変装した柘植行人が、
なのは、何らかの意味や意図があったのか(笑)? はたまた偶然なのか(笑)?
ちょっと偶然とは思えないのだが(笑)。
今、全くメリットのない、損なことをしようとしている自分がいる(笑)。
甲子園で阪神の悪口を言う、みたいなもんで、嫌われるに決まっている。
#押井守 ケルベロス・サーガ~ #韓国映画 で実写版「人狼JIN-ROH」~警察、軍隊、第3の暴力装置・国家憲兵。 - 在日琉球人の王政復古日記
の続き。
押井守は好きだが、見てない作品はたくさんあるし、ファンではない。ましてやマニアではない。
アニメ映画「うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー」は世評通り大傑作だと思う。見事なものだ。
実写映画「紅い眼鏡」を見て「ああそういう人か」と思った記憶がある(笑)。
こっちはあんまり世評は良くないが、私は嫌いじゃない。
アートシアターギルド(笑)というか、こういう実験映画臭い作品は昭和の邦画にはよくある。
しかし、押井守は、映像職人としては天才かもしれないが、映画に混入される思想があまりに「観念的過ぎる」のが欠点だと常々思っている。
大雑把に、
スポンサー命令で、お客さん本位の「娯楽」に徹すれば、天才職人。
フリーハンドで、自分の「趣味」に徹すれば、観念の泥沼。
という人なんだろう。
平成元年という象徴的な年に公開した「機動警察パトレイバー the Movie」。
そして、続編「機動警察パトレイバー 2 the Movie」。
どっちも大変評判がいい。特に「パトレイバー2」は大傑作とされ人気も高い。
しかし、マニアから叩かれそうだが(汗)、そんなに傑作だっただろうか?
個人的には大好きなミリタリーサスペンス要素が強い、趣味が合いそうなこの2本が、私にはどうもダメだったのだ。
期待された娯楽性と、危惧された観念性が、混濁した映画だと思う。
「機動警察パトレイバー the Movie」(1989年)。
もちろん映像や演出は素晴らしい。
しかし、お話のバックボーンとなってる「東京都市論」みたいな思想は、はたして理屈として整合性があっただろうか?
具体的に言えば、帆場暎一の目的と手段って、整合性があっただろうか?
今や昔、バブル絶頂期に、どんどん地上げされ、住人が消え、再開発され、街並みが壊され、景観が変貌していく東京。
古い東京が失われていく状況が批判的に描写されるのだが、ここに違和感がある。
だって東京って、もともと「ぶっ壊しては作り直す都市」ではないか。
これが、ワルシャワとかウィーンとか、ヨーロッパの石作りの古都ならば、帆場暎一の怒りも批判も理解できる。
しかし東京という街は、江戸時代から、明暦・明和・文化の大火、明治維新、文明開化、関東大震災、東京大空襲、東京オリンピック、私鉄沿線拡張、湾岸埋め立て、そしてバブル狂乱などなど、ずっとずっとスクラップ・アンド・ビルドの繰り返しの歴史なのだ。
バブルの地上げなんて、東京にとって大した話ではないのだ。
しかも、帆場暎一のやろうとしている、レイバーの暴走は、地上げ屋の再開発と、まったく同じ、いやそれよりも酷い、さらなる東京の完全破壊なのである。
帆場暎一の望みは、いったい、何だったのか?
東京を守りたかったのか? それとも、東京を壊したかったのか?
他人に潰されるくらいなら、オレが潰す、ということなのかもしれないが。
もちろん、観ている間は気持ちイイのだ。映像と演出に魅了される。誤魔化される、ともいう(笑)。
しかし、見終わった後、「・・・帆場暎一って、結局、何がしたかったの?」となってしまうのだ。
失礼を承知で暴言すると、
「ひょっとして、押井守が深刻に語ろうとする問題って、実は、あんまり大して重要な問題ではないんじゃないのか?」
という疑問が芽生えたのは、この時からだ。
「機動警察パトレイバー 2 the Movie」(1993年)
戦争と平和。日常と非日常。戦後日本の虚飾の平和。メディアを通してしか感じられない戦争。バーチャルな戦争への違和感。
映画の中で柘植行人や荒川茂樹が語る主張は、「ケルベロス・サーガ」とも低通する押井守の持論/自論だと思う。
・・・判るけどさ、それって、話が【逆】じゃね?
