<相模原事件>甘えん坊の娘、現実結びつかない 被害者の父 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
2017/7/22(土)
相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害された事件で、35歳だった長女を奪われた神奈川県内の父親(62)が毎日新聞の取材に応じた。「娘がこんなに可愛かったことを知ってほしい」。父親は時折、笑顔を見せながら思い出を語った。
長女は身長約140センチ、体重約35キロと小さかった。父親のことを「ちち」と呼んだ。父親がやまゆり園の長女の部屋を訪ねると、長女は父親の手を引っ張った。2人で散歩やドライブに行った。「甘えん坊で、本当に可愛かった」
歩いたり話したりできず、成長が遅いことに気付いた母親が病院に連れて行き、3歳のころに脳性まひと診断された。その後、養護学校に通い、両親と5歳年上の長男、2歳年下の次女が日常を支えた。
8年ほど前、母親にがんが見つかった。母親の入院と治療のため、長女は2012年7月にやまゆり園に入所した。翌月、母親は他界した。
長女の障害を周囲に隠したことはない。だが、長女のことが大切だからこそ「家族だけで静かに悼みたい」と、事件に巻き込まれたことは知らせていない。
事件からまもなく1年になるが、殺人罪などで起訴された植松聖(さとし)被告(27)への感情は湧いてこない。「娘が亡くなったことを、まだ現実として受け止められない。娘がいなくなったことと事件が、まだ結びつかない」。考え込むようにそう言った。【国本愛】
あれから1年。まずは、犠牲者19御柱のご冥福をお祈りしたい。
<相模原事件>娘の死、向き合えぬ 62歳父、がん延命拒否 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
2017/7/22(土)
19人の命を一度に奪った「津久井やまゆり園」の殺傷事件。愛する長女(当時35歳)を失った父親(62)が口を開いた。現実に向き合おうとしては思い出がよみがえり涙する。その繰り返しの1年だった。自らは今春、がんと診断された。「もうすぐいくよ」。仏壇の前で毎朝、語り掛ける。【国本愛】
長女の朝は、甘めのコーヒーを飲むことから始まった。大きなマグカップに母親が氷を一つ落とす。眠そうな顔で一気に飲む。足りないとテーブルをカップでコンコンとたたいた。父親のまぶたには、そんな日常が焼き付いている。
仕事人間だった父親は49歳で早期退職してから、長女と一日中、一緒に過ごした。長女はソファに腰掛ける父親の足や肩をトントンとたたき、抱っこをせがんだ。本を読もうとすれば「かまって」とばかりにはたき落とした。夜中になると布団に潜り込んできた。
長女が食事を粗末にした時、怒ったことがある。すねて口を利いてくれなくなり、最後には折れて「ごめんね、お父さんが悪かった」と謝った。「気まぐれでわがままで、甘えん坊だった」
あの日の朝、テレビで事件を知った。駆け付けた園で職員から「亡くなりました」と知らされた。長女と対面できたのは午後8時ごろ。傷痕は見えなかった。「すごくきれいで、今にも起きそうだった」。家族だけの葬儀を済ませ、ひつぎには長女が大好きだった「となりのトトロ」の絵本を入れた。
そばにいたくて、四十九日まで骨つぼを枕元に置いた。毎朝、仏壇にコーヒーを供えて「元気か?」と声を掛け、「元気ってことはねえか」とつぶやくのが日課になった。
思い出が詰まった自宅での1人暮らしは、つらい。洗面所で歯磨きをすると、後ろから抱きついてきた長女を思い出す。トイレにも、リビングにも……。施設に預けた自分を責めた。少しずつ現実を受け止めようと生きてきたが、ふとした瞬間に「もういないんだ」という現実が去来し、おえつしてしまう。
今年3月、がんと診断されたが、延命治療は選択していない。
最後に会ったのは、事件の3週間前。肩の具合が悪く、いつもする抱っこができなかった。「次はしてあげるね」。すねた長女に言って別れた。父親は「最後に抱っこしてあげられなかった。早く会って、抱っこしてあげたいなあ」と、ぽつりと漏らした。
当ブログは、読んでもらえれば判るように、政治の話題が中心である。
かといって、安倍がどうした、オキナワがこうした、支那がそうした、韓国がああした、なんていう身近なトピックスもないではないが、古今東西、遠い場所、遠い時代の話も多い方だと思う。
実は、私は人間が大嫌いだ(笑)。
自分を含めて、人間という存在がホントに嫌いだ。
自分でも、自分を下種野郎、性格破綻者だという自覚はある。
人間が大嫌いだからこそ、人間と人間の関係である政治はもっと嫌いだ(笑)。
なのに、だからか、そのクソまみれの魔性に引き寄せられる。
おそらくだが、癌を研究しているお医者さんも、癌を愛してるわけじゃないだろう。
政治という割には、宗教の話題もする。
中でも釈迦や仏教という単語はよく出てくる。
私自身が人間嫌いだから、同じく人間嫌いだったはずの(笑)釈迦が好きだ。
人生は、世界は、宇宙は、苦しみに満ちている。
四苦八苦
生(産まれること)。
病(病むこと)。
老(老いること)。
死(死ぬこと)。
愛別離苦(愛するモノとは、必ず、別れの時が来ること)。
怨憎会苦(憎むべきモノには、不可避に、出会うこと)。
求不得苦(望みは適えられないこと)。
五蘊盛苦(身も心も思い通りにはならないこと)。
愛は苦しみである。愛するから憎しみも生れる。
愛を捨てよ。そうすれば平穏が訪れ、汝の傷は癒される。
と釈迦は法=ダルマを説き給う。
安珍( #小朝 #船越英一郎 )VS清姫( #泰葉 #松居一代 )~ #浦和レッズ サポーター平成道成寺。 - 在日琉球人の王政復古日記
これは、商売敵(笑)ナザレのイエスとは、まったく正反対だ。
マタイ福音書
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
じゃあ、どうやったら、人間は救われる?
