在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

デモクラシーVSデモンストレーション~「大衆が怪物と化す」「民衆が悪魔に憑依される」それが民主主義。

安保法案反対、全国で「若者一斉行動」 京都では内田樹氏も参加 (京都新聞) - Yahoo!ニュース

2015/08/23

 安全保障関連法案に反対する大学生らのグループ「SEALDs(シールズ)」が呼び掛けた「全国若者一斉行動」が23日、各地で行われた。シールズは北海道や愛知県、大阪府、福岡県など60カ所以上でデモや集会があったとしており、若い世代の反対運動の広がりが浮き彫りになった。参加者らは「法案は戦争への道を開く」「私たちの行動は政権にも影響を与えるはずだ」と訴えた。
 京都市東山区円山公園では、「SEALDs関西」が集会を開いた。四条通などで行ったデモには、約1800人(主催者発表)が参加した。
 思想家の神戸女学院大名誉教授、内田樹さんも集会に参加した。法案の衆院通過を「憲法が定めた平和主義と立憲デモクラシーが根本からくつがえされ、瓦解(がかい)している」と批判、シールズの活動を「日本国憲法の精神と理念が根を張って花が咲いた。決定的な転換点で、必ず生まれ変わる」と評価し、メンバーと一緒に法案反対の声を上げた。

 

石破氏 秘密保護法案反対デモは「テロ行為」 その後“撤回” - 産経ニュース

2013.12.1
 自民党石破茂幹事長は11月29日付の自身のブログで、特定秘密保護法案に反対する国会周辺での市民団体らのデモについて「単なる絶叫戦術は、テロ行為とその本質においてあまり変わらない」と批判した。12月1日の富山県南砺市での講演でも「人が恐怖を感じるような音で『絶対にこれを許さない』と訴えることが、本当に民主主義にとって正しいことなのか」と語ったが、その後記者団にデモをテロになぞらえたブログの部分について「(デモがテロの)全ての要件を具備するわけではないので撤回する」と述べた。

 

「デモ」はデモクラシー(民主主義)か? デモクラシー(民主主義)である。

「デモ」はテロリズム(暴力)か? テロリズム(暴力)である。

なぜなら、デモクラシー(民主主義)「も」テロリズム(暴力)だからだ。

デモクラシーだけでなく、そもそも政治というモノが、すべて暴力なのである。 

 

自民党の石破さんの記事は特定秘密保護法案に関するものだが、

特定秘密保護法案だろうが、原発再稼動だろうが、安保法案だろうが、理屈は同じである。

 

デモを批判する石破さんも、農林族議員として、かつての米価切り下げ反対や、現在のTPP反対を叫ぶJA農協の決起集会には何回も参加してるはずである。

JA農協の決起集会は、そのあと都内を行進するのが普通で、通常、政治的要求を掲げて行進するのを「デモ」と呼ぶのである。 

石破さんの理屈ならば、JA農協も、SEALDs同様、絶叫テロ集団ということになる。

 

石破さんは北朝鮮拉致被害者救援の「デモ」も「テロ」と呼ぶ気なんですかね?

 

・・・と書いたからって、石破さんが間違ってる、と言いたいわけではない。

実は石破さんは半分以上正しい。確かに「デモはテロ」なのだ。

 

近代史はデモの歴史だ。

フランス革命の発火点「バスティーユ監獄襲撃」

ロシア革命の前触れとなった「血の日曜日」 

公民権運動キング牧師の「ワシントン大行進」 
韓国李承晩政権を倒した学生デモ 
日本岸内閣を退陣に追い込んだ安保反対デモ 
最近なら、
チュニジアリビア、エジプトの「アラブの春

タイを二分するタクシン派・反タクシン派の大規模デモ

アメリカの同性婚支持デモ、警官の黒人青年射殺抗議デモ

 

時代を動かしたデモに共通するのは、死ぬ気、というか、少なくともケガする覚悟はしていたことだ。 

「ケガする」というのは警察や軍隊に殴られる覚悟だ。
言い換えれば、警察や軍隊が物理的行動に出ざるを得ないくらい、デモ側も物理的アクションを起こすということである。

石破発言に対して、アンチ自民派からは「デモとテロを一緒くたにするなんて、石破は民主主義を愚弄している!」という批判が飛んだ。

しかし、日本のぬるいデモ=テロと呼ぶのは言い過ぎかもしれないが、デモといってもいろいろある。アラブやタイやウクライナみたいに、街頭にバリケードを築き、タイヤや車を焼き、投石を繰り返すようなタイプのデモもある。とても非暴力とはいえない。
アラブやタイやウクライナのデモまでエスカレートすれば、「デモ=テロ」という石破さんのご意見もかなり妥当性があるではないか。

実際、ウクライナのデモは、韓国の李承晩、日本の安倍ちゃんの祖父同様、一度は憲法通りに選出された正統な大統領を、通常の普通選挙を経由せずに、追放したのである。
タイだって、ちゃんと選挙で勝った首相を、デモ側は「普通選挙ヌキで」辞任しろ、政権交代しろ、と要求している。
これは民主主義として正当な行為なのか?

 

イヤイヤ、質問の方向がサカサマかもしれない。
そもそも、暴力的なデモは民主主義ではない、と言えるのか?

