在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

《馬鹿映画列伝》「まぼろしの市街戦」(1966年)~ヨハネ福音書「言葉は神」VS創世記「善悪を知る木」。

創世記
2:16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
2:17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

 


まぼろしの市街戦 予告編

 

読書時間ゼロ、大学生の5割に 増えたのはスマホの時間:朝日新聞デジタル

2017年2月24日
 1日の読書時間が「0分」の大学生は約5割に上る――。全国大学生活協同組合連合会(東京)が行った調査でこんな実態が明らかになった。書籍購入費も減る一方、スマートフォンの利用時間は増えた。
 調査は学生の生活状況を調べるため、毎年行っており、全国の国公私立大学30校の学生1万155人が回答した。
 1日の読書時間が「ゼロ」と回答したのは49・1%で、現在の方法で調査を始めた2004年以降、最も高かった。平均時間も24・4分(前年比4・4分減)で、04年以降で一番少なかった。1カ月の書籍購入費も減る傾向で、自宅生が1450円(同230円減)、下宿生が1590円(同130円減)で、いずれも過去最低だった。

 

「読書時間0分の大学生」が存在する理由は、スマホの責任ではない。
読書時間0分でも落第しない、卒業できる大学」だからである。
読まなくて済むのなら、読む義理はない。
読まない「大学生」側の問題ではなく、読まなくて済む「大学」側の問題だ。

 

つまり、平成日本にある「大学」の大半は、中世ヨーロッパが産んだ神学者養成のための「ユニバーシティ」とは、全く違うモノに変質しているだけの話だ。

平成日本の「大学」は「サラリーマン免許交付所」である。運転免許を取るための自動車学校と同じだ。 

平成日本の大学は、「卒業」に、というか、「卒業」にのみ、絶対的価値があるのであり、4年間に勉強した内容はほとんど価値がない。

 

ここで間違ってはいけないのは、「だから日本の大学はダメ」なのではない。
その時代に存在するモノの大半は、その時代が必要にしてるから存在してる。

もし平成日本の大学が「これではいけない!」とカン違いし、中世ヨーロッパの「本来の大学」に先祖帰りし、学生を徹底的に教育し、毎年毎年何万人ものスコラ神学者を養成されても、経団連も安倍ちゃんも困ってしまうだろう。

 

その時代にはその時代の需要があるのだ。

平成日本では、ラテン語が読めるスコラ神学者より、名刺交換のマナー知っているサラリーマンの方が必要とされるのである。 

逆に、中世ヨーロッパでは、名刺の出し方を知っていてもクソの役にも立たない。

平成日本の大学生に求められるのは、 

ヘーゲル哲学やケインズ経済学を読み込んだけど、無精ヒゲは剃らないわ、挨拶はしないわ、言葉は乱暴だわ、他人との協調性ゼロ、なんてヤツより、
挨拶の仕方を知って、言葉遣いがキチンとして、身だしなみがキレイで、人当たりがイイ、経済学の知識は日経新聞が20%くらい判ります、というサラリーマンなのだ。

そんな種類の「教養」を求められてる平成日本の大学生が、なんで本なんかを読まなければいけないのか?

 

つーか、そもそも、ここで話題になってる「読書」ってナニ? どんな種類の読書でもイイのか?

ドストエフスキーのロシア語版を、露和辞典片手に、必死こいて、時間かけて、やっと1冊、なんとか最後のページまでたどり着きました、という「要領の悪い」大学生と、 

凡庸なビジネスマナー本や、経営者のオレオレ自慢本や、芸能人のゴシップ本を、トータル50冊も読みました、という「要領のイイ」大学生と、
どっちが「本」を読んだことになるのか?

