在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

フェリーニ「道 La Strada」(1954)~イマジカBSからシネフィルWOWOWへ~ザンパノはつらいよイタリア慕情。

2017年10月1日本日、無料放送らしい。

 

道 [最高画質版] | イマジカBSからシネフィルWOWOWへ

放送 2017年10月01日(日) 21:00〜23:00
監督 フェデリコ・フェリーニ
出演 アンソニー・クイン ジュリエッタ・マシーナ
制作 1954年

 


Nino Rota 映画「道」 La Strada ~ Gelsomina

 

最初に断言する。

私は「昭和残侠伝」「女賭博師」「まむしの兄弟」「女囚さそり」が守備範囲。

こういう高尚な映画は、完全に「守備範囲外」である(笑)。

 

しかし、「無理して観て、やっぱり玉砕する」のと、「最初から、存在すら知らない」のは、やっぱり少々異なると思う。 

 

世に名作・傑作と呼ばれる映画は多い。

しかし実は、名作・傑作と呼ばれる、特に古い映画になると、実際に観た人の数は、案外少なかったりする。

 

ハッキリ言って、日本限定ならば、フェリーニの「道/La Strada」よりも、フジテレビ映画「踊る大捜査線」を見た人の方が多かったりするはずだ。

東映ボンクラ小僧ですら、それはいくらなんでもあんまりだ!とは思うが、

現実の俗世というのは、正視に耐えられぬほど冷酷非情なモノだ。

 

モノは試しである。無料らしいから、これを機会に、全世界の映画マニアが涙した名作傑作にチャレンジするのも一興だとオススメしたい。

 

ネットには映画マニアが山ほどいるだろうから、「道/La Strada」への正統な映画レビューは、他をググってもらうとして、東映ボンクラ小僧の個人的な感想を。

 

この映画を見て、すぐに思い出したのは、渥美清山田洋次の松竹「男はつらいよ」シリーズであった。

この映画の主人公ザンパノは「イタリアの車寅次郎」である。

 

粗野で乱暴で野獣のような放浪の大道芸人ザンパノは、下働きとして、困窮した一家から知恵遅れのヒロイン・ジェルソミーナをハシタ金で買う。

そして、あれこれコキ使うのだが、不思議なことに、性欲の処理は、彼女ではなく、わざわざ別の女を買うのだ。せっかく買ったジェルソミーナ相手にセックスすればいいのに、そういうシーンは出てこない。主人公ザンパノは、ヒロイン・ジェルソミーナに対してだけは、性的に不能なのだ。

 

放浪のテキヤである寅さんも、マドンナに恋心を抱くが、性的には全く不能である。ひょっとしたら、寅さんは性的不能者ではないか?という疑惑がある。

 

松竹映画「男はつらいよ」車寅次郎VS東映映画「トラック野郎」星桃次郎~【追悼】高倉健&菅原文太&渥美清。 - 在日琉球人の王政復古日記

寅さんも桃次郎も美女に惚れるところは同じだが、肉体的反応が異なる。

 

寅さんには「性の臭い」がしない。女性を前にして勃起してないのである。

もしも、寅さんがマドンナとの恋愛を成就したとして、その後、寅さんはマドンナといったい何をするつもりなのか?セックスするつもりが本当にあるのか?そもそも出来るのか?ズバリ寅さんのチンチンは勃起するのだろうか?と疑わせる。

いい歳こいた中年男性が成人女性に惚れながら、性的衝動が全くないのは異常である。「寅さん=性的不能者」説もありえる話だ。というか、セックスする気も無いのに、美女に惚れる寅次郎の精神構造が理解できない(笑)。

ひょっとしたら、寅次郎は自己の性的不能を隠蔽するために、定期的に、恋愛騒動を「演じている」だけなのかもしれない。

実際、マドンナ側から寅さんへ愛を告白して、両思いになりそうな作品もあるのだが、そうなると寅さんはマドンナから必ず逃亡するのである。ベッドインして勃起しないことがバレるの怖いのだろう。

 

ザンパノも性的不能者かどうかはわからない。ザンパノは寅さんと違って、女を買ってるし一夜を共にしてるから、一応性的能力はあるのだろう。しかし、ジェルソミーナに対してだけは、性的に無欲=異常なのだ。


性的には不思議なんだが、残酷ながらも、それなりに上手くいっていたザンパノとジェルソミーナの二人旅に、余計な「情報」を入れて、混乱させ破滅に追い込むのは、若い綱渡り芸人である。

 

「私は何の役にも誰の役にも立たない」と嘆くジェルソミーナに、綱渡り芸人は「石ころにだって意味がある。君の存在にだって意味はある」とジェルソミーナを慰め励ます。

 

綱渡り芸人のやったことを「啓蒙」という。

蒙を啓く、暗闇に光を与える、真実を教える、無知蒙昧な人間に近代人権思想を説く。

綱渡り芸人は「生けるフランス革命」なのだ。

 

