在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

#田端信太郎 「3人も子供作ったのよ。リスク分散」VSメリル・ストリープ「ソフィーの選択」(1982年)

 


I Can't Choose! - Sophie's Choice (9/10) Movie CLIP (1982) HD

 

~第2次世界大戦、ナチス占領下のポーランド
~幼い兄と妹、二人の子供を抱えたメリル・ストリープ

ナチ将校「おまえはポーラック(ポーランド人への蔑称)か? 汚い共産主義者か?」
ソフィー「ポーランド人です。クラコウ生まれです。ユダヤ人じゃありません。子供たちも。人種的に純潔です。キリスト教徒です、カトリックです。」
ナチ将校「共産主義者じゃない?キリスト教徒?」
ソフィー「はい、キリスト教徒です。」
ナチ将校「主イエスは言われたぞ『幼な子らを私の元へ寄こしなさい(マルコ福音書10:14)』と」
ソフィー「・・・」
ナチ将校「よし、おまえが残す子供を一人選べ。」
ソフィー「・・・えっ?」
ナチ将校「残す子供を一人を選べ。もう一人は連行する。」
ソフィー「それを、私に選べと?」
ナチ将校「おまえはポーラックだ。ユダヤ人じゃない。だから選択する特権を与えてやる。」
ソフィー「わたしには選べません!選べません!」
ナチ将校「選ばないのなら、二人とも連行する。」
ソフィー「選べません!」
ナチ将校「選べ。」
ソフィー「できません!」
ナチ将校「(部下に)おい子供を二人とも連行しろ」
ソフィー「・・・娘を連れてって!・・・私のかわいい娘を!・・・」

 

ソフィーの選択 Sophie's Choice 」(1982年)。
主演メリル・ストリープ、映画史に残る名シーン。

 

たかが、ネットの口喧嘩に勝つため(1円も儲からない、単なるオコチャマのプライド)だけに、自分の子供を「リスク分散」なんて言ってしまう。

いや、自分の子供を「リスク管理」と断言する自分自身の、情に溺れない合理性、ハードなリアリズム、をカッチョイイ!と思っている。

論争に勝つ「決めセリフ」を言ってやったぜ!という「ドヤ顔」。

 

本人はオトナのつもりだろうが、お金をたくさん稼いでいるだろうが、

つまりは「お勉強をたくさんした幼稚園児」である。

 

田端信太郎「過労死は自己責任」 - Togetter

 

ZOZOの一社員田端 信太郎氏「自分の子どもが、イジメや過労死で自殺したら?しょうがないなー、と思うだけです。そういうときのために3人も子供作ったのよ。リスク分散。 」 - Togetter

 

いやあ、ソフィーさん。
子供を2人作って、「リスク分散」しておいて、良かったね(^^)。

映画の中のポーランド人・ソフィーに聞かせてやりたい理屈である。

  

ナチズム、ファシズムも行き着く先は「人智を超える」が、

資本主義、ネオリベも行き着く先も「人智を超える」。

もちろん、共産主義も行き着く先は「人智を超える」。

  

田端信太郎さんの3人の子供たちは、彼の遺伝子を半分受け継いでいるという「自己責任」があるから、悲惨さも半分だが、

たかが「リスク分散」のために、3回も産みの苦しみ=喜びを味わった彼の奥さんの心情を思うと、言葉がない。

奥さんもパートナーを選択した「自己責任」があるという理屈にはなるが。

まあ、結構稼いでくる亭主だろうし、銀行口座さえ安泰なら、性格がどうであろうが不満はないかもしれないし。

 

田端信太郎さんご本人じゃなく、子宮を痛めて彼を出産し育てたお母さんの責任もある。

お母さんが「信太郎ちゃん、あなたはリスク分散なのよ」と教えていたのなら、信太郎ちゃんも可哀想である。

 

もちろん、田端信太郎さんに全面的に反対してるわけではない。

 

物理的に拘束されてるわけでもない、辞めようと思えば辞められるのに辞めないで、過労死や自殺をするのは、判断能力に欠ける「自己責任」ではないか?

体に悪いのが明確なのに、タバコや酒で体を壊すのは、判断能力に欠ける「自己責任」ではないか?

