在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

法VS人間~刑事裁判は、犯罪被害者や遺族とは無関係であり、彼らの怨念や復讐心を晴らせない。

#長谷川豊 ~ミス、迷惑、罰、寛容~飲酒運転殺人懲役3年、相模原障害者殺人、電通うつ病過労死自殺、ハロウィン。 - 在日琉球人の王政復古日記

の続き。

 

いやいや、それでも、飲酒運転の果ての人殺しと、他の迷惑行為は、一緒にはならない!・・・そうかな?

人殺しだって、必ず、絶対に、罰を受けるわけではない。賞賛される場合だってある。

戦争じゃ、敵兵を殺せば英雄である。オサマ・ビン・ラディンを暗殺した、バラク・オバマ殺人罪で逮捕されただろうか? 

 

日本中で行われている妊娠人口中絶だって「殺人」ではないのか?

どうしようもなく追い込まれた女性の判断も、強姦された末の妊婦も、出産しなければ人殺しか?

 

「ハンガー」が象徴する、あるサルのメスの歴史~ポーランド中絶禁止法案否決。 #長谷川豊 #瀬戸内寂聴 - 在日琉球人の王政復古日記

 

ミスしたら、人様に迷惑かけたら罰を受けるんだよ!

 

ミスしたら」、ミスをしたから、罰を受けるのか? そんなこともない。

 

<天王寺・バット男>41歳「目が合い、肩ぶつかり殴った」 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース

2016年11月2日

 府警によると、男は無職の松本将史容疑者(41)=同市東淀川区東中島5=で、「目が合い、肩がぶつかったので殴った」と容疑を認めている。

 

天王寺のバット男は、ミスをしたわけではない。

まあ、人生そのものをミスした、と言えないこともないが、逮捕された行為は、ミスではなく、故意である。他人を殴りたくて殴ったのであり、彼の意思においてミスも間違いもない。

ビン・ラディンは、アメリカ人を殺したくて、アメリカ人を殺したのだから、計画の成功であり、ビン・ラディンミスではない。

しかし、通り魔も、テロリストも、ミスはしてないけど、いや逆に失敗しなかったからこそ、罰せられるのである。

天王寺のバット男だって、他人を無差別に殴る気満々だったけど、実行前に途中でバナナの皮に足を滑らせて、失神・昏倒したら、ミスをしたことにはなるが、他人を殴ることに失敗したから、逆に、逮捕もされず、罰も受けなかった。

 

長谷川豊さんは、「裁判所がやらなきゃいけないことは、酒飲んで運転したらダメだって示すことだ!」と批判してるが、裁判所=日本の司法権力は、ちゃんと「懲役3年6月という刑罰で、「酒飲んで運転したらダメ」なことを、世間に知らしめている。

通常の損得勘定のできるマトモな人間は「3年臭いメシ食って、前科が付くなんて、人生が台無しになって大損だから、飲酒運転なんか止めよう」と計算するのである。

司法権力も、そういうマトモな人間のそういう合理的な判断を期待している。

 

そうは考えない、「3年臭いメシ食って、前科が付くくらい、オレはぜんぜん平気だよ。だから酒を飲んで運転して人も轢くよ。でも、もし10年ムショ暮らしだとしたら、それイヤだから飲酒運転なんかしない」なんていう、判断基準の狂った人間は少ないだろう。

もし、「懲役3年なら飲酒運転する、10年ならしない」なんていう異常な判断基準の人間がいたら(おそらく、いる)、彼の行動は、近代刑法の想定外だから、そもそも司法では止めようがないのだ。

 

法VS人間~刑法は犯罪を禁じていない~近代は自由意志・自己責任のネオリベ思想。 - 在日琉球人の王政復古日記 

 

飲酒運転するバカは、「自分も懲役3年になる」なんて、予想も、想像も、覚悟もしないで、飲酒運転するのだ。3年を10年にしても同じだ。

仮に、飲酒運転の刑罰を「打ち首獄門」に変更したところで、飲酒運転するバカはゼロにはならない。

飲酒運転するバカは「捕まるヤツはバカだ。俺は運転ミスしない。俺は人なんか轢かない。俺はバカじゃない」と信じ込んでいるバカなのである。

彼らは打ち首獄門の土壇場に座ってから「こんなことになるなら、酒を飲むんじゃなかった」と初めて後悔するのだ。

 

飲酒運転のバカは、「オレだけは糖尿病にならない。人工透析も受けない。だから人工透析する他人は実費負担で殺せ」と自信満々でブログに書くフリーアナウンサーと、思考回路は一緒なのである。

 

#長谷川豊 「悪を殺せばすべて解決」というマヌケな大間違い~健康保険と年金はわれわれ善人が食い潰す。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

しかし、それでも、酔っぱらいの人殺しへの罰が、懲役3年でいいのか?

