在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

ゴキブリ殺し、ウシ殺し、クジラ殺し、ネコ殺し、ヒト殺し。

私はゴキブリを殺虫剤で薬殺したこともあります。理由は気持ち悪いからです。
私はハエを殺したこともあります。理由は不快だからです。
私は蚊を殺したこともあります。理由は痒いからです。

 

ゴキブリさんも、ハエさんも、蚊さんも、何も悪いことはしてません。

彼らは彼らの生命活動を全うしようとしていただけです。

ましてや私の生命に危害なんか加えませんでした。

また私は、ゴキブリ、ハエ、蚊を食べるつもりもなく、その死体を道具や燃料に有効利用する意図もありませんでした。

私は、まったく私個人の気分(キモチイイ、キモチワルイ)の問題で、つまりは「私の身勝手な快楽」に従って、かけがいのない他者の生命をブチ殺しました。

 

容疑の少女、母に「人を殺したい」 佐世保殺害の直前 :日本経済新聞

2014/8/5
 長崎県佐世保市の同級生殺害事件で、殺人容疑で逮捕された高校1年の少女(16)が事件の3日前、父親と再婚した新しい母親に「人を殺したい」という趣旨の話をし、両親が事件前日に精神科に入院を頼んだが実現しなかったことが4日、分かった。父親が弁護士を通じて明らかにした。
 弁護士によると、7月23日、少女は通院中の精神科に母親と向かう途中、ネコを殺すのが楽しいという趣旨の話をした後、真剣な様子で「人を殺したい」などと打ち明けた。
(略)
 弁護士によると、少女は3月、父親を金属バットで殴打したため、父親が精神科に通院させていた。父親は医師から「同じ家で寝ていると、命の危険がある」と助言されたため、少女を事件現場となったマンションで4月から一人暮らしをさせていた。〔共同〕

 

時事ドットコム:加害少女の父親が自殺か=自宅で首つる、佐世保高1殺害−長崎

2014/10/05
弁護士によると、父親に8月2日に会った際、「私は生きていていいのでしょうか」と悩んでいたという。事件後父親は、弁護士を通じて「娘の行為は決して許されるべきものではない。おわびの言葉さえ見つかりません」との謝罪文を発表していた。

 

快楽のためにゴキブリやハエを殺した私と、

快楽のためにヒトを殺した佐世保の殺人少女は、

どこが違うんでしょうか?、一緒なんでしょうか? 

 

われわれは、日々、ウシを食い、ブタを食い、ニワトリを食い、サカナを食い、たまにクジラを食っている。

 

佐世保の殺人少女は、快楽=単なる趣味で、ヒトを殺した。

同じように、快楽=単なる趣味で、アフリカ象を撃ち殺すハンターが非難されたりする。

じゃあ、フィッシングはいいのか? 釣り道楽も快楽=単なる趣味でやってるサカナ殺しだ。皆さんは知らないかもしれないが、魚類は、クジラやネコやゴキブリや人間と同じ、動物なのである。

趣味の殺人がダメなら、趣味のハンティングもダメだろう。

趣味のハンティングがダメなら、趣味の釣りもダメだろう。

趣味の釣りがダメなら、仕事の漁業もダメだろう。 

それとも、楽しむための釣りと、われわれの食生活を支える漁業は別物か?

 

そもそも、

「食用だったら生物を殺しても許される」みたいな、

「われわれは、感謝しながら動物の命を大切にいただいている」みたいな、

美味しんぼ」的主張があるけど、どうかね? 

これほど自分勝手な理屈もない(笑)。

 

たとえば、

ライオンに「腹が減ったから、あなたを食べたい。ありがとう。ガオー」と言われたら、しょうがないから、あなたはライオンに食われるのか?

快楽殺人鬼から「私は人を殺さないと生の充実が得られない。だからあなたを殺すけど、心から感謝しながら殺すから許してください」と言われたら、あなたは殺人鬼を許すのか?

 

「食べ物を大切に」とは言うけれど、われわれは、本当に、動物の死肉を「大切にいただいて」ますか?

生命維持に必要だから必要最小限の動物を食ってる、なんてオオウソだ。

チェーン店の牛丼なんて安い食い物だが、あの牛丼でさえ、同じタンパク質なのに、美味しい部分の肉を使って、マズイ部分や食いにくい部分は大量に廃棄している。
われわれは「ウマイ・マズイ」という贅沢な欲望で、つまり「快楽」に従って、無駄に動物を殺しているのだ。

 

快楽のためにウシやブタやニワトリやサカナを殺してるわれわれと、

快楽のためにヒトを殺した佐世保殺人少女は、

どこが違うのか?、一緒なのか?

 

欧米の動物愛護団体は、自分たちがさんざんウシやブタを食ってるくせに、日本人がクジラやイルカを食うのを許さない。

 

捨てられたニャンコやワンコが施設でガス殺されるのを悲しむ動物好き(と自称する単なるイヌ・ネコ限定愛護者)の人がいる。

彼ら彼女らは、ネコやイヌの命は大事にするが、ネコやイヌが食ってるペットフードの原材料であるニワトリやサカナの命にはほとんど興味はなく、平然とニワトリやサカナを殺して、ネコやイヌに食わせる。

ニワトリやサカナも、ネコやイヌと同じ動物なんだが、どこに違いがあるのか?

