在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

フェリーニ映画「道 La Strada」(1954)~「男はつらいよ/ザンパノ革命記念日」~無責任な啓蒙という残酷。

最初に断言する。

私は「昭和残侠伝」「女賭博師」「まむしの兄弟」「女囚さそり」が守備範囲。

こういう高尚な映画は、完全に「守備範囲外」である(笑)。

 


Nino Rota 映画「道」 La Strada ~ Gelsomina

 

しかし、「無理して観て、やっぱり玉砕する」のと、「最初から、存在すら知らない」のは、やっぱり少々異なると思う。 

 

世に名作・傑作と呼ばれる映画は多い。

しかし実は、名作・傑作と呼ばれる、特に古い映画になると、実際に観た人の数は、案外少なかったりする。

 

ハッキリ言って、日本限定ならば、フェリーニの「道/La Strada」よりも、フジテレビ映画「踊る大捜査線」を見た人の方が多かったりするはずだ。

東映ボンクラ小僧ですら、それはいくらなんでもあんまりだ!とは思うが、

現実の俗世というのは、正視に耐えられぬほど冷酷非情なモノだ。

 

ネットには映画マニアが山ほどいるだろうから、「道/La Strada」への正統な映画レビューは、他をググってもらうとして、東映ボンクラ小僧の個人的な感想を。

 

この映画を見て、すぐに思い出したのは、渥美清山田洋次の松竹「男はつらいよ」シリーズであった。

この映画の主人公ザンパノは「イタリアの車寅次郎」である。

 

粗野で乱暴で野獣のような放浪の大道芸人ザンパノは、下働きとして、困窮した一家から知恵遅れのヒロイン・ジェルソミーナをハシタ金で買う。

そして、あれこれコキ使うのだが、不思議なことに、性欲の処理は、彼女ではなく、わざわざ別の女を買うのだ。せっかく買ったジェルソミーナ相手にセックスすればいいのに、そういうシーンは出てこない。主人公ザンパノは、ヒロイン・ジェルソミーナに対してだけは、性的に不能なのだ。

 

放浪のテキヤである寅さんも、マドンナに恋心を抱くが、性的反応は示さない。ひょっとしたら、寅さんは性的不能者ではないか?という疑惑がある。

 

松竹映画「男はつらいよ」車寅次郎VS東映映画「トラック野郎」星桃次郎~【追悼】高倉健&菅原文太&渥美清。 - 在日琉球人の王政復古日記

寅さんも桃次郎も美女に惚れるところは同じだが、肉体的反応が異なる。

 

寅さんには「性の臭い」がしない。女性を前にして勃起してないのである。

もしも、寅さんがマドンナとの恋愛を成就したとして、その後、寅さんはマドンナといったい何をするつもりなのか?セックスするつもりが本当にあるのか?そもそも出来るのか?ズバリ寅さんのチンチンは勃起するのだろうか?と疑わせる。

いい歳こいた中年男性が成人女性に惚れながら、性的衝動が全くないのは異常である。「寅さん=性的不能者」説もありえる話だ。というか、セックスする気も無いのに、美女に惚れる寅次郎の精神構造が理解できない(笑)。

ひょっとしたら、寅次郎は自己の性的不能を隠蔽するために、定期的に、恋愛騒動を「演じている」だけなのかもしれない。

実際、マドンナ側から寅さんへ愛を告白して、両思いになりそうな作品もあるのだが、そうなると寅さんはマドンナから必ず逃亡するのである。ベッドインして勃起しないことがバレるの怖いのだろう。

 

ザンパノも性的不能者かどうかはわからない。ザンパノは寅さんと違って、女を買ってるし一夜を共にしてるから、一応性的能力はあるのだろう。しかし、ジェルソミーナに対してだけは、性的に無欲=異常なのだ。


性的には不思議なんだが、残酷ながらも、それなりに上手くいっていたザンパノとジェルソミーナの二人旅に、余計な「情報」を入れて、混乱させ破滅に追い込むのは、若い綱渡り芸人である。

 

「私は何の役にも誰の役にも立たない」と嘆くジェルソミーナに、綱渡り芸人は「石ころにだって意味がある。君の存在にだって意味はある」とジェルソミーナを慰め励ます。

 

綱渡り芸人のやったことを「啓蒙」という。

蒙を啓く、暗闇に光を与える、真実を教える、無知蒙昧な人間に近代人権思想を説く。

綱渡り芸人は「生けるフランス革命」なのだ。

 

貧乏な家族から娘を買い叩いて、奴隷として労働を強制する。そんな前近代まる出し、古代中世まんまの人間関係である、ザンパノとジェルソミーナの生活に、近代啓蒙思想が割り込んできたのである。

 

それはそれでいいのだが、綱渡り芸人の啓蒙は、中途半端で、無責任過ぎる。

 

