どちらも、何らかの理由で「妻」を失った「元夫」と「妻の子」の物語である。
2015年11月13日、イスラム原理主義者によるパリ同時多発テロで、奥さんを殺された旦那さんの手記である。
「君たちに憎しみあげない」テロ遺族FB文章に共感の輪:朝日新聞デジタル
2015-11-19
「金曜の夜、最愛の人を奪われたが、君たちを憎むつもりはない」という書き出しで始まる文章は、妻の遺体と対面した直後に書いた。
「君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈したことになる」と憎しみを否定。「君たちの負けだ。(略)幼い息子の幸せで自由な日常が君たちを辱めるだろう。彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから」と、1歳半の息子と2人で普段通りに暮らし続けることを宣言している。
日本の芸能人が、妻の子が自分の血を分けた子ではないと知った騒動である。
安藤優子「切なすぎません?」大沢樹生の長男に同情 - 芸能 : 日刊スポーツ
2015年11月19日
東京家裁は19日、大沢と長男との間に親子関係がないことを認める判決を下した。同日のフジテレビ系「直撃LIVE グッディ!」で安藤は、「あんたは僕の子じゃないんだよって言われる息子の気持ちになると切なすぎません?」と長男に同情。「厳密な法解釈と家族の形って違うじゃないですか。そんなに厳密に法的に『あなたと私は家族じゃない!』って言わなきゃいけないんですかね?」と大沢の行動に疑問を投げかけた。
(略)
しかしツイッター上では、安藤の主張に対して、「大沢さんと息子さんが被害者でしょ!喜多嶋舞がおかしいのでは?」「子どもは確かにかわいそうだけど、戸籍についてはそれぞれ家族がいる以上、はっきりさせることは必要だと思う」「一番の犠牲者は息子と大沢さん。自分の子供だとだまされ続けた大沢さんを責めるのはおかしい」と大沢を擁護する声が多数上がっている。
この2つは、そもそも何の関係もない、あまりにかけ離れた話題だと、世間の皆さんは思ってるだろうが、なぜか、私の中ではつながってしまった。
もちろん、愛する妻を失う、愛した妻から裏切られる、方向は180度正反対だが、
人間として、男として、人生も生活も感情もズタズタにされるような、耐えられない悲劇に襲われる。
そのとき、人間はどうするべきなのか?
怒りに身を任せて怨みを爆発させ復讐を誓うべきか?
とても愛せぬ相手をじっとガマンして愛するべきなのか?
おそらく、正解は無いんだと思う。
こういう話は、大昔からあり、さまざまな回答がある。
マタイ福音書
5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:39 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
5:40 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
5:41 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
5:42 求める者には与え、借りようとする者を断るな。
5:43 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
5:45 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
5:46 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
5:47 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
5:48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
愛する妻を失ったアントワーヌ・レリス氏の態度である。やはり彼もキリスト教文化の人だ。
日本の事例ならば、大沢樹生氏に対して、不実な妻から他人の子を押し付けられても、決して怨むな。その子に罪はない。父として愛を注ぐべきだ。という回答か。
大半の人は、マタイ福音書のこの言説に、イエスの「愛」と「寛容」を見出すが、まったく正反対の解釈もある。
吉本隆明「マチウ書試論」
もしここに、寛容を読みとろうとするならば、原始キリスト教について何も理解していないのとおなじだ。これは寛容ではなく、底意地の悪い忍従の表情である。
右の頬を打った悪人に、「悪を行うな。罪を重ねるな。あなた自身が地獄に落ちてしまうぞ」と忠告せず、「もっともっと打ちなさい」と、さらに罪を重ねるように仕向ける。これは、相手の地獄行きを確実にする、弱者の強者に対する一種の復讐なのだ、という解釈である。
アントワーヌ氏の奥さんは天国へ昇る。いつの日か、アントワーヌ氏も、彼の息子も、当然天国へ昇って、彼女と再会する。
しかし、自爆テロリストよ、お前たちに会う事はこの世でもあの世でも永遠にない。なぜならお前たちは天国に昇れないからだ。アラーはコーランを悪用したお前たちに地獄を用意するだろう。
また、冒頭の「目には目を、歯には歯を」も、古代オリエント世界では有名なフレーズである。ハンムラビ法典にある一節といわれる。
