在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

釈迦も子を捨てた。イエスは母を否定した~能力と意欲の欠如した人間に、能力と意欲を要求する無理から、悲劇は始まる。

この《母》の決定的な誤解はここにある。

 

自宅で一人で産んだ。

 

ありえない。そんな奇跡は、聖母マリア以外には起こりようがない。

ホモ・サピエンスのメスは、どんなに頑張っても、生物学的に「一人で産んだ」りはできない。必ず、オスが関与している。

 

「自宅で産んだ、頭真っ白に」…生後間もない女児を路上に放置した24歳女を逮捕 - 産経ニュース

2015.11.6

 茨城県鉾田市で生後間もない女児が路上に放置されていた事件で、県警鉾田署は6日、保護責任者遺棄致傷の容疑で同市当間に住むパート従業員、佐藤美和容疑者(24)を逮捕した。
 県内在住の佐藤容疑者の知人男性から同署に情報提供があり、DNA鑑定の結果などから、佐藤容疑者が女児の実母であることが確認された。
 逮捕容疑は3日朝、自宅前の路上に自身が産んだ女児を置き去りにし、全治約2週間の低体温の傷害を負わせたとしている。発見当時、女児に着衣はなく、へその緒が付いた状態だった。現在、保育器に入り治療を続けている。
 同署によると、佐藤容疑者は「間違いありません」と容疑を認めている。調べに対し「自宅で一人で産んだ。産むことを誰にも相談できなかったので、仕方なかった。頭が真っ白になった」とも供述している。
 佐藤容疑者は独身で祖母、母と3人暮らし。家族は妊娠に気付いていなかったという。

 

本人は忘れたかもしれないが(笑)、約10月前、このメスのマンコに中出ししたオスが必ずいたはずだ。

 

《母》は、保護責任者遺棄致傷の罪に問われるようだが、

じゃあ、《父》は、何の罪に問われるのか? どんな罰を受けるのか?

身体を痛めた《母》は獄舎につながれ、

知らん顔の《父》は娑婆でのうのうと生きる。

こういうことを、人間の言葉で、理不尽、不公平、と呼ぶ。

 

中絶女性を許すも許さないもない。バチカンが検討すべきは「無責任ゴム無し中出し男」への「許し」である。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

これも間違いである。

 

産むことを誰にも相談できなかったので、仕方なかった。頭が真っ白になった 

 

調べてはいないが、おそらく、想像だが、茨城県鉾田市にも「市役所」が存在する可能性が高い。

鉾田市役所は、単なるバス停なんかの名称ではなく、どんどん腹が膨らんでいく、みたいな困った状況の市民の相談に応じてくれる場所なのだ。役所はそのために存在する。

彼女が鉾田市役所の受付に行けば、問題のかなりの部分は解決していただろう。

こういうことこそ、学校で教えるべきだ。英語や歴史なんてその後でも間に合う。

 

国家は子宮を持たない~先進国なら「コンクリートから人へ」が正しい。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

とりあえず、不幸中の幸いにして、《子》が死ななくて本当に良かった。 

その場で殺さずに捨てただけでも幸いである。 

 

どんな人間だろうと生きていく自由(いや、罰か?)はある。 

 

学ばなくとも、働かなくとも、生物的に成長すれば、セックスは可能だ。
セックスが可能なら、セックスする自由もある。
確率の問題で、子供が生まれることもある。

避妊? 無理言いなさんな。
シチュエーション的に忘れることもあるだろう。
「付けて」と言うだけで、逆ギレするオトコもいるだろう。
自分の行動半径にそういうクソみたいなオスしかいない女性だって多い。

 

人間社会のあらゆる悲劇は、「能力」と「意欲」の欠如した人間に、無理やり「能力」と「意欲」を要求することから始まる。

 

子を捨てる親は、おそらく、育児能力も無く、育児意欲も無いだろう。

育児能力も育児意欲も無い人間に、無理やり育児をさせれば、子供は地獄だ。

怠業、放棄、虐待、暴行、致死、殺害、死体遺棄に至りかねない。

 

赤ちゃんポスト、神戸の助産院に設置計画 全国で2番目 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

2017/2/10(金)
 実親が育てられない子どもを匿名で預かる「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)を関西で設立しようとしている市民団体が9日、神戸市内の助産院に設置する計画を発表した。実現すれば、熊本市の病院に続き全国で2例目。これに対し神戸市は、助産院には医師がいないため、「医師でなければ医業をしてはいけない」とする医師法に抵触する可能性を指摘。慎重に進めるよう求めている。
(略)
 赤ちゃんポストは2007年に全国で初めて慈恵病院(熊本市)で設立された。15年度末までに125人の子どもたちを預かり、年間約6千件の相談を受けてきた。その大半が県外からで、関西からは約2千件にのぼるという。

 

赤ちゃんポストに我が子を捨てた親は、2つの点で、エライ。

まず、第1に、自分の無能と無責任をちゃんと自覚している。

自分を卑小さを知る者はなかなかいない。立派なモノである。

そして、第2に、邪魔な我が子を殺さなかった。

ちゃんと電話をかけて、交通費を支払って、わざわざ自分たちで赤ちゃんポストまで運んだ。

ここまでやれたら十分だ。「人間合格」である。

 

