在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

法(刑法)VS法(ダルマ)~復讐と死刑VS仏教不殺生戒(その2)~生老病死、愛別離苦、怨憎会苦 #瀬戸内寂聴

まあ、日本の自称・仏教が、どこまで、インドの釈迦の開いたオリジナル仏教と同じといってもいいのか?、良いも悪いもまるっきり違う宗教になってないか?、という大きな疑問があるけれど(笑)、それはそれとして、寂聴は仏教徒であり、出家得度した比丘尼である。

 

法(刑法)VS法(ダルマ)~復讐と死刑VS仏教不殺生戒(その1)~犯罪被害者遺族VS出家比丘尼 #瀬戸内寂聴 - 在日琉球人の王政復古日記

の続き。

 

仏教においては、「家族の恨みを晴らす」という理屈は否定される。

どころか、「家族を愛する」という気持ちも否定される。

出家とは家族との縁を切り、家族を捨てることだからだ。

 

インドの釈迦は、王家に生まれながら、妻を持ちながら、子供を授かりながら、家も妻も赤ん坊も捨てた。正確には妻と赤ん坊に家を財産を譲って逃げた。自分で自分を荒野に捨てた。

もしも、その後、釈迦の妻ヤショーダラーや赤ん坊ラーフラが、何らかの事件に巻き込まれて殺されるようなことがあったとしても、釈迦は王家に戻らなかっただろうし、妻子の仇も討たなかっただろう。すでに彼は妻子との縁を切っていたからだ。

 

仏教の戒律にはいろいろあるが、どの場合もまず第一に挙げられるのが「不殺生戒」である。仏教徒は(人を)殺してはならない。

自分も他人を殺してはならないんだから、他人が他人を殺すことを、現実に止められるかどうかは別にして、援助することはもちろん、賛成することもまたできない。

つまり仏教は、人殺しがやらかす殺人ももちろん認めないが、その報いとしての正義の復讐も、国家による死刑も認めない。

 

誤解してはいけないのは、仏教「不殺生戒」があるのは、なにも「命が大切」だからではない。

 

もちろん、堕落して俗世におもねった外道仏教や、仏教から派生してもはや仏教とは言い難い仏教新宗教は、「生命万歳」とか言い出しそうだ(笑)。

しかし釈迦にそんな発想はない。なぜなら「生」は「苦」だからだ。

 

仏教の「苦」というのは、苦痛というより、思い通りにならない、自分ではどうしようもない、ということだ。

つまり、ある意味「人間賛歌」ともいえるネオリベ思想、またその超絶下品劣化バージョンである長谷川豊さんのタワゴトなどが、全く通用しない世界観であり、人間に自由意志など不可能だ、自己責任など取れない、というアンチ・ネオリベ思想でもある。

 

「生」は「苦」だ。それも人間が出会う、一番最初の「苦」だ。「生=この世に生まれてくること」それ自体が「苦=自由意志ではどうしようもない」なのである。

じゃあ、さっさと死ねばいい、いっそ殺されてもいい、というわけでもない。なぜなら「死」もまた「苦」だからだ。「死」こそ人間にとって最期最大の「苦=自由意志ではどうしようもない」である。

 

生老病死。生まれること、老いること、病めること、死ぬこと、人生は生まれてから死ぬまですべて苦だ。この四苦に加えて、

愛別離苦(愛するモノとは別れる時が来る)
怨憎会苦(憎むべきモノは避けられない)
求不得苦(望みは適えられない)
五蘊盛苦(身も心も思い通りにはならない)

を合わせて四苦八苦である。

愛する家族との永遠の別れも、愛する家族を害する者の登場も、完全な復讐が不可能なことも、怨念・憤怒がコントロールできないことも、「苦」である。

さすがはお釈迦さま、殺人=愛別離苦も、その報復=死刑=怨憎会苦も、すでにお見通しだった。

 

釈迦は不殺生戒だから、自分からは殺さないし、殺人を否定するが、彼はただの人間であり、万能の神ではないから、おそらく腕力や超能力で他人がやろうとしている人殺しそのものを止めることはできない。その報復も死刑も同じく止める能力もない。しかし、少なくともその両方に賛成することもない。

 

愛別離苦を解決する方法は愛する気持ちを捨てるしかない。

怨憎会苦を解決する方法は許せぬ鬼畜外道への復讐心を捨てるしかない。

簡単に言うな!家族を殺されて黙ってられるか!・・・そう、簡単にはできない。できないからこそ、生ある限り、何十年もかけて修行を続けるのである。

それは一生かけて修行しても不可能なくらい難しい。だから来世に生まれ変わっても修行する。その次の世でも。次の次の世も。その気が遠くなるような輪廻の先に、修行の果てに、解脱を求める。

 

解脱したら天国や極楽に行くのではない。輪廻という悪魔のサイクルから脱出して、もう二度と生まれてこない。それだけだ。生まれないから、四苦八苦から解放される。病まない、老いない、愛さない、憎まない、そして二度と死なない。

無我・・・愛する私、憎む私は、そもそも最初から存在しなかった。

私が在る、というのは、単なるカン違いの産物だったのだ。それが「覚り」である。

元々の仏教ニヒリズムに非常に近い。

 

傑作ミステリ「ブラウン神父」を書いた英国保守思想家がかく語りき。

 

キリスト教徒は世界を逃れて宇宙に入るのであるが、

仏教徒は世界ばかりかむしろ宇宙から逃れることを願うのである。

これら二つのものに比べられるものは、他に地上には殆ど無い。

そしてキリストの頂に登らぬ者は、仏陀の奈落に落ちるのである。

(GKチェスタトン) 

 

最後の審判に神とひとり子が降臨し、悪は裁かれ、正義は救済される、なんていう復讐劇・刑事裁判は、仏教にはない。

 

キリスト教は求める。仏教は逃れる。正反対だ。

この地上にキリスト教に匹敵するものは仏教くらいしかない。

キリスト教の頂を目指さないのなら仏教の奈落に落ちる。

カトリック信者であるチェスタトンから、ここまで言わせてるのは、逆説的な、最上級の、仏教への賛辞である。

 

しかし、世俗に向かって、正義に対して、ポジティブなキリスト教にしたって、死んでもいい人間、人間が殺していい人間がいるとは言わないのである。

 

人間が自殺・安楽死・尊厳死するのは自由。同時に、バチカンがその死に反対するのは正しい。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

キリスト教は自殺を許さない。人間は神の命ずるその日まで生きなければならない。

 

法(刑法)VS法(ダルマ)~復讐と死刑VS仏教不殺生戒(その3)~鬼子母神、他力本願、最後の審判、儒教 #瀬戸内寂聴 - 在日琉球人の王政復古日記

へ続く。