インドの釈迦曰く「犀の角のようにただ独り歩め」。
日本の上西小百合曰く「他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ」。
「スッタニパータ 第一 蛇の章 犀の角」
あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。いわんや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。
交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。
(略)
サッカーの応援しているだけのくせに、なんかやった気になってるのムカつく。他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ。
— うえにし小百合(上西小百合) (@uenishi_sayuri) 2017年7月16日
インドの釈迦と、平成の女人無縁仏・上西小百合如来の教えは、生まれ育ちが違うせいで、言葉の上品・下品の違いはあれど(笑)、まったく同じ方向なのである。
女人無縁仏 #上西小百合 如来~ #他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ = #犀の角のようにただ独り歩め - 在日琉球人の王政復古日記
これも「商売敵」とは正面衝突である。
ヨハネ福音書
3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
3:18 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。
釈迦は、救われたければ、天涯孤独の一人ぼっちになれ、と説くが、
イエスは、救われたければ、神という他者を受け入れよ、と説く。
言い換えれば、イエスは、
「(1本しかない)サイの角のようにただ独り歩め」ではなく、
「(2本ある)ウシの角のように神(イエス)と一対になって共に歩め」、
「他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ」ではなく、
「神に、自分の人生乗っけろ」と説いたのである。
私は、ナザレのイエスより、インドの釈迦の方が好きだが、それでも、釈迦の説法は完璧だ、人間の全てを網羅する、とは思っていない。
釈迦には、最大の弱点(まあご本人は「それはオレの弱点ではなく、アンタたちの弱点じゃん。そこを直せ、って言ってるじゃん」と反論するだろうが)がある。
相模原障害者施設殺傷事件から1年。一番上の記事を読む。
恥ずかしながら私は人間が非情に悪くできているので、「甘えん坊で、本当に可愛かった」障害者の娘とその家族の間に、美しい愛の35年だけがあった、とは思えない。
35年前から、父と母の間に、「どうしてウチの娘だけが?」「いったい何が悪かった?」「おまえが!」「いや、あなたが!」という「修羅」がなかったとは思えない。
優しい父が、「甘えん坊で、本当に可愛かった」娘を、憎悪した瞬間なんて無かった、ワケも無いだろう。
だからといって、「甘えん坊で、本当に可愛かった」もウソではない。それもまた真実であろう。
人間の一生は、本当に、本当に、本当に、大変である。人間には無理だ。
「笑い」は常に「弱者」の敵であり、民主主義は「笑い」の敵だ~動物や障害者を嬲り殺して楽しんできた人間の歴史。 - 在日琉球人の王政復古日記
「勝新太郎座頭市VSフランス革命」の200年戦争~冷酷な自由VS無情な平等VS慈悲ある差別VS根拠ある特権。 - 在日琉球人の王政復古日記
娘を失い、さらに、癌まで発症した父の心痛、察するに余りあるが、
おそらくは、彼よりも、彼の妻=彼女の母の心痛の方が、さらに大きかったはずである。
「娘もいない。妻もいない。この世に思い残すこともない。私は、娘に、妻に、会いたい。ホンネを言えば、もう頑張ることに少々疲れた」と、延命治療を拒否した父=夫より、
「この娘を残して、夫を残して、私だけが死ぬなんて、そんなことは死んでもできない!私にはやらなければならないことがある!死ぬわけにはいかない!」と、痛みに耐えて延命を願った母=妻の苦悩と絶望の方が何千倍も深かったはずである。
母=妻は、長女の病に気付かぬまま、長女誕生の2年後の次女も産んでいる。その1年後に長女の病が判明する。
もしも、次女の妊娠が遅ければ、心理的にも、経済的にも、次女は中絶だったかもしれない。これを神の配慮と呼ぶべきか、単なる偶然と呼ぶべきか。
どちらにしても、次女も長女と同じではないのか?という不安の中、病気の長女、生まれたての次女を同時に抱えて育てた、母=妻の苦悩は想像を絶する。
古今東西、親と子の間に、そんなモノが見つかったことは一度もない。~少女A「佐世保女子高生バラバラ殺害事件」 - 在日琉球人の王政復古日記
子守唄は子殺し歌(1番)~ジブリ「となりのトトロ」~姉さつきは妹メイに「大根きざむよに」殺意を抱いたか? - 在日琉球人の王政復古日記
子守唄は子殺し歌(2番)~ジブリ「となりのトトロ」~鬼がくるよ!お化けが出るよ!と悲鳴を上げる鬼やお化け。 - 在日琉球人の王政復古日記
子守唄は子殺し歌(3番)~ジブリ「となりのトトロ」~昔は「初産の子供」が「初めての子育て」ではない。 - 在日琉球人の王政復古日記
釈迦は本当に正しい。
別れねばならない愛する人を失った、思い残すこともない、父=夫より、
別れねばならない愛する人を残した、思い残すことだらけの、母=妻の方が、
はるかに苦しむのだ。
釈迦は、生(産まれること)、病(病むこと)、死(死ぬこと)、求不得苦(望みは適えられないこと)、五蘊盛苦(身も心も思い通りにはならないこと)、全てを見通していた。
被害者の娘は仏壇に祀られている。父=夫は仏教徒である。
しかしだ。釈迦は、この父=夫を救えるのか?
『おなかすいた』(2) #植松聖 相模原障害者施設殺傷事件~障害者の娘、癌の父母VS無力な敗北者・孔子の慟哭。 - 在日琉球人の王政復古日記
に続く。