しかし、この「目には目を、歯には歯を」を、復讐のススメと解釈するのは間違いだとされる。
「目を傷つけられたら、相手の目を奪ってよい」、しかし「目を傷つけられたからといって、相手の命を奪ってはならない」、つまり対等以上の、エスカレートした過度の復讐の禁止を意味するのだ。
失業して、差別されたからといって、爆弾や銃で他人を殺してはならないのである。
逆に、テロがあったからといって、報復で無制限で空爆していいのか? イスラム教徒全体への対応を変えていいのか?、という話にもなる。
よくよく思い返してみれば、
ナザレのイエスに人間の父はいない、神の子である。
マリアは男を知らない処女のまま母となった。
マリアの夫・大工のヨセフはイエスの間に血の繋がりはない義父なのである。
ヨセフ、マリア、イエスは、大沢樹生と喜多嶋舞とその子供と相似なのだ。
聖書によると、ヨセフは、妻の不倫?を罵倒せず、義理の子イエスを誠実に育てた(らしい)。
しかしこの「義理の息子」は長男のクセに、父の家業である大工仕事も継がずに、家出してワケの判らない行動をとって、最後は罪人として死刑になった。
義父・ヨセフの誠実は、キリスト教的には報われてることになってるが、生涯無言を通した、現実世界のヨセフの心の中は、神以外、誰にも判らない、闇のままである。
中東・ヨーロッパだけでなく、東洋にも人間は住んでいる。
老子道徳経・第六十三章
爲無爲、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳。(以下略)
無為を為し、無事を事とし、無味を味わう。小を大とし少を多とし、怨みに報ゆるに徳を以ってす。(以下略)
「報怨以徳」~許せぬ悪をあえて許す。不誠実に誠実で返す。憎悪に愛で応える。
マタイ福音書にも、表面上は、似ている。
後半は一種の政治論であり、偶然か、必然か、テロリズム対策を語っている。
「厄介な難問というのは、それがまだ最初の小規模の内に対応しておけば、解決は楽だ。大きな問題も必ずその兆候がある。それを見逃さずに芽を摘んでおけば、解決不能に至らない」
これはまた、妻と夫、父と子の家庭問題も同じである。
この「報怨以徳」は、古代支那でもポピュラーなフレーズだったのだろう。後代の孔子が反論している。
論語・憲問第十四-36
或曰。以徳報怨。何如。子曰。何以報徳。以直報怨。以徳報徳。
或る人曰く。徳を以て怨に報ぜば、如何。子曰く。何を以て徳に報いん。直を以て怨に報い、徳を以て徳に報ず。
誰かが言った「不誠実な相手に、こっちは誠実を持って応える、という素晴らしい言葉がある。どう思われる?」
孔子は反論した「じゃあ、誠実な相手に、何をもって礼を尽くすのか? 不誠実な悪党と誠実な善人に同じ対応ではおかしいだろう。不誠実には【直】で対応し、誠実に対してこそ誠実でお返しすべきだ」
老子は心が広い、リベラルで、反戦平和で、まるで朝日新聞(笑)、
孔子は心が狭く、感情的で、報復を否定しない、産経新聞(笑)、
みたいだが、注意しないといけないのは、老子は反語・皮肉・冷笑・厭世・ニヒリズムの思想なのだ。決して愛の思想ではない。
漢文というのは白文じゃないとその意図が見えないときが多い。
「爲無爲、事無事、味無味」このキレイに並んだ漢字は、冷笑と皮肉である。
「何も実行しない」ということを実行する。
「任務がない」ということを任務とする。
「味の無いもの」を味わう。
希望を捨てれば、絶望することもない、ということでもあり、
人間であることをやめれば、人間になれる、ということだ。
老子は、この腐った世の中はどうにもならない。良くしようとすればするほど悪くなる。逃げろ逃げろ、あきらめろ、という思想であり、
孔子は、絶望したら終わりだ。希望を持って聖なるモノを求めて戦え、人間はそのために生まれてきたのだ、という思想だ。
孔子は
「以徳報怨」《怨み》に報ゆるに《徳》を以ってす、を否定したが
「以怨報怨」《怨み》に報ゆるに《怨み》を以ってす、「目には目を、歯には歯を」、同等の復讐をせよ、と主張したわけではない。
「以直報怨」《怨み》に報ゆるに《直》を以ってす、と主張した。
どう訳すか難しいところだが、「直」は、素直に、心のままに、ということか。
それは、許せぬ相手への怒りかもしれないし、復讐かもしれない。
または、自分が理想の自分であるために、あえて相手を許すことかもしれない。
論語憲問第十四「何を以て徳に報いん。直を以て怨に報い、徳を以て徳に報ず」
人を超えた天上の神の倫理を生きよ、悪を赦せ、と説く、ナザレのイエス。
地上の人として他者に対して誠実に生きよ、善に報いよ、と説く、孔子。
ハンムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」は、復讐のススメではなく、同等以上の過剰な復讐の禁止であったが、日本のテレビドラマには、また別の思想家が登場したらしい。
マタイの「右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」でもなく、
ハンムラビの「目には目を、歯には歯を」でもなく、
孔子の「以直報怨」でもなく、
半沢直樹「やられたらやり返す。倍返しだ!」。
これもまた一つの真理であり、倍返しされることを恐れた相手が悪意や不誠実を事前に取りやめてくれることを期待できる。ただし、相手が馬鹿だった場合、無限の地獄に堕ちることになる。