【AIBO】製造元に捨てられたロボット犬「AIBO」…飼い主たちの思い受け止め、徒手空拳で“治療”にあたる元エンジニア集団の「使命感」(1/6ページ) - 産経ニュース
2015.1.4
「ロボットだから大丈夫だと思っていたのに、こんなに早く寿命が来るとは」。ソニーの犬型ロボット「AIBO(アイボ)」オーナーたちの多くに共通する思いだ。生産終了に続き、2014年3月に修理窓口も閉じて、ペット同様にかわいがってきたAIBOの飼い主は途方に暮れている。そんな中、シニア世代のエンジニア集団が救世主になりつつある。「要望がある以上、何とか頑張る。それがエンジニア魂」との思いが、短命で終わろうとしていたAIBOに新たな命を吹き込んでいる。
この世に永遠の存在なんてありませんがな。
「ロボットだから大丈夫だと思っていたのに、こんなに早く寿命が来るとは」
エントロピーの鉄の掟によって、「モノ」である限り、必ず壊れる。
AIBOだけでなく、人間だって単なる「モノ」。だから必ず壊れる。
このニュースは「AIBOはロボットである」ってコトに、あんまり特別な意味を持たせないほうが、判りやすいだろう。
AIBOだろうが、ロボットだろうが、モノなんだから、電化製品なんだから、ケータイやスマホ、パソコンや掃除機や洗濯機となにも変わりはない。
イノベーションが進む近年の電化製品はすぐに劣化する。
今現在、10年前のケータイやパソコンを現役で使ってる人は少ないだろう。
耐久性のある掃除機や洗濯機でも、20年前に買ったのを今も使ってる人は少数派だろう。
AIBOは、掃除機や洗濯機よりは、ケータイやパソコンに近い電化製品だから、10年経てば、老朽化して当たり前である。
しかし人間は人間ゆえに単なるモノに愛着を持つし執着するし、非生物をまるで生きてるかのように扱う。
AIBOへの愛着なんて別に珍しいことでもなんでもない。
人間は、クォーツが当たり前の時代に、時代遅れのゼンマイ式時計に、クォーツ以上の金を払う。
ケータイで画像が撮れる時代に、100年前の光学式カメラに大金を使う。
和洋問わず200年前の古い人形は、当時の何百倍もの価値を持つ。
「電化製品」としてのAIBOは「期限切れ」かもしれないが、「アンティーク」としてのAIBOは「現役」なんだろう。
AIBOの修理を「ソニーに続けろ」というのは無理な話だ。
セイコーに、大昔のアンティーク時計の修理を商売にしろ、と言ってるようなもんだ。
アンティークの時計やカメラには、専門の修理職人がいる。
AIBOだって需要があるのならそうなるだろう。
さて、AIBOを修理し続けたら、AIBOはどうなるのだろうか?
壊れた手足を交換し、剥げた外装を一新し、電子頭脳も最新のものに変えたとしよう。
全部入れ替わり、購入当時のままの部品が一つもない状態になったとする。
それでも、そのAIBOは、あなたの愛したAIBOなのだろうか? 全く別のモノではないのか?
貴方だって、物理的には数年前の貴方とはまったく異なるのである。
人間の細胞は生まれては死ぬ。貴方を構成する部品は、全く新しく入れ替わっている。それでも、貴方は貴方なのか?
全部入れ替わってるのに、貴方が貴方だとすれば、貴方とはいったい「何」なのか?
AIBOが単なるオモチャなら、人間だって単なるオモチャである。
生き物と非生物との間は、それほどデジタルに割り切れないのだ。
古代ギリシャの哲学者はそういうことを考えていた。
修理で部品が全部入れ替わった船は、元の船を同じ船か?
この疑問を、「テセウスの船」と呼ぶ。
川は流れる。だから「同じ川へは二度と入れない」。
「イデア」とか、「形相」とか、「質料」とか、そういうややこしい話はこういう疑問から生また。
インド仏教の「ミリンダ王の問い」も 同じような話である。
「仏僧ナーガセーナよ、あなたは実在するのか?」
「いいえ王よ。私は実在しません。」
王様の乗ってきた車とは、何が、どこが、「車」なのか?
車輪が車か?
軸が車か?
座席が車か?
部品をバラバラに並べた集合が車か?
車とはいったい何なのか?
AIBOは、科学だが、形而上学でもある。人間もAIBOである。
「草木国土悉皆成仏~AIBO葬儀」VS「自分のために刻んだ像を造ってはならない~イスラム国ISIS」 - 在日琉球人の王政復古日記