 

「民主主義」といえば非暴力なモノと思いがちだが、それは「条件が良ければ」の話に過ぎない。
どう言い訳しようが【政治とは暴力そのもの】なんだから、民主主義も政治の一種である限り、民主主義もその本質は暴力である。

民主主義の初め、フランス革命だって、貧乏人のパン寄こせデモが、バスティーユ監獄を襲う暴動に発展し、テロがフランスブルボン王朝を倒したのである。

 

~ 非暴力な普通選挙 ~ 大衆動員の選挙運動 ~ 街頭でのデモ行進 ~ 座り込み運動 ~ 投石とバリケード ~ 殴り合いから暴動 ~ 政府機関襲撃 ~ 暴力による政権奪取 ~ 政敵の処刑 ~

 

この一連の政治行為に、デジタルな「切れ目」なんてないではないか。どこで区切れるのか?

 

石破さんの「デモはテロと同じ」は正しい認識である。
と同時に
石破さんの「デモは本来の民主主義ではない」というのは間違ってる。

 

だって、石破さんの「デモは民主主義ではない」論が正しいのならば、まずなによりJA農協こそがテロ集団である。 

チベット人の反支那デモがOKなら、日本の安保法案反対デモだけNGというのは、都合が良過ぎである。 

安保法案反対デモが無駄だというのなら、北朝鮮拉致被害者を返せ!と日本人に向かって訴える行動も無駄である。

民主主義は選挙であり、選挙は演説であり、演説はデモであり、デモはテロでなのだ。どこで止まるかは条件次第だ。


デモに参加するのは、つねに「貧しい民衆=デモ」である。

王様や貴族や金持ちはデモなんか参加しない。

デモをするのは、常にデモ(大衆)であり、そのデモ(大衆)が支配する政治体制を「デモ」クラシー(民主制、民主主義)と呼ぶ。

 

ただし、街頭行動の「デモ」と、デモクラシーの「デモ」は一緒ではない。

私は、何かと言えばすぐ「語源」を持ち出し、話を煙に巻く(笑)西部邁先生ではないけれど、「必ずや名を正さんか」の孔子を尊敬する者として、双方の語源を調べてみると、

 

デモクラシーは「デモ+クラチア」で、「デモ」は民衆(ずばり貧乏人)、「クラチア」は支配、権力、統治を意味する古代ギリシャ語だそうな。

 

街頭行動を意味するデモンストレーションは「デ+モンスト+エイション」で、「デ」は強調、「モンストル」は注意、警告、「エイション」は動詞の名詞化を意味し、こっちはラテン語らしい。

 

この「モンストル」というのは、「示し」「兆し」「前触れ」「前兆」「予兆」「注意喚起」みたいな意味のようで、何らかの自然現象や不可思議な事件などが、未来の大きな変化や出来事を予告している、という今でもよくある人間の感覚に当たる言葉のようだ。
古代支那でも、麒麟という聖獣が世に現れれば天下泰平の吉兆として喜んだり、日食の発生やメンドリが時を告げると国家滅亡の凶兆と恐れたり、そういうやつだ。

人間に未来を知らせるのは、未来を知る能力を持つ、人間以上の存在であり、神だったり魔神だったりということになる。
ここから派生して「モンストル」から怪物を意味する「モンスター」という言葉が生まれたらしい。

 

デモクラシーが「大衆による支配」を意味するように、

デモンストレーションは「警告を発する怪物の出現」という意味なわけだ。

 

民衆が街頭に出て騒ぐデモンストレーションは、太陽が欠ける日食のように、時を告げるメンドリのように、「この世の乱れ、国の滅び、を予兆させる怪物の出現」である。

実際、フランスのデモ(大衆)によるデモ(怪物の出現)がブルボン王朝を倒し、ロシアのデモ(大衆)によるデモ(怪物の出現)がロマノフ王朝を倒した。

しかし本質が暴力だからといって、怪物が常に「悪」とは限らない。

アメリカのデモ(大衆)によるデモ(怪物の出現)が、普通選挙言論の自由をもたらし、人種差別や同性愛差別を糾弾するのである。

 

「大衆が怪物と化す」「民衆が悪魔に憑依される」・・・それが「デ・モンストレ・エイション」であり、かつ「デモ・クラシー」の本質である。

 

もしも、怪物や悪魔が、常に悪ならば、話は非常に簡単で、世の中は平穏だ。

しかし、怪物や悪魔が、とても悪とは呼べないことも要求するから、この世は厄介なのである。

  

祝祭は暴力である~渋谷 #ハロウィン 、阪神ファン、岸和田だんじり、諏訪御柱祭、神事動物虐待、リオカーニバル。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

民主政治は自由や平等を目指す。
しかし、あらゆる種類の政治の本質は「統治」であり「支配」である。
統治や支配は「する者」と「される者」の両方がいないと成立しない。

「する者」と「される者」の立場の違いがある限り、万人の自由も平等もまた有り得ない。

つまり、この世に人間が2人以上生きている限り、無人島のロビンソン・クルーソー以外、政治という戦いは永遠に続くのである。

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※追記 令和元年、デモ(民衆そして暴動)の映画が公開された。

 


映画「ジョーカー」US版予告【HD】2019年10月4日(金)公開