他人と食事をすること=「共食」は、栄養補給ではない。
他人との食事は、合コンやデートのような恋愛だけに限らず、政治的にも、文化的にも、宗教的、にも非常に重要な概念である。
所変われば品変わる、とはいうが、共食の意味や意義は、古今東西人類ほぼ共通である。
95%の人が初デートで「この人と付き合いたくない」と思う行為 - ライブドアニュース
2014年11月24日
初デートで、どうしてもその後長続きしなくて悩んでいる人はいませんか?そんなあなた。もしかして、食べる物にうるさすぎになってはいないでしょうか?
レストランで、「これは嫌い」「これは身体に悪いから食べたくない」など、食べる物に細かくなってしまう人。本人は「健康志向」だと思っているかもしれませんが、一緒にご飯を食べている人からしてはただの「めんどくさい人」としか思われないみたいです。
今回オンラインデートサイトが行った5300人を対象に行った初デートに関するアンケートで、なんと95%もの人が「この人と付き合いたくない」と思う原因となる行為は、食べ物にうるさいということが調査結果でわかりました。
「他人と一緒にメシを食う」というのは、
生物的に、医学的に、栄養学的に、経口で栄養を補給することではない。
人間の味覚を満足させることでもない。
重要なのは、食べるモノでもなく、旨い・不味いでもなく、「他者と一緒に食卓を囲む」行為そのものにある。
共食とは「オレとあんた達は仲間だ」ということを意味する。「同じ釜の飯を食う」ということである。
逆に、健康志向だろうが、好き嫌いだろうが、共食で食い物に文句を言って拒否することは、相手に対して「アンタとの関係は、食い物より、重要ではない」と言うに等しい。
忘年会で上司の勧めるビールを「おれ、ワイン党なんで」といって飲まないことは、仕事や仲間よりも味覚の方が大事だということになる。
同じ状況で「すいません、腎臓が悪いんで医者に止められてます」というのは仕事や仲間よりも生命のほうが大事だということだ。
同じ状況で「私はイスラムに改宗しました」というのは仕事や仲間よりも信仰の方が大事だということだ。
もちろん、いつでも何よりも仕事や仲間が一番大事ということもない。
仕事、味覚、生命、信仰、どれを重視するかは個人の自由だが、断った部下と勧めてた上司の間で、その優先順位が異なれば、共食の意義は損なわれる。
ただし、趣味の問題でかたくなにビールを飲まない部下も共食の意義を失わせるが、
病人や信仰者にむりやりにビールを飲ませようとする上司も共食の意義を失わせる。
共食で重要なのは、実際に食物を胃袋に入れる事ではなく、「同じ食卓を囲む」行為なのだ。
「同じ釜の飯を食う」というのは【物理的】な話ではない。
例えば、同じファミレスや同じファーストフードで、たまたま、同時刻に、別々のテーブルで、別々に食事をしているもの同士は、同じお店の、同じ厨房で調理された食い物を、同時に食ってるんだから、【物理的】には「同じ釜の飯」を食っている。
仮に食中毒が発生すれば「同じ釜の飯」を食ったことは衛生上大事な話になる。
しかし【文化的】には「同じ釜の飯を食う」という意味にはならない。つまりわれわれは、ファミレスの隣のテーブルの人間とは「共食」してるわけではない。
お酒の場合、みんなで乾杯の音頭を唱和するのが重要であって、実際に飲むか飲まないかはどうでもいいことである。
乾杯を唱和して、コップに口を付けるフリだけでもするのは共食だが、
乾杯に参加しないで、勝手にガブガブ飲むのは共食ではない。
お盆に仏壇にお供え物をしても、すでに死んだ人間が実際にムシャムシャ食うわけではない。死者との関係を共有したい生者が食物を備える行為それ自体が重要なのである。
古今東西、人間は、仲間と共食する。敵とは共食しない。
共食できる相手は敵ではなく、共食できない相手は仲間ではない。
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ユダヤ教は食のタブーがうるさい。
何故うるさいのか? 宗教上、衛生上、経済上の理由はいろいろある。例えば、○○は衛生上危険があるとか、××は生産コストがかかりすぎて負担が大きいとか。
しかし政治的な理由、というか効果はハッキリしていて、それはユダヤ人はユダヤ人以外の異教徒とは一緒にメシが食い難いということだ。
異教徒にとってユダヤ人は「めんどくさい」のである。