だって「パトレイバー2」こそが、
柘植行人のやらかす、ニセの映像、ウソのテロ、デマのクーデタ、こそが、
まさに柘植行人や押井守が批判しているバーチャルな戦争そのものじゃんか。
私は、戦争とは「痛み」だと思う。心の「痛み」ではない。肉の「痛み」だ。
「イテテテ」が戦争の本質だ。
殴られると痛い。鉛のカタマリが肉に食い込めば痛い。火に焼かれれば痛い。手足が吹っ飛べば痛い。傷が化膿して腫れれば痛い。
そして、死ぬのは恐い。恐くて恐くてたまらない。
現実に、今、そこのあなたが、その手で触っている、その肌が、切り裂かれて、肉が弾けて、血が噴き出す、それが、それだけが、「ホンモノの戦争」なのである。
だから、そういう「痛み」が、現実として、リアルに、生身の肉体にふりかからなかった、「痛くなかった戦後日本」は、なんだかんだいっても、「ホンモノの平和」だったのだ。
戦後日本は、押井守が主張するような「見えない戦争」なんかやってない。
だって「痛くない戦争」は「ホンモノの戦争」ではないから。
観念の戦争/戦争の観念には、現実の「痛み」がないから、本当の戦争ではない。しょせん観念でしかない。
戦争の観念をいじくりまわすより、戦争のバーチャル映像を見るより、
それこそ、タンスの角に足の小指を思いっきりぶつけた時の方が、よっぽど戦争を実感できる。あの悶絶する痛みこそが、戦争の恐怖のひな型だ。
「バーチャル映像の中の戦争を、自分の戦争だと感じないのは【おかしい】」という発想の方がよっぽど【おかしい】。
テレビの中でしか見られない映像だけの戦争は、しょせん他人の戦争なのである。
もちろん、国際政治、グローバル経済はリンクしている。たとえば「911テロ」だって、日本に無関係ではない。無関係ではないが、やはり日本のやってる戦争でもないのだ。
「911テロも日本の戦争だ!」というのは、理屈として、観念としては、アリだが、「世の中の全てに我々は責任がある」という考え方は、責任の取りようがないから、結局、何にもできません、という「我々は全てに無責任」に行き着く。
たとえば、日本海あたりで何かがあっても、「911テロと同じで、我々は何もできません」という無責任につながる。
日本海なら、911テロとは異なり、リアルに日本の責任担当エリアなのだ。日本が当事者として911テロの責任を取る必要はないが、日本海なら日本こそが当事者として責任を取ってもらわないと困る。
押井守が深刻そうに語る、虚構の平和だの、バーチャルな戦争って、深刻な問題でも何でもないのだ。だって痛くないから。痛くないなら、現実に問題はないのだ。
「パトレイバー2」の柘植行人も、
作者だから当たり前なんだが、押井守と同じなのだ。
犯罪の動機が観念的過ぎる。
帆場暎一は、東京が破壊されていくのに、我慢ならなくなって、なぜなんだか、同じように、東京を破壊しようとする。
柘植行人も、「虚飾の平和」を糾弾するために、「虚飾の戦争」を作り出す。
柘植行人の「虚飾の戦争」では戦闘ヘリがビルを銃撃するわけで、確実に人を殺してるわけだが、
柘植行人=押井守が批判する戦後日本の「虚飾の平和」の時代はヘリの銃撃で殺される人はいなかった。
つまりは、人の死なない戦後日本の「虚飾の平和」は、虚飾ではなく、「ホンモノの平和」だったのだ。
逆に、人が死んだであろう、柘植行人の「虚飾の戦争」は、虚飾ではなく、「ホンモノの戦争」になったのだ。
結局、柘植行人=押井守は、日本人に、何を、どう、反省しろというのか?
銃撃したら人が死ぬ。だったら、銃撃した柘植行人が悪いのである。
今まで銃撃してこなかった戦後日本人の、いったい何が悪いのか? ナニを反省するのか?
「戦争の残酷を知らない、虚飾の平和に生きる日本人に、戦争の残酷を教える」のはいいけれど、そのために実際に戦争をやらかしたら、キチガイだ。
「殺人の残酷を知らない、虚飾の安全に生きる日本人に、殺人の残酷を教える」と言いながら、実際に人を殺してるのと同じである。
無実の人を殺してまで、そこまでして、教えてもらう必要はない。
というか、ヘリに撃ち殺された犠牲者に、まず、謝れ(笑)。
もし、柘植行人が「日本をこうしたい」と思うのならば、
ウソのクーデタをおこして「戦争の現実を知れ!目覚めよ!日本人!」と警鐘を鳴らす、なんて回りくどいことをせず、
ホンモノのクーデタをやって、政権を奪取して「思い通りの日本」に、自分で改造すればいいのである。
柘植行人=押井守は、バーチャルな戦争を批判するのだが、やってることがバーチャルな政治改革なのだ。
東京を壊されたくない、が回り回って、東京を壊す。
バーチャルな戦争への批判、が回り回って、バーチャルな戦争をやらかす。
なぜ、こうなるのか?、それは、現実より、観念を優先しすぎるせいだ。
現実の犯罪は、現実の戦争は、もっと動物的、もっと即物的だ。
カネが欲しいから、カネを奪うのだ。
領土が欲しいから、領土を奪うのだ。
帆場暎一や柘植行人の犯罪は、
カネが欲しいから、全財産をトイレに流す、とか、
領土が欲しいから、自国の軍隊を武装解除、とか、
そういう、目的と手段が矛盾する、ワケのわからない行為なのである。
観念的なインテリは、動物的な痛みを、即物的な欲望を、かたくなに無視して、頭の中だけで考えて、考え過ぎて、病的にこじらせてしまう。
人民を搾取から解放したいから、人民を強制収容所に放り込む。
熟慮の末の、倒錯した結論。スターリンやポルポトと同じく、(右翼にもないではないが)左翼思想に顕著な病理である。
実は、個人的には、こういう、現実無視の果てに、病的にこじらせた狂気に至る観念地獄は、大好きだ(馬鹿)。
私が古今東西の宗教や神学や形而上学に惹かれるのも、その病的な観念の爆発に魅了されるからだ。
しかし、それは、どこまで行っても、観念であって、現実ではない。
その部分を忘れると、オウムになるのである。
もちろん
「オマエは、パトレイバーを判ってない。映画をカン違いしてる。プロットやストーリーを誤解してる。物語の解釈が間違ってる。押井守への理解が浅い」
などなど、ご反論はあろうかと思う。
ご教授いただけたら、幸いである。
決して誹謗中傷ではない。押井守は天才である。
押井守ファンの方、怒らないでネ。ごめんちゃい(汗)。