子を捨てた親は、自分に育児能力や育児意欲が無いことを自覚しているだけ、まだマシなのだ。

「子捨て」とは、表現を変えれば、能力と意欲が無い最悪の親から、子を「解放・救出・脱出」させるチャンスである。

能力と意欲が無い彼ら彼女らにこれ以上の義務・倫理を要求するのが無茶なのだ。悲劇はそこからおこる。 

 

幸いにして、先進国である現在日本の社会状況なら、捨てられた子は、親に苛められず、親に殴られず、親に殺されず、なんとか生きていくことが出来る。

もちろん、育児能力があり育児意欲もある親が理想ではある。 

しかし理想は、理想であって、現実ではない。

 

意欲と能力のうち、育児「意欲」が無いのは、まだ最悪ではない。
最悪なのは、育児「能力」が無いのに、育児「意欲」だけはある場合だ。

 

育児「能力」が無いのに、育児「意欲」だけはある場合、育児できないのに、放置するくせに、食わせないくせに、苛めるくせに、殴るくせに、親権だけは放棄しない。児童保護を拒否する。子供を手放さない。そして子供を飢えさせ、殴り続け、最後は殺すことになる。

 

子を捨てる無能力な親はまだ救いがある。
子を捨てない無能力な親の方がはるかに厄介なのだ。

 

子への虐待・暴行・殺害などの悲劇は「捨てない」からこそ発生する。
恋人へのストーカー行為や、妻へのドメスティックバイオレンスも同じことだ。

「(主観的に)愛しているから」「離したくないから」ゆえに悲劇はおこる。 

「愛してなければ」「離してもよければ」大した悲劇にはならない。

 

愛別離苦。愛するモノへの執着こそ、諸悪の根源である。

釈迦という人間嫌いのインド人が、2500年も前に、そう断言している。

 

ちなみにこの釈迦という男も、育児意欲の欠如した、父親失格者、子捨て野郎だ。
生まれたばかりの自分の子供にラーフラ(障害、邪魔)なんていう無茶苦茶な名前をつけて、育児を放棄し、産後で休養している妻かつ母を無慈悲にも捨てたのである。

 

じゃあ、この古代インドの子捨ては、平成日本の子捨てと、同じか?

異なる点もある。

 

平成日本の親は、我が子を、家から放り出し、路上に捨てた。 

平成日本の親は、家も財産も、子に与えず、自分で所有したままだ。

 

古代インドの釈迦は、自分自身を、家から放り出し、荒野へ捨てた。

古代インドの釈迦は、家も財産も、放棄して、すべて妻子に残した。

 

また時代が下って、ナザレのイエスには、子供はいなかったが、父(養父)と母(実母)と弟たちがいた。

彼もまた、実母を捨て、実弟たちを否定し、信仰上の兄弟を選んだ。

 

マルコ福音書
3:31 さて、イエスの母と兄弟たちとがきて、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
3:32 ときに、群衆はイエスを囲んですわっていたが、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言った。
3:33 すると、イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。
3:34 そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
3:35 神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。

 

ルカ福音書
18:29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、
18:30 必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。

 

エスは、神を信じる。ユダヤの神は「創造主」である。

だから、作ることそれ自体、生れることそれ自体は否定できないだろうが、生れてきたって、必ず100%「裁きの日」を迎えるわけで、その誕生が正しいかどうかは、悔い改めるかどうかで決まる。

それは個人の決断であり、家族みんなが幸せになれるかどうかは判らない。だから、血縁上の家族を捨て、信仰の仲間を選ぶのである。

  

釈迦には「創造主」がいない。ここがイエスとの最大の違いである。

作ることは正しい、世界は正しい、という発想自体がそもそも無い。

人間が、畜生も、この世に生まれてくることこそが悲劇の始まりだと見た。生き物なんて生まれてこない方が正しい。つまり生命は悪なのだ。世界も悪である。

 

釈迦の弟子に、出家を望みながら、家業を継ぐ跡取りが欲しいと父母に懇願されて、わざわざ子供を作ってから、釈迦の元に来た男がいた。釈迦は激怒したという。わざわざ悪のタネ、因縁を作って、出家も解脱もクソもあるか! 

 

釈迦こそ、反出生主義(アンチナタリズム)の代表的人物である。

 

しかし、釈迦は、愛は持たないが、慈悲は持つ。

慈悲深き釈迦は赤ちゃんポストの必要性を理解するだろうが、それは「必要悪」だと言うだろう。

そもそも赤ちゃんが生まれないことが正しい。よって妊娠しないことが正しい。つまりセックスが間違いである。

ただし、妊娠してしまってからじゃ(当時の医学では)どうしようもない。釈迦も赤ちゃんポストに「妥協」するだろう。

 

この世に生まれることは、どう生きていくかは、生まれたその個人の責任=義務なのだ。生んだ家族は責任の取りようが無いし、義務を肩代わりすることもできない。

だから釈迦は最初から止めといた方がいいと忠告するし、イエスは血の絆より神との絆に生きよと説教する。

 

世界を悟った覚者や、神の子すら、家族を捨てる。

卑賎な凡人に無理を押し付けてはいけない。

 

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