貧乏な家族から娘を買い叩いて、奴隷として労働を強制する。そんな前近代まる出し、古代中世まんまの人間関係である、ザンパノとジェルソミーナの生活に、近代啓蒙思想が割り込んできたのである。

 

それはそれでいいのだが、綱渡り芸人の啓蒙は、中途半端で、無責任過ぎる。

 

君たちも近代人になるべきだ!ならねばならない!という啓蒙を、ザンパノとジェルソミーナ、双方に、同時に、やるのなら意味がある。

奴隷のジェルソミーナに「君にも人権がある。一個の人格なのだ」と教え、

主人のザンパノにも「彼女にも人権がある。一個の人格として対等に扱え」と説得するからこそ、

両者の関係は、健全で近代的なパートナーシップに生まれ変わる。

 

しかし、綱渡り芸人は、ジェルソミーナには親切に啓蒙するのに、ザンパノには「アンタは人間のクズだ」と軽蔑と侮辱と挑発を繰り返す。

 

片方だけに啓蒙して、もう片方を放置すれば、片方が近代人に生まれ変わって、もう片方は前近代のまんま。

ジェルソミーナ「私も人間よ!」

ザンパノ「馬鹿か。オマエはオレが買った所有物だ」 

 

今までは「ケモノのザンパノ」と「ケモノのジェルソミーナ」のコンビだからこそ、それなりに上手くいっていたのだ。
それを「ケモノのザンパノ」と「人間のジェルソミーナ」のコンビにしてしまっては、破綻するに決まっている。

綱渡り芸人は、「ケモノのザンパノ」を「人間のザンパノ」に啓蒙する気が無いのならば、「ケモノのジェルソミーナ」だけを「人間のジェルソミーナ」に啓蒙してはいけなかった。それは無責任で残酷な行為なのだ。

 

野獣ザンパノは、ケンカを売りまくる綱渡り芸人にとうとうブチ切れて、殺してしまう。しかしザンパノが凶暴だとは思わない。男なら、あれだけバカにされ、侮辱され、からかわれたら、相手を殴って当たり前である。

 

ザンパノが優しかった綱渡り芸人を殺したことで、もともと知恵遅れだったジェルソミーナはとうとうホンモノの狂気におちいる。

ジェルソミーナは狂うことで、ザンパノが犯した「罪」を糾弾し続ける。
耐え切れなくなったザンパノは、狂気のジェルソミーナを見捨てて逃げる。
生活手段を失ったジェルソミーナは野垂れ死にする。

 

ザンパノの逃亡は無責任で無慈悲な行為だ。

しかしザンパノに他の手段があっただろうか?

 

もしもザンパノがジェルソミーナの糾弾を受け入れたとしよう。

「やった罪を認めよ。当然の罰を受けよ。それが人間だ」これも啓蒙である。

ザンパノが警察へ自首する。監獄に入る。

さて、それでジェルソミーナはどうなるのか?

やっぱりジェルソミーナは独りぼっちになることには変わりがない。待っているのはやっぱり野垂れ死にである。

ザンパノが罪を認めても、ジェルソミーナが野垂れ死にするのは同じなのだ。


ザンパノのいらだちは「それ」なのだ。

オマエたち(ジェルソミーナ、そして、綱渡り芸人)はオレの罪を糾弾するが、オレが正当な罰を受けたら、オマエ(ジェルソミーナ)は死ぬしかないのだぞ!

オマエ(ジェルソミーナ)を殺したのは、オレじゃない。オマエ(綱渡り芸人)だ!

 

綱渡り芸人の近代啓蒙思想こそが、残酷ながら平穏だった「ケモノの二人旅」を地獄に突き落としたのである。

ジェルソミーナを殺した真犯人は、中途半端で無責任な啓蒙をやらかした綱渡り芸人なのである。 

 
最後にザンパノは号泣する。
ジェルソミーナの死を知って人間性に目覚めて号泣した、と映画の解説はいうけれど、ザンパノは、綱渡り芸人を殺した時点で、もう人間性に目覚めていたように思う。

しかし、ザンパノが人間性に目覚めたことろで、「知恵あるゆえに不幸な人間」になるだけの話だ。

今まで「無知ゆえに不幸を感じないで済んでいるケモノ」だったのに、ザンパノはついに「人間性=近代啓蒙思想=殺したはずの綱渡り芸人」に追いつかれてしまう。

人間性という、返しようがない原罪、支払いきれない負債を抱えて、泣くしかないザンパノ。

 

ザンパノは、ジェルソミーナを買ったのがそもそも大間違いだった。

「綱渡り芸人」は、近代という、避けようがない時代の産物だ。必ず、何らかの形で、ジェルソミーナの耳元でささやき、「蒙を啓く」のである。

ジェルソミーナはいつの日か爆発する時限爆弾だった。

 

だから、日本の寅さんは、「ジェルソミーナ」を買わない。

マドンナや妹のさくらとは絶対に一緒には暮らさない。

だから寅さんは49作品も生き続けることができたのだ。

  

ただし、寅さんにも、カメラに写っていない、安宿の布団の中で、ザンパノと同じような「号泣」をした夜はあっただろうが。