君たちも近代人になるべきだ!ならねばならない!という啓蒙を、ザンパノとジェルソミーナ、双方に、同時に、やるのなら意味がある。

奴隷のジェルソミーナに「君にも人権がある。一個の人格なのだ」と教え、

主人のザンパノにも「彼女にも人権がある。一個の人格として対等に扱え」と説得するからこそ、

両者の関係は、健全で近代的なパートナーシップに生まれ変わる。

 

しかし、綱渡り芸人は、ジェルソミーナには親切に啓蒙するのに、ザンパノには「アンタは人間のクズだ」と軽蔑と侮辱と挑発を繰り返す。

 

片方だけに啓蒙して、もう片方を放置すれば、片方が近代人に生まれ変わって、もう片方は前近代のまんま。

ジェルソミーナ「私も人間よ!」

ザンパノ「馬鹿か。オマエはオレが買った所有物だ」 

 

今までは「ケモノのザンパノ」と「ケモノのジェルソミーナ」のコンビだからこそ、それなりに上手くいっていたのだ。
それを「ケモノのザンパノ」と「人間のジェルソミーナ」のコンビにしてしまっては、破綻するに決まっている。

綱渡り芸人は、「ケモノのザンパノ」を「人間のザンパノ」に啓蒙する気が無いのならば、「ケモノのジェルソミーナ」だけを「人間のジェルソミーナ」に啓蒙してはいけなかった。それは無責任で残酷な行為なのだ。

 

野獣ザンパノは、ケンカを売りまくる綱渡り芸人にとうとうブチ切れて、殺してしまう。しかしザンパノが凶暴だとは思わない。男なら、あれだけバカにされ、侮辱され、からかわれたら、相手を殴って当たり前である。

 

ザンパノが優しかった綱渡り芸人を殺したことで、もともと知恵遅れだったジェルソミーナはとうとうホンモノの狂気におちいる。

ジェルソミーナは狂うことで、ザンパノが犯した「罪」を糾弾し続ける。
耐え切れなくなったザンパノは、狂気のジェルソミーナを見捨てて逃げる。
生活手段を失ったジェルソミーナは野垂れ死にする。

 

ザンパノの逃亡は無責任で無慈悲な行為だ。

しかしザンパノに他の手段があっただろうか?

 

もしもザンパノがジェルソミーナの糾弾を受け入れたとしよう。

「やった罪を認めよ。当然の罰を受けよ。それが人間だ」これも啓蒙である。

ザンパノが警察へ自首する。監獄に入る。

さて、それでジェルソミーナはどうなるのか?

やっぱりジェルソミーナは独りぼっちになることには変わりがない。待っているのはやっぱり野垂れ死にである。

ザンパノが罪を認めても、ジェルソミーナが野垂れ死にするのは同じなのだ。


ザンパノのいらだちは「それ」なのだ。

『オマエたち(ジェルソミーナ、そして、綱渡り芸人)はオレの罪を糾弾するが、オレが正当な罰を受けたら、オマエ(ジェルソミーナ)は死ぬしかないのだぞ! オマエ(ジェルソミーナ)を殺したのは、オレじゃない。オマエ(綱渡り芸人)だ!』

 

綱渡り芸人の近代啓蒙思想こそが、残酷ながら平穏だった「ケモノの二人旅」を地獄に突き落としたのである。

ジェルソミーナを殺した真犯人は、中途半端で無責任な啓蒙をやらかした綱渡り芸人なのである。 

 
最後にザンパノは号泣する。
ジェルソミーナの死を知って人間性に目覚めて号泣した、と映画の解説はいうけれど、ザンパノは、綱渡り芸人を殺した時点で、もう人間性に目覚めていたように思う。

しかし、ザンパノが人間性に目覚めたことろで、「無知ゆえに不幸を感じないで済んでいるケモノ」が、「知恵あるゆえに不幸に気が付いた人間」になるだけの話だ。

今まで「無知ゆえに不幸を感じないで済んでいるケモノ」だったのに、ザンパノはついに「人間性=近代啓蒙思想=殺したはずの綱渡り芸人」に追いつかれてしまう。

人間性という、返しようがない原罪、支払いきれない負債を抱えて、泣くしかないザンパノ。

 

ザンパノは、ジェルソミーナを買ったのがそもそも大間違いだった。

「綱渡り芸人」は、近代という、避けようがない時代の産物だ。必ず、何らかの形で、ジェルソミーナの耳元でささやき、「蒙を啓く」のである。

ジェルソミーナはいつの日か爆発する時限爆弾だった。

 

だから、日本の寅さんは「ジェルソミーナ」を買わない。

マドンナや妹のさくらとは絶対に一緒には暮らさない。

だから寅さんは49作品も生き続けることができたのだ。

  

ただし、寅さんにも、カメラに写っていない、安宿の布団の中で、ザンパノと同じような「号泣」をした夜はあっただろうが。