神戸新聞NEXT|社会|二つの山口組 県内では勢力逆転 神戸山口組7割
分裂した二つの山口組が拠点を置く兵庫県では、全国情勢と異なり、神戸山口組の構成員・準構成員らが県内全体の72・5%を占めて最大勢力となり、16・9%の山口組を上回った。
県内では分裂前まで山口組の寡占状態が長く続き、直系9団体があった2014年末は、他の暴力団を含む全構成員・準構成員ら計1640人のうち、9割が山口組だった。分裂後の直系団体数は昨年末時点で神戸山口組が6、山口組が2となり、情勢は一変している。
この方面の情報にはまるで素人なんで、ネットでウワサ話は聞いてましたが、まさか本当に本当だったなんて。
六代目山口組が、神戸山口組に対抗して、竹中組を復活させて傘下に入れたというのを、
大河ドラマの真田丸を見てるような歴女の皆さんにも判りやすくいうと、
関が原の合戦の前に、徳川家康が、石田三成たち豊臣方に対抗するために、かつて秀吉に滅ぼされた柴田勝家の末裔を探し出して、戦国大名・柴田家を復興して、徳川方の大名に取り立てた、みたいな話である(笑)。
余計ややこしくなった(馬鹿)?
竹中組というのは、ある意味、伝説の極道だ。
山口組は、三代目・田岡一雄の時代に全国展開する。
彼の一番子分は、山口組内部の名門組織・山健組初代・山本健一である。
田岡三代目が亡くなれば、彼の跡目は、初代・山健が継承する・・・これなら山口組の誰も文句は言わない。
しかし、運命の悪戯か、田岡三代目の死去とほぼ同時に、山健初代も急死。
これで巨大組織山口組は、正統な後継者が不在となる。
勢力も最大で、名門組織とはいえ、山健組の二代目が、田岡三代目の跡目を直接継ぐのはヤクザのルールとして無理があった。
なぜなら、田岡三代目が「親」、山健初代が「長男」に当たるとすれば、山健二代目は「孫」になる。田岡三代目から直盃を受けてない者=一親等の「子」でない者が跡目を継ぐのは無理があるのだ。ここで最有力の山健組は跡目レースから外れる。
となれば、山健初代の「弟」に当たる、田岡三代目の「次男」「三男」から選ぶしかない。しかし巨大組織山口組には有力な「子供」が多かった。
年功序列、格でいえば、山広組山本広が順当である。しかし彼は「八方美人」「穏健すぎる」「根性なし」と最大勢力山健組から嫌われていた。
山広四代目就任阻止のために山健組が担ぎ上げたのが、姫路の暴れん坊・武闘派・竹中組竹中正久であった。
跡目を潰された山広は反山健派と共に山口組を離脱、一和会を結成する。
この山口組を真っ二つに割った騒動が、戦後ヤクザ史上最大の抗争「山一戦争」である。
戦力でイケイケだった山健たち山口組残留組は、寄り合い所帯の一和会を追い詰めるが、窮鼠猫を噛む一和会のヒットマンが、なんと四代目山口組竹中正久と若頭豪友会中山勝正、山口組のナンバー1とナンバー2を同時に暗殺するという、「本能寺の変」並みの逆転場外ホームランを打つ。
しかし、これが山口組の復讐心に火を付け、一和会は完全に潰される。山口組の勝利で、山一戦争の勝敗は決した。しかしA級戦犯・山広が死んだわけではない。
とはいっても、これ以上の抗争は、警察も許さないし、山口組も疲弊していた。
またヤクザの抗争は「終戦のセレモニー」が一番重要なのだ。ちゃんと「終わりました」と内外に示さないとゴタゴタが残る。
そこで関東の金看板・稲川会が仲立ちとなって、手打ちとなる。
講和条件は、一和会解散、山広引退。生命は保証された山広は引退する。
四代目の死んだ山口組は、一和会分裂、山一戦争で、さらに勢力を拡大し、対抗できるライバルがいなくなった山健組が五代目に立つことで、一番最初の路線に戻ることになる。
そして、山健を助け、後に経済ヤクザの典型ともなる宅見組も頭角を現す。時代はバブル景気前夜だ。
ところが、この手打ちを吞み込めない組があった。暗殺された竹中正久四代目の竹中組だ。
親分のタマを獲られて、相手は生きている、これではメンツが立たない。竹中組は手打ちを無視して、山広を狙う。
しかし、この手打ちを無視することは、山口組の正式決定を認めないことであり、間に立った稲川会のメンツを潰すことにもなる。山口組と稲川会を敵に回すのと同じことであり、誰も味方はしない。
五代目体制の中核・山健組と宅見組は、元の親分の出身団体・竹中組を見捨てる決断をする。ここに「山健組主導の五代目山口組」と「旧四代目だった孤立無援の竹中組」の「山竹戦争」が勃発。こっちは山一戦争のような互角の戦いではなく、マンモスとアリの勝負だった。
しかし竹中組は実質的に壊滅しても最後まで詫びを入れず、山口組の終戦宣言で終わる。
少なくとも形式的には、竹中組は、五代目山口組に降参しなかったのである。
竹中組は、損得計算で言えば負けるに決まってる無謀な抗争をやった馬鹿な組なのだが、死んだ親分の名誉のため命を惜しまず意地を通したということでは、「忠臣蔵の赤穂浪士」的なヤクザの鑑であり、ある種、畏敬の念を持たれる伝説となった。
五代目の春を謳歌した山健組と宅見組も、やがて内部対立で、バブル経済の錬金術師・宅見勝が、なんと盟友関係の山健系中野会に暗殺され、そのゴタゴタが、山健の面目をガタガタに潰し、その間隙を突いた新興勢力・名古屋の弘道会が、名門・山健を追い詰めて六代目の天下を取る。
なぜか、そこには山健系に親分を殺された、かつての竹中組と同じような立場のはずの、宅見組が付いて行く。何があったのか複雑怪奇である。
つまり、山口組にとってはタブーに近い因縁の名跡・竹中の看板を、名古屋の六代目山口組がわざわざ復活させて、直参に直したわけだ。
それは、担ぎ上げて、大損させて、メンツの立たない手打ちを強行して、抵抗すると無慈悲に叩き潰した、ある意味、竹中組をさんざん利用した捨てた形になった、神戸山口組の中核・山健組と宅見組への「嫌がらせ」なのである。
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ちなみに、竹中組と共に六代目に残ってる岸本組も息の長い組だ。
初代・岸本才三は、天下を取る勢力ではなかったが、数ある山口組の騒動の節目節目に登場する「顔役」であった。
白いヒゲがトレードマークの親分で、竹中四代目暗殺の時に病院前からハンドマイクで演説するシーンが有名だ。
田岡三代目から直盃をもらい、山健を立てて、一和会と手打ちし、孤立した竹中組を救済しようとし、宅見組長暗殺の現場に居合わせて殺されかけ、弘道会主導の六代目でも名誉職に付いて、無事に引退した。
山健組の盛衰を、ウラとオモテを、全て見て、黙って引退した親分であった。