 

時代によって教養は変わる。

小説はなんで「小説」と呼ばれているのか?
「大説」との対の言葉である。「大説」とは支那古典の四書五経、ようは歴史、政治、哲学の本である。
「大説」以外の、虚構だの文学だの娯楽だのは「小説」と呼ばれた。つまりは「小説」とは蔑称なのだ。

昔の支那ならば、今や誰も読まない四書五経が最高で、今でも人気のある三国志演義だの西遊記だのは下賎の戯れであり、そもそも教養として認められない。儒者ならば「小説なんか、本の範疇には入らん!」と怒るだろう。

明治時代のインテリ青年がフランス語の原書で小説を読んでいたら、大学の先生が「遊んでるヒマがあったら、ドイツ語の法典でも読め」と叱った、なんていう逸話もある。

中世ヨーロッパなら、今やほとんど役に立たないキリスト教神学が最高の学問で、今でも役に立ちそうな修辞学だの数学だの語学などは劣位の初級学問だった。

 

教養は政治や信仰によっても激変する。

朝日新聞を熟読して、週刊金曜日も欠かしません」という読書を、保守派の皆さんは真っ当な教養として認めるだろうか?
産経新聞を熟読して、三橋某や百田某の本も買ってます」という読書を、左派の皆さんは真っ当な教養として認めるだろうか?

 

そして、読書だけが教養なのか?

「上司に気に入られる100の方法」だの「性格美人になって彼氏をゲット!」だの、そういう本を山ほど読むのと、

ミケランジェロを見たり、伊万里を手に取ったり、風雪吹きすさぶ冬の日本海をじっと眺めたり、真夏の山に分け入りただただ蝉の鳴き声に耳を澄ませるのと、

どっちを「教養」と呼ぶのか?

 

スマホが悪い」「ゲームが悪い」なんていう、うんざりするほど陳腐なニューメディア批判は大昔からある。半世紀前は「マンガのせいで、テレビのせいで、本が読まれなくなった」と批判されていた。

その程度のライバルに負けるなら、それは負ける「活字」の方が悪い(笑)。

 

つーか、本だの活字だの、いや「文字」というモノこそ、マンガやスマホ同様、「大昔のニューメディア」ではないか。

文字の無かった時代や、文字の無かった地域の人々は、

「最近、川向こうのヘンテコな連中は《文字》なんていう奇妙奇天烈なモノを使い出した。あいつらは、本当の星空を眺めず、現実の草花を愛でず、『星空』や『草花』を意味するらしい奇妙な図形ばかりを見ている、頭のおかしな馬鹿者だ」

てな「ニューメディア批判」をやっていたはずだ。

そして、そうやって批判している文字を持たない彼らも、「言語」というニューメディアでぼやいてるのだ。 

「ウッホ」とか「グワー」としか言わなかった御先祖様たちから見れば、十分「新しモノかぶれ」なのである。

 

さらに根本的なことを言えば、本を読むって、文字が読めるって、教養があるって、知識が広がるって、無条件で良いことなのだろうか? 人間は文字で幸せになったのだろうか?

 

支那儒教教養主義である。

論語泰伯
08-08 子曰。興於詩。立於禮。成於樂。
子曰く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る。 

そのアンチテーゼとして老荘思想がある。

老荘の系譜にこういう一説がある。

昔者蒼頡作書。天雨粟。鬼夜哭。 
古の昔、蒼頡という名の4つ目の神様が、漢字を作った。すると、天は穀物を雨の如く地上に降らせ、幽鬼たちは暗黒の闇の中で号泣した。

人間は、文字の発明によって、莫大な物理的富を得た。が、心霊的豊穣を喪失した。
何千年も前から、人間はその逆説に気付いていた。

 

キリスト教旧約聖書の創世記によれば、アダムとイブは、神の禁忌を破って「知恵の実」を食べ、恥を知る。しかし楽園から追放される。

産めよ増やせよ地に満ちよ、と、近代資本主義に通じるイケイケ志向の聖書にあっても、「知恵を持ったのが不幸の始まり」という発想はあった。

  

ただし、聖書の各パートによって、言ってることがサカサマになる。
新約のヨハネ福音書によれば「言葉は神」なのだが、
旧約の創世記では、知恵の実を食べるな!と神=言葉は命じる。
いったい、どっちが正しいのか?、結局、神は人間にどうなって欲しいのか?
クリスチャンではない私は知らない(笑)。

 

《馬鹿映画列伝》「26世紀青年/IDIOCRACY」(2006年)~論語VS老荘~イワンの馬鹿、ポルポト、反知性主義。 - 在日琉球人の王政復古日記

に続く。