界である。

たしかに、もしも、世界中のみんなが家族に、みんなが友人になってしまえば、この世に「他人」は存在しなくなる。そうなれば、カネも必要なくなる。

他人がいない世界では、商売も、契約も、ルールも、「ギブ&テイク」も、カネも、不要なのだ。あなただって、親子の間で、モノの売り買いはしないはずだ。

 

しかし、まだ、「他人」が存在するのに、カネだけ廃止したらどうなるか?

アナキストだけでなく、共産主義者カネを否定する。

アナキストの社会実験はまだ例がないが、共産主義者の社会実験は実例がある。

カンボジアポルポトは、まだまだ他人がたくさんいたのに、いきなりカネだけを廃止した。カンボジア人は食い物を買えなくなり、結果は餓死者の山だった。

 

妖怪ウォッチとアベノミクス~「平清盛VSポルポト」の5000年戦争(その2) - 在日琉球人の王政復古日記

 

そういう危険性を内包したアナキズムを推し進めていくと、どうなるか? 

そういう映画がある。

  

《アナキズム映画列伝》 「ファイト・クラブ」(1999年)《ファシズム映画列伝》~ブラッド・ピット、キングコング西野亮廣、リバタリアン西原理恵子。 - 在日琉球人の王政復古日記

に続く。