在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

インドの釈迦は既得権益でリッチな勝ち組エゴイスト~在家重視の大乗仏教を誕生させた太陽エネルギーの欠如。

釈迦の教え、4つの真理「四諦」の一つ「苦諦」に曰く、

イヤな連中に出会ってしまう「怨憎会苦」。
欲しいものが手に入らない「求不得苦」。

 

日本人は韓国人と「怨憎会苦」し、

韓国人は日本人よりも経済的・倫理的優位を「求不得苦」す

誠に釈迦の教えは時空を超えて真理である(笑)。

 

仏像窃盗に「物質世界に執着はダメ」 古舘キャスターの「説教」に視聴者大反発 : J-CASTニュース 

 「その大般若経のことは分かりませんけど、般若心経の有名なお経で言うと、『とらわれることから離れなさい』と『こだわることを忘れなさい』と。こだわらない心、とらわれない心、そういうことを教えてくれるんですよね」 

  満足げに持論を述べた古舘さんだったが、視聴者からの賛同はあまり得られなかったようだ。ツイッターなどには納得できないという声がすぐに広がった。

  「仏像をくれてやれってこと?」「取ったもん勝ちの無罪か?」と、容疑者をかばっていると受け止めた人から批判を浴びた。「そもそも仏教では盗みを禁じてます」「仏教には不偸盗(ふちゅうとう)という戒律がありましてね」など、仏教の理解が浅いという指摘もあった。 

 

つい昨日書いた日記の内容が合致するのも、御仏の御導きだろう(笑)。

 

共食~晩餐のイエス。托鉢の釈迦。めんどくさい孔子。 - 在日琉球人の王政復古日記

イエスや釈迦が当時の無意味に硬直化した文化を解体しようとしたのに比べて、孔子は乱世に解体されてしまった古き良き文化を再建しようとした。
釈迦は「こだわりを捨てよ」と説いたのに対し、孔子は「古にこだわれ!」と説いた、その差なのだろう。

 

確かに、仏像を盗まれて怒るのも「執着」だけど、そもそも仏像を盗むこと自体が「執着」だ。

だいたいが、釈迦の教えの前に日本も韓国もない。

釈迦はナショナリズムを説かない。現世からの解脱を願う釈迦に、現世の国境線は何の意味もない。「現世の地べたの人工的な線引き」が、人間を救済することはないのだ。

真に三宝に帰依したならば、国籍や民族なんぞは超えてしまうのである。

 

日本の歴史に名を残している坊主だって、最澄空海法然親鸞道元明恵などなど、ナショナリズムは希薄である。

例外的に明確なナショナリズムを保持していたのは、おそらく、立正安国論を書いた、創価学会のアイドル(笑)日蓮大商人大聖人だけだろう。

 

古代インドの釈迦は無所有を説く。

富を捨て、家族を捨て、カーストを捨て、故郷を捨て、愛情を捨て、憎悪を捨て、自我すらも捨て、天上天下何物も所有せず修行せよ、と。

もちろん、日本製だろうが新羅伝来だろうが、仏像(笑)も経典も所有しないし、

日本人だ、韓国人だ、植民地だ、文化財だ、なんて世俗もすべて捨て去る。

 

しかし、自我すらも否定した釈迦が、唯一捨てなかった、どうしても捨てることが不可能だった、というか、ひょっとしたら自分がそんなもんを所有していること自体に気が付いていなかったかもしれない、モノがあった。

釈迦が捨てなかった/捨てられなかったモノを、捨てるどころか初めから所有していない場所は、今でもこの地上にいくらでもある。

例えば、シベリア、例えば、ヒマラヤ。今年のアメリカ合衆国もそのようだ。

 

CNN.co.jp : 米全土で異例の寒波、ハワイでも氷点下 国の半分に積雪 - (1/2)

(CNN) 米全土が11月としては異例の寒波に見舞われている。18日朝には全50州で気温が氷点下を下回る地点が観測され、国立測候所によれば米全土の50.2%で積雪があった。