無計画な登山で遭難するのは、判断能力に欠ける「自己責任」ではないか?

オレオレ詐欺に騙されるのは、判断能力に欠ける「自己責任」ではないか?

かぼちゃの馬車」なんていうインチキに引っ掛かったのは、判断能力に欠ける「自己責任」ではないか?

余命ブログに騙されて、大量に懲戒請求を出して、損害賠償の返り討ちの会うのは、判断能力に欠ける「自己責任」ではないか?

 

一概に、否定はできない。もちろん、賛同もできないが。

 

ただ、よくよく冷静に考えてみれば、そもそも根本がおかしくないか?

子供が複数いることが、田端信太郎さんにとって、いったい、何の、「リスク分散」になっているのだろうか?

 

例えば、田端信太郎さんの会社の従業員が1人しかない場合。

その1人が辞めたり死んだりしたら、次の日から会社は回らなくなる。儲からない。損する。下手したら倒産だ。田端信太郎さんのリスクである。

だから従業員が3人いれば、1人が辞めても、1人が死んでも、まだ1人は残るから、次の日も仕事も回る。リスク回避である。

 

しかし、田端信太郎さんの家庭に子供が1人しかいない場合。

その1人が失踪したり死んだりしたら、次の日から田端家は回らなくなる、のだろうか? 

別に子供がいなくなっても、田端信太郎さんがいれば、田端家は消えずに残るじゃないか。

逆に、たとえ子供が3人いて、1人が失踪しても、1人が死んでも、まだ1人残っているから、良かった、良かった、心配ない、になるのか?

ソフィーではないが、2人のうち1人を失っても、地獄の苦しみではないのか?

 

もちろん、市川海老蔵ならば、子供は絶対必要である。

江戸時代から続く歌舞伎の金看板・市川團十郎家を断絶するわけにいかない。しかも女子じゃダメだ。男子が絶対だ。

海老蔵の子供は、間違いなくリスク分散である。

しかし、田端家は、何か家業を継承しているのか? 

彼の家計が途絶えると失われる文化があるのか? 失礼ながら、取り換え可能な凡俗の家系でしょ? ZOZOTOWNは先祖代々継承してきた家業じゃないでしょ。断絶しても誰も困らないのだ。日本社会に何の影響もない。

 

継がせる家業も文化もない田端信太郎さんのお子さんは、何のリクス分散なのか?

3人の子供は、田端信太郎さんの、いったい「何」を、リクス分散しているのか?

 

財産継承か?先祖代々の墓か?遺伝子か?

どれにしても、田端信太郎さん本人が死んでしまえば、合理的な価値や意味はまったくないのだ。

だって、霊魂なんか存在しないんだから(笑)、死んだから人間は完全に消滅するのだ。この世に残したものは何も認識できない。死後の世界はまったく無関係なのである。

死後の財産も、先祖供養も、遺伝子も、合理性のない全くの妄想である。

合理性の無い妄想・虚構に「リスク分散」の必要はない。

 

それとも子供たちに老後の面倒を期待しているのか?

稼いでくれるかもしれないが、財産を食い潰す放浪息子になるかもしれない。

だったら、子供なんか作らず、巨額になる養育費・学費を全部貯蓄に回した方がより確実だろう。

 

それとも「子供たちとの楽しい日常」という快楽が欲しいのか?

しかし、3人兄弟の1人が死んでも、「子供たちとの楽しい日常」は継続できるのだろうか? 3人なら3人、全員元気でいてこその家族ではないのか?

 

田端信太郎さん以外の人間は、子供を「リスク分散」できない。

だから、健康に悪い食い物は止められないし、あからさまな詐欺にも騙される。

自分の肉体的・精神的健康と、目の前の収入と、どっちが大切か?選べない。

ブラック企業長時間労働しても、ちっぽけな責任感と、失業の不安で、逃げることを思いつかない。辞める勇気がない。

 

そして、ソフィーのように、ナチの将校から「おまえの子供の内、殺していい方を選べ」と言われても、《合理的》な回答は出せない。

 

ほんと、世の中の「ソフィーたち」は、田端信太郎さんと違って、愚かだ。