ローマ法王、中絶女性に「許し」を 神父らに呼びかけ (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース
ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は1日、今年12月に始まるカトリックの重要行事「いつくしみの特別聖年」に向けた書簡の中で、カトリックが禁止する妊娠中絶を悔い改めようとする女性信者らに対し、「許し」を与える裁量を神父らに認めると表明した。
法王は、「心に傷を持つ多くの女性に会ってきた」として、中絶を決断した女性はそれ以外に選択肢がないと追い詰められ、苦しんでいると指摘。中絶は罪であるとのカトリックの立場を改めて示しながらも、「神の許しは、悔い改める者を否定しない」として、神父らに対し、自らの考えに理解を求めた。
聖年は、神に罪の許しを請う通年行事で、原則として25年ごとにある。今回の特別聖年は、教会の近代化を目指した第2バチカン公会議の終了から半世紀を記念し、法王が呼びかけた。
法王はこれまでにも、中絶や同性愛について、「教会は、心狭い取り決めにこだわるべきではない」などと述べ、カトリックが禁止の立場をとる事柄について、柔軟な姿勢を示している。
この世に生きる女性には、生活範囲に、ロクな男がいない人生だってありうる(というか、そっちの方が多いだろう)。
「危ない日だからゴム付けて」と頼むだけで、不機嫌になって怒り出す。
さんざんやるだけやって、イザとなったら「お前が何とかしろよ!」と逆キレして逃げ腰。
そんな男にしか恵まれない女性の人生は掃いて捨てるほどあるだろう。
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そういう女性が最終的に中絶したとして、その責任が、その罪が、なんで、その女性に「だけ」あることになるのだろうか?
ヨハネ福音書
8:3 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
8:4 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
8:6 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
8:7 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
8:8 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9 これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
8:10 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
8:11 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
はたして、 ナザレのイエスは、中絶した《母》に石を投げるだろうか?
バチカンが問題にすべきは、中絶した《母》ではない。
「許し」を与えるべきか、許さざるべきか、を検討する対象は、ゴム無しで中出ししたくせに、《妻》の面倒を見ない、《子》の責任を取らない、無責任な《夫/父》のほうであろう。
殺された赤ん坊の《父》は、自分の《妻》が肉体的にも精神的にも下手したら法律的にも責め苦を負うのを横目で見ながら、自分の射精がすべての悲劇の始まりのクセに、何の罪も背負わず、何の罰も受けず、下手したら後ろめたさも罪悪感もなく、のうのうと生き延びるのである。
フランシスコ法王は、自分の精子が作ったわが子を見捨てた《夫/父》を許すのか?
世俗の法では、出産した赤ん坊を殺せば罪になる。しかし中絶は罪にはならない。
子宮から出た後は「殺人」、子宮から出る前は「医療」、である。
赤ん坊殺しが、年間何人かは知らないし、
中絶が、年間何件かは知らない(「人」ではなく「件」である)。
世俗の法における、罪とは、罰とは、普遍性のあるものではなく、人間の都合で決まる。
しかし神は普遍的である、はずだ。
バチカンの取り扱う、神の法は、神の裁きは、普遍でなければならない。
生まれる前に殺された《子》。
育てる意思と能力を持てず、自分の判断で肉体と精神を傷つけた《母》。
楽しむだけ楽しんで、《妻》と《子》に責任を取らなかった《夫/父》。
神が裁くべきは、許すべきは、本当は《誰》なのか?
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