 

釈迦捨てなかった/捨てられなかったモノ、それは有り余る「熱帯・亜熱帯の太陽エネルギー」である。

 

もし、釈迦とその一団が、現在のニューヨークに行けばどうなるか? 
糞掃衣しか着ていない釈迦御一行は確実に凍えるだろう。

無所有を説く仏教は、あと、空衣派や白衣派のジャイナ教は、インドのような亜熱帯・温帯だからこそ、立教可能なのである。

寒帯や亜寒帯に住む人々の、凍死しない為の毛皮や衣類、風雪に耐える堅牢なテントや家、必死でかき集める冬季の燃料や食料、そして死なない為の相互扶助を行う家族や氏族、それらは全て仏教で言う「所有」である。仏教的には「悪」だ。

 

だから寒帯や亜寒帯に住む人々が釈迦の教えを実践したら確実に餓死か凍死である。

 

出家者の生命を維持する喜捨や托鉢だって、有り余るインドの太陽エネルギーの恩恵を受けて育つ麦や米、それらの食料を基盤とした都市文明とリッチな人々がいてこそ、供給されるのだ。

この地上において、最も巨大なエネルギーは石油でも石炭でもない。
降り注ぐ太陽エネルギーに比べたら、石油も石炭もミミクソ以下の存在だ。
エネルギーを「富」だとすれば、釈迦は「亜熱帯のインドに住む」というだけで、亜寒帯や寒帯に住む人々の何倍もの「富」を受け取っていたのだ。

つまり釈迦やその一団は、何も持たない「無所有」であるかのように見えて、裸同然のボロボロの格好でも体温が維持できるだけの莫大な太陽エネルギーを「所有」していたのである。

お釈迦様は、地球全体で見れば、「暖かい気候」という既得権益を握った、結構リッチな境遇の、人生勝ち組なのである(笑)。

そして、1年の半分が雪に閉ざされるような人々を想定しないで「全てを捨てよ」と無所有を説くのだ。そりゃアンタは裸で暮らせるだろうけど、オレたちゃ凍え死にますよ(笑)。

 

そう考えると、

南伝仏教仏陀本来の個人救済の思想のまま維持できたのに対し、

北伝仏教が一切衆生を救済する大乗仏教に変化(進化にして堕落)したのは、

太陽エネルギーの多寡が原因ではないか?

 

暖かい南国ならば半裸で生きていける。無所有も可能だろう。
しかしヒマラヤやチベットを越えた寒い北国では、無所有は凍死か餓死を意味する。衣類と食料を所有しないと冬は越せないのだ。

雪が降る場所に生きる人々は、釈迦の思想に魅せられながらも、現実問題としては毛皮の服や保存食料は捨てられない。所有は放棄できない。つまりは涅槃に行けない、救済されない人々が続出するわけだ。
出家者も、もはや、托鉢の範疇を超えて、越冬食料などを所有しないと生きていけない。それこそ「方便」を使って、出家者は無所有だ!と言い訳しても、彼らの修行をサポートする教団は所有を認めざるを得ない。

1人の出家を支えるために、膨大な人々が解脱できない。それはおかしい。理不尽だ! 
仏陀にすがりながら、太陽エネルギー不足のために所有が必要不可欠な、つまり出家が不可能な、全ての人々を救済せねばならない。

つまりは「大乗仏教」の誕生である。

 

大乗仏教阿弥陀如来は、アミターバ「無限の光の所有者」であり、ゾロアスター教の光の神・アフラマズダがその源流とも言われる。
阿弥陀如来とは太陽であり、阿弥陀信仰とは暖かい陽光への憧れではないのか?

 

さんさんと無尽蔵に降り注ぐ太陽が「仏教」を誕生させ、

その不足が人々に光明仏・阿弥陀如来を懇願させ大乗仏教」を誕生させた、

てな風に私は考えている。