となれば異教徒とユダヤ人の付き合いは悪くなる。仲間が増えないユダヤ人にとっては確かにデメリットがあるのだが、食のタブーを緩くして、異教徒と共食が出来るようになって、ユダヤ人と異教徒が仲良くなって、ズブズブになって、そのうちユダヤ人がユダヤ人たるアイデンティティを喪失して、ユダヤ人が生物学には存在しても、文化的に滅亡することのほうがもっと危険だったのである。
ユダヤ人がユダヤ教を発明した当時、同じ時代にはさまざまな民族がいた。もちろん彼らの遺伝子上の子孫は今も生きているのだろうが、文化共同体としての彼らは他者と溶け合ってアイデンティティを喪失して歴史の彼方に消えて行ったわけだ。
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しかしナザレのイエスは、ユダヤ教の食のタブーを気にしなかった、というか、あえて破った。罪人や不浄の者とも平気で共食した。それがイエスのユダヤ教改革だったわけだ。
食のタブーや割礼などの身体的タブーを不問にしたイエスの一派は、異教徒の改宗を増加させ、「ユダヤ教イエス派」から別の宗教へ変化していく。そしてユダヤ人よりも他民族の信徒が圧倒的となった時点で、ユダヤ人が恐れていた通り、ユダヤ的アイデンティティを喪失する。聖書はアラム語ではなくギリシャ語で書かれラテン語に翻訳された。
それでも、イエスが死ぬきっかけが「最後の晩餐」つまり共食だったことは象徴的である。食のタブーを破ったイエスでさえ、共食に招いてはいけない敵(ユダ)と食卓を囲んでしまったことで命を落とすのである。
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古代インドでも、宗教やカースト制度によって、「何」を食ってはいけないだの、「誰」と食ってはいけないだの、厳しいルールがあった。
人々は別のカーストとは共食せず、宗教的修行者は断食、菜食、異物食を実行した。
釈迦は激しい断食の果てに、食のタブーの無意味を悟って粥を食べる。托鉢で日々の食事を得る。低カーストからの布施も、肉食も拒絶しなかった。いろんなカーストから出家した弟子たち一緒に托鉢で得た食い物を何でも食べたのである。
それこそが、当時の(21世紀のインドにも厳然として存在する)カースト制度への批判であり、極端な絶食や菜食に走る同業者への批判となった。
「不浄を差別しても、いくら絶食しても、生の苦悩から脱出は出来ない」と。
食のタブーは無意味だとした釈迦も、最後は、托鉢で得た毒茸か豚肉か、食中毒が原因で死ぬ。
もし食のタブーを守っていれば、釈迦も食中毒にはならなかったかもしれないが、釈迦にとっては現世の長生きに意味は無かったわけで、それはそれで問題は無かっただろう。
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フレンドリーなイエスや釈迦と異なり、支那の孔子は非常にめんどくさいのでデートに誘いたくない人物である(笑)。
「食は精を厭わず、膾は細きを厭わず、食の饐して曷せると魚の餒れて肉の敗れたるは食らわず、色の悪しきは食らわず、臭いの悪しきは食らわず」・・・もうウンザリである(笑)。
禁酒だの菜食だのは言わないが、鮮度や料理法にやたらうるさい。総菜屋のおかずは嫌いで、自炊主義者である。
「郷人の飲酒するときは杖者出ずれば斯ち出ず」・・・共食時のマナーもうるさい。
そのくせ「康子薬を饋る。拝してこれを受く、曰く、丘未だ達らず、敢えて嘗めず」・・・偉い人から貰った薬でも、未経験だと効用を疑って服用しない。忘年会で上司からビールを勧められても「サッポロは飲んだ事ないんで、エビスにしてください」というようなもんである。
イエス、釈迦、孔子、3人の態度の違いは、思想の違いから出てくるのだろう。
イエスや釈迦が当時の無意味に硬直化した文化を解体しようとしたのに比べて、孔子は乱世に解体されてしまった古き良き文化を再建しようとした。
釈迦は「こだわりを捨てよ」と説いたのに対し、孔子は「古にこだわれ!」と説いた、その差なのだろう。
また、釈迦は現世に未練はないが、孔子にとって現世こそが大事なのであって、現世でやるべきことが山のようにあったので長生きしなければならなかった。ならば長生きのために食に注意することは当然だったかもしれない。
実際、食にうるさかった孔子は、貧乏と流浪と苦難と失敗の報われない人生ながら、長生きはできた。論語や史記に、食事中に弟子に裏切られたとか、変なモノを食って食中毒になった、という記録はないようだ。