 

殺生に関する(人間にとって)整合性のある倫理は3パターンしかない。 

 

A.ヒトも、ウシも、クジラも、ネコも、ゴキブリも、全部同じ生命だ。だから、ヒトも、動物も、必要だからといって殺してはいけない。 

 

B.ヒトも、ウシも、クジラも、ネコも、ゴキブリも、全部同じ生命だ。だから、ヒトも、動物も、必要に応じて殺して構わない。 

 

C.ヒトと、その他の生物は異なる。全ての生物の中で、唯一ヒトだけが特別な存在だ。ヒトを殺してはいけない。動物は殺してもいい。 

 

特にCを人間中心主義=ヒューマニズムと呼ぶ。

 

しかし、世の中は、 

 

D.ヒトも特別だが、クジラとイルカも高等動物だから特別。殺してはいけない。その他の下等な動物は殺してもいい。 

 

E.ヒトも特別だが、ニャンコやワンコも人間のパートナーだから特別。殺してはいけない。その他の下等な動物は殺してもいい。 

 

というような、理屈として「中途半端」な、個別の「好き嫌い」でしかない倫理で動いている。

われわれ人間の殺生の基準は誠にエゴイズム、自分勝手である。

 

自然においては、ゴキブリの生命とウシの生命とクジラの生命とネコの生命とヒトの生命には何の違いもない。 

人間にとってのみ、ゴキブリの生命とウシの生命とクジラの生命とネコの生命とヒトの生命には違いが生じる。

 

「(自然界における)生命そのもの」が異なるのではない。
「生命に(人間側の都合で勝手に)付加された意味」が異なるのである。

 

つまり、人間にとって「生命そのもの」には、何の価値も無い。
人間が勝手にその生命に貼り付けた「意味」にこそ、価値があるのだ。

 

人間にとって、生命殺害の、何が正常で、何が異常か、を決定するのは、「実際に殺される生命それ自体」ではない。
この殺害が如何なる意味を持つのか、という「人間の価値体系=文化」の問題なのである。

 

妊娠中絶は医療行為であり法律上の殺人に該当しない。

しかし赤ちゃんを殺せば、殺人の中でも最も許されない鬼畜外道となる。 

卵子精子 → 受精卵 → 胎児 → 赤ちゃん

この生物的な連鎖をどこで区切るのか?、デジタルに区別するのは医学的にも難しい、というか不可能だろう。

近代社会は、子宮の中の受精卵や胎児と、子宮の外の赤ちゃんを、この切れ目なく連続する生命を、「生命そのもの」の価値ではなく、手前勝手にでっち上げた「法律」で、医療と殺人に区別するのだ。 

 

ゴキブリを殺す私や、ウシを殺す畜産業者や、クジラを殺す漁師や、ペットフード業者は、生命を毀損している点では、佐世保の殺人少女となんら変わらないが、とりあえず人間が勝手に考えた「意味=文化」を毀損していないから正常なのである。

 

しかし、地域によって、宗教によって、文化=価値観は異なる。

リベラル派が容認する妊娠中絶を、キリスト教保守派は殺人と断罪する。

ヒンドゥー教徒はウシ殺しを「意味」として認めないし、シーシェパードはクジラ殺しを「意味」として認めない。

大多数の日本人はストレス解消のネコ殺しを「意味」として認めないが、もしネコを宗教儀式の生贄にする文化があれば、ネコ殺しは「意味」として認められる。そんな文化圏でネコが殺せない人間は逆にルール違反の失格者になる。

 

もしも、ベジタリアンヴィーガンジャイナ教徒、菜食主義者動物愛護団体が勝利して、全世界的に人間が肉食を止めたとする。

そうなれば、人間が家畜を飼う意味が無くなる。牛、豚、鶏の個体数は何千万分の一・何億分の一にまで激減するだろう。

人間の勝手な食欲で急増させた動物種が、人間の文化が変われば、人間にとっての「意味」が変われば/「意味」を失えば、事実上の種の滅亡に追い込まれることもある。 

 

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所属する文化圏のルールに違反してない、妊娠中絶した女性や、殺虫剤でハエを殺す主婦や、イルカを殺して食う漁師が、殺人嗜好をどんどんエスカレートさせて、人間を殺すことは、まず、ありえない。

しかし、所属する文化圏のルールに違反した小動物殺しを常習化してしまった人間は、人間の厄介な習性として、かなりの確率で、殺しの対象がエスカレートしやすい。

例えば、ネコ殺しが許されない、日本のような文化圏で、ネコ殺しの快楽を常習化してしまった人間は、だいたいがネコでガマンできなくなって、もっと大きな動物を狙うようになる。

そして大型動物の多いアフリカではない、日本のような国では、ネコの次に大きなターゲットが、ヒトになってしまうからだ。

 

動物殺しが厄介なのは、動物殺しそれ自体が厄介なのではなく、動物殺しはエスカレートしやすく、エスカレートすれば、次がヒト殺しになってしまうから厄介なのだ。

動物殺しが、エスカレートして厄介になるか?、そこで留まって厄介にならないか?、のある程度の分水嶺は、殺し方に現れる。

動物になるべく苦痛を与えない、流血を伴わない、無味乾燥で、短時間の殺し方の場合は、エスカレートしにくい。 

しかし、殺すよりも苦痛を与えることが目的になっているとしか思えない、長時間の、流血を伴う、手の込んだ、派手な殺し方の場合や、画像や動画で撮るとか記録を残す行為は、エスカレートしやすい。 

後者は注意が必要だ。「治療」の対象だからである。

 

佐世保の殺人少女は明らかに異常である。 

それは「ヒトの生命」を毀損したから、異常なのではない。
所属する文化圏が決めた「意味」を毀損したから、異常なのだ。

 

佐世保の殺人少女は、人間以下のケダモノではない。 

まさに普遍的人権(←これも人間が勝手に決めた価値)を持つ人間そのものだから困るのである。

 

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