もし、お前が轢き殺されても、お前の家族が轢き殺されても、懲役3年で納得か?満足か?

という反感もあるだろうが、それは、私だってイヤである。

私は、琉球人だから誤解されやすいが(笑)、憲法9条的博愛主義者では全然ないし、アムネスティ的な死刑廃止論者でも(一応)ない。

  

私だって、癒し難い、怨念や復讐心はある。あるあるあるある!大いにある(笑)。

 

しかし、理性に従うならば、近代というシステムをよくよく観察してみるならば、その怨念や復讐心を、刑事裁判で晴らそうというのは、そもそも無理がある、不可能である、としか言えない。

 

よくよく考えてみよ。「飲酒運転はダメ」という理屈と、「自分や家族を殺した奴は許せない」という感情は、そもそもまったく別々の話なのだ。

 

さらに、刑事裁判は「飲酒運転はダメ」なんてことを広報するためにやってる制度ではない。

だって、そもそも刑法や道路交通法やその他の法律の条文には「飲酒運転はダメ」なんて文章は書かれていない。

「飲酒運転をやったら、こういう罰則があるよ」と書かれているだけだ。

つまり「やるか?やらないか?の損得勘定は各自の自己責任でお願いします」という意味なのだ。

 

さらに厳密に言えば、刑事裁判は、飲酒運転はダメ!とは言ってないし、飲酒運転をやらかしたバカを裁いているわけ、ですら、ない。

刑事裁判が裁いている対象は、酔っ払い本人ではなく、実は検察なのである。

刑事裁判は、検察の起訴が、提出した証拠が、取り調べ内容が、正しいのかどうか?を、裁判官が裁いているのだ。

理念的には、刑事裁判とは「可能な限り、警察および検察による冤罪者を出さない」ための制度なのである。

ある意味、刑事裁判は、裁判官は、容疑者・被告の味方なのだ。

  

法VS人間~刑事裁判は、被告を裁いていない。検察を裁いている~近代VS反知性主義。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

刑事裁判は被告を裁いていない。刑事裁判の主人公は被告ではない。

となれば、恐ろしいことだが、残酷なことだが、非情なことだが、刑事裁判は、被告ですらワキ役なんだから、犯罪被害者やその遺族なんて、居場所すらない。

法廷に、裁判官の座る特別席はある。検察官の座る特別席はある。被告の座る特別席もある。弁護人の座る特別席もある。

しかし、刑事裁判に、犯罪被害者や遺族の座る特別席はない。

少なくとも特別には用意されてない。基本的には、事件に関係ないあかの他人である傍聴人と同じ扱いなのである。

 

なぜなら、刑事裁判は、犯罪被害者や遺族のためにやってるモノではないからだ。

刑事裁判は「可能な限り、警察および検察による冤罪者を出さない」ための制度であり、ある意味、容疑者・被告の味方なのだ。

つまりは、理屈の上では、刑事裁判は、裁判官は、犯罪被害者や遺族の怨念や復讐心をとことん妨害する、邪魔する、敵ですらある。

 

刑事裁判は、裁判官は、犯罪被害者や遺族の感情を無視する。

例えば被害者が天涯孤独で復讐を叫ぶ遺族が全くいなくても、被害者自身が「恨みはないよ。裁かないで欲しい」と言っても、 そんなこととは関係なく、警察は逮捕し、検察は起訴し、裁判官は裁く。

刑事裁判は、犯罪被害者や遺族とは原理的に無関係なのである。

 

刑事裁判は、犯罪被害者や遺族とは無関係なシステムであり、犯罪被害者や遺族の報復感情を満たす道具としては使い勝手が悪い、使えないのだ。

 

刺身包丁は刃物だが、木材を切って犬小屋を作る道具ではない。

犬小屋を作る刃物は、ノコギリである。

ノコギリは刃物だが、刺身の盛り合わせを作る道具ではない。

刺身を作る刃物は、刺身包丁である。

 

怨念や復讐心を満たしたい欲望が悪いのではない。

怨みを捨てろなんて言わない。

 

しかし、刑事裁判は、どこまでいっても、しょせん刑事裁判であって、怨念や復讐心を満たす道具としては、基本的に無理があるのだ。用途や目的がぜんぜん異なる「刃物」なのだ。

だから無理矢理に刑事裁判を使って切り刻むと、バラバラな犬小屋やグチャグチャな刺身にしかならない。満足のいく復讐にはならない。

 

刑事裁判怨念や復讐の道具には向かない。

じゃあ、怨念や復讐のための道具とは何か?そもそも存在するのか?

 

それは、また、次のブログで。