旧約聖書・創世記に登場するのは、男性アダムと男性ジョージではなく、女性イブと女性エリザベスでもなく、男性アダムと女性イブなのだ。
バチカン高官、同性愛を告白「家庭を必要とする愛だ」 揺れるカトリック教会
2015年10月03日
カトリック総本山のバチカン(ローマ法王庁)で教義問題を担当する教理省に勤める高官が10月3日、同性愛者であることを告白した。ローマ・カトリック教会は、同性愛を自然に反する罪深い行為としている。タブー視する同性愛をめぐって、バチカンで4日から始まる世界代表司教会議でも同性愛をどう扱うか大論争となりそうだ。朝日新聞などが報じた。
同性愛を告白したのは、ポーランド人のハラムサ神父。3日、ローマでパートナーと共に記者会見に臨み、「祈り部屋から飛び出した。とても幸せだ」と述べるとともに、「同性愛は家庭を必要とする愛だ」とも述べ、時代の変化に合わせて同性婚は認められるべきだと訴えた。
報道に対して、バチカンのロンバルディ報道官は3日、「司教会議に対するメディアの過度な圧力を誘発するもので、非常に重大で無責任だ」とする声明を発表。「ハラムサ神父はこれまでの職務を継続することはできないだろう」と語った。
フランシスコ法王は「結婚とは男女がしっかり結ばれること」とのカトリックの家族観を堅持しているが、同性愛者を排除しない考えを示している。訪米中も、同性愛者の教え子と面会するなど柔軟な姿勢をみせた。一方で、同性カップルに婚姻証明を発行することを拒んだケンタッキー州の郡書記官とひそかに面会し「気持ちを強く持って」などと励ましたという。
オスとメスが性交し、メスが苦痛の中で出産し、オスが苦労して労働し、オスがメスを暴力で支配する、それが神の求める人間の家族というシステムだ。
神は、人間の家族の中核に、格差と暴力と支配の存在を望み給う。
暴力的に対等なオスとオスのカップル、出産の苦痛を分かち合うメスとメスのカップルは、神の御心に外れるのである。
男と女の間には~「出エジプト記」は旅の記録である~ドメスティック・バイオレンスの起源。 - 在日琉球人の王政復古日記
の続き。
ただし、今回のポーランド人神父の場合、基本的には、同性愛の問題ではない。それ以前の話である。
相手が、男だろうが、女だろうが、カトリックの神父が、特定の他人を性的に愛してはダメなのだ。
そして、おそらく、「セックス」よりも、「愛」のほうが、罪が深い。
男女を問わず、不特定とのセックス、売春行為なんかより、特定の個人を心から愛して生涯のパートナーとすることのほうが、神学的には問題が大きいだろう。
カトリックの独身制は、セックスよりも、心のあり方、愛の対象へのシバリのはずだからだ。
カトリックの法王は「パパ」であり、神父は「ファーザー」だ。父でありオスだ。
女性は、蛇の誘惑に負けた「原罪」の発生源であった。
よって原初よりキリスト教において、女性は蔑視され差別される。
法王レオ1世「罪なく子供を産んだ女はいない」
アウグスチヌス「女が男の為に子供を産まないとすれば、女はどのような価値があるか」
トマス・アクィナス「女の創造は自然界の失策である」
神(聖書)は、たかが女のキム・デービスさんが、男性同性愛者に反論する権利を認めない。 #kimdavis - 在日琉球人の王政復古日記
これはなにも、切支丹・伴天連だけの罪障ではなく、お釈迦様の仏教も、孔子様の儒教も、ムハンマドのイスラムも、ヒンドゥー教も同罪ではあるが。
お釈迦さまも、聖書も、孔子も、嫁を焼き殺すインドと同じ女性差別主義者である。 - 在日琉球人の王政復古日記
いやいや、カトリックには女性への崇拝もある!、という反論もあろう。
聖母マリア信仰である。
が、しょせん、女性が持つ数ある才能のたった一つに過ぎないはずの「子供を産む」ということしか重視していないことの証明でもある。
女性は、「母」として価値がある。「母」としてしか価値はない。
だから、聖職者は、女性を、「恋人」と見たり、「妻」としてはいけない。
「母」と性愛を結んではならないのだ。
「愛」は、自分より強いモノ、偉大なるモノ、神へ「のみ」向けるべき感情だ。
自分より弱いモノ、卑小なモノへ「愛」を向けてはならない。それらに向けるべきは、保護(支配)という「憐れみ」なのである。
男は体格が大きい。女性は体格が小さい。子供も体格が小さい。
家族はオスが暴力で支配するシステムだ。メスが子供を支配するシステムだ。
よって男に、そして女性も、「小さいモノを保護しよう/したい」とする感情/欲望が生まれたようだ。
ムキ出しの暴力は、愛によって隠蔽される。
たとえば。
福岡市カワイイ区、廃止へ 篠田麻里子初代区長で話題:朝日新聞デジタル
2015/02/19
「ユニークな取り組み」(高島宗一郎市長)と位置づけてきた同事業。発足当初はメディアに登場することも多かったが、区名について市民から「女性差別を助長する」との批判を浴びて篠田さんが区長を退任するなどの騒動も。
はたして「カワイイ」は女性差別なのか?
え?女性こそが「カワイイ」大好きじゃん。それが女性差別?
普通の皆さんは「難癖だ」「過剰反応だ」と感じるだろう。
ジェンダー思想・ファみニズムが嫌いな人は「キチガイ左翼め!」と嫌悪を抱くだろう。
その感情は「動物」として(笑)、正しい。
ホモ・サピエンスはアフリカに生まれ、創世記の昔より「体格の大きな者による体格の小さな者への暴力的支配」をルールとして生きてきた。
それは言い方を変えれば「体格の大きな者が体格の小さな者を保護してきた」とも表現できる。
ヒトはカワイイに反応しないと生存が不可能である。なぜなら、もしヒトがカワイイに無関心だと、オスはメスを保護しなくなる。母親は子供を保護しなくなる。次世代が残せなければヒトは滅亡だ。
しかし同時に、ヒトは二足歩行の結果、大脳があまりに大きくなりすぎて、「理性」を発達させてしまった。
理性は人権思想を生む。
暴力は悪だ。男女は平等であるべきだ。カワイイは女性の弱さの肯定だ。カワイイの称揚は女性差別だ、人権抑圧だ。
「カワイイ」は、根源的に人権思想にとって不倶戴天の敵である。
よってカワイイを商売にするアイドルは、常に、人権思想との闘いから逃れられない。
人権思想とは、動物としての「ヒト」を、動物を超えた「人間」に格上げするための戦いなのだ。これは理性である。
なぜなら、無制限の父性が暴力であるように、無制限の理性は狂気だからだ。
狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。
狂人とは理性を失った人ではない。
狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。
「ブラウン神父」という傑作ミステリを書いた英国の保守思想家チェスタトンの名言だ。ちなみにチェスタトンもカトリックである。
人権という理性を狂信した挙句、
フランス革命がギロチンで人間の首を切り落としまくり、
ロシアでは氷点下30度の凍土に無数の強制収容所が作られ、
カンボジアではポルポトが何百万人の生命を泥の海に沈め、
フェミニストが女性差別を糾弾し、カワイイ商売を取り締まる。
このお笑い地獄の元をたどれば、アフリカでアダムとイブが「知恵の実=理性」という《毒果》なんか食べたせいだ。
つまり、全部が全部、ヘビさんが悪いのである。