在日琉球人の王政復古日記

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#聖徳太子 #厩戸王 #鎖国 #日華事変 #日中戦争 #大和朝廷 #元寇 ~漢風諡号 東照大権現 国境の誕生 北条政権 六波羅幕府

変わる歴史用語、聖徳太子→厩戸王 学習指導要領案 :日本経済新聞

 2017/2/15
 「聖徳太子」は「厩戸王(うまやどのおう)」、「鎖国」は「幕府の対外政策」――。新学習指導要領案では、重要な歴史用語が最近の研究成果を反映して変更される。理科なども、自然災害の頻発や社会情勢の変化を踏まえた内容が盛り込まれた。
 社会科では歴史研究の進展に合わせ、小中学校で計7つの用語の表記を変える。「聖徳太子」は小学校で「聖徳太子厩戸王)」、中学校は「厩戸王聖徳太子)」に変更。小学校では人物に親しみ、中学校では史実を重視する観点から表記を入れ替えている。聖徳太子は死後につけられた称号で、近年の研究では厩戸王に当たる可能性が高いとされている。
 「鎖国」は「幕府の対外政策」に変更。外国との交流を断絶したわけではなく、実際には長崎や対馬など窓口を限定しつつもオランダや中国と貿易を続けたためだ。
 「大和朝廷」は、当時まだ「朝廷」の概念がなかったのではないかとの研究から「大和政権(大和朝廷」に変更。「日華事変」はより一般的に使われている「日中戦争」に表記を変えた。中学社会の「元寇(げんこう)」は、世界史の内容を充実する観点から、当時のモンゴル帝国をイメージできるよう「モンゴルの襲来(元寇」と変えた。

 

とは言いながら、この私だって、藤岡信勝さん同様、種類が違うだけで、イデオロギーに狂ったサルである(笑)。

古文書も読めない素人のくせに、プロの歴史学者の決定に対して、異論がないわけではない。

 

「1400年前の #厩戸王 #聖徳太子 」VS「39光年先の生命存在可能性がある7惑星」~子供を歴史から解放して理科を教えよう。 - 在日琉球人の王政復古日記

の続き。

 

歴史学の用語は、

可能な限り「当時の名称」を採用すべきなのか? 

一般にポピュラーな「通り名」を採用すべきなのか?

歴史学者が学問的に作り上げた「業界用語」を採用すべきなのか?

なかなかに難しい。

 

まず「当時の名称」で統一することは不可能だ。

なぜなら、当時の人間が、自分たちを動かしている当時の社会システムを認識していなければ、名称すら生まれないからである。

 

たとえば、平安時代の人間は、「王家」なんていう言葉を使っていない。かといって「別の名称」があったわけでもない。当時は、上皇天皇と皇子たちと彼らの妃たちと皇女たち「天皇の血縁・姻戚のファミリー」をまとめて呼ぶ言葉自体を持っていなかったのである。

つまり、平安時代の人間は、彼らを「一つのグループ」だとは認識していなかった。平安時代の人間はそれで問題ないかもしれないが、歴史学は「そういうグループはない」では済まない。そこで天皇の血筋のファミリー」を指す名称として「王家」を新しく採用したわけだ。

たとえば「幕藩体制」も同じで、江戸時代の人間はそんな言葉は使ってない。当時の人も「幕府と藩による複合的統治体制」の存在はなんとなく認識していたかもしれないが、適切に表現する名称はなかった。だから歴史学が、後から幕藩体制」と命名したのである。

そもそも、当時は、幕府を「幕府」とは呼んでいないし、藩も「藩」とは呼んでいなかったのだ。どっちも近代の言葉なのである。

 

六代目山口組分裂~天皇家VS王家~山口組VS清水次郎長一家~仙台藩VS陸奥少将御家中。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

聖徳太子」は「厩戸王(うまやどのおう)」、

 

聖徳太子は彼が生きていた当時の名称ではないから使用しない、というのは、確かに一つの考え方だが、それを採用したら、歴代天皇の名称もほとんど使えない。

「XX天皇」という漢風諡号はほとんど後世の命名であり、神武天皇が「オレ、神武」なんて名乗ったことはない。

特に、平安時代中期から江戸時代末期まで、つまり日本の歴史の半分以上の時間において、天皇を「天皇」とは命名していない。当時は、存命中は「帝」「お上」「内裏」、死ねば「XX院」と呼んでいた。

全ての天皇に「XX天皇」という名前を統一的に付けたのは、なんと明治時代になってからだ。

 

「上皇、前天皇、皇太子、テンノウ」は廃止!~「みかど(天皇)、ゐん(院)、ひつぎ(皇嗣)」でいこう! - 在日琉球人の王政復古日記

 

かといって、いくらポピュラーだからといって、歴史教育で「聖徳太子」はいいのか? といえば、また難しい。

聖徳太子は後世の美称・美名・神格化だが、徳川家康も後世に「東照大権現」と美称・美名・神格化された。

じゃあ歴史教科書に

「幼少の頃の東照大権現は、戦国大名今川氏の人質になった」とか

関ヶ原の戦いで、東照大権現の東軍は、石田三成の西軍を破った」とか

書いていいのか?という話になる。

そもそも日本史に登場する人物のほとんどは、1人で何回も改名してる。

名前もない百姓のガキが、木下藤吉郎になり、羽柴秀吉になり、豊臣秀吉になる。彼をまとめてどう呼ぶべきなのか?なかなかに難しい。 

 

鎖国」は「幕府の対外政策

 

この変更には反対だ。

江戸時代は「鎖国」していない。幕府は長崎で清およびオランダ、対馬藩は朝鮮、薩摩藩琉球松前藩アイヌ、江戸時代は4つの交易ルートで「開国」していた。

理屈はそうかもしれないが、江戸時代の「開国」は、それ以前の時代とも、それ以後の現在とも、やはり異なると思う。

まず、江戸時代は、日本人(江戸人)が出国することも、異邦人が入国することも、原則禁止だったし、勝手に商売もできなかった。

それ以後の近代は、出国もできたし、入国もできた。

さらに重要なのは、江戸時代以前の時代とも異なることだ。

室町幕府鎌倉幕府も平家も朝廷も「鎖国」はしていない。しかし「開国」もしていない。江戸幕府以前は、鎖国も、開国も、しなかったのではなく、できなかった、やるだけの統治能力が無かったのだ。

たとえば、九州の武家や商人が勝手に唐、宋、明と商売したとしても、朝鮮人が勝手に日本列島に住み着いたとしても、そりゃ、その地域でのイザコザはあっただろうが、中央の室町幕府鎌倉幕府や京都朝廷に、その密貿易や移民を把握したり、管理したり、制限したり、禁止したりする統治能力がなかった。

つまり、平安、鎌倉、室町時代には、実質的な「全国政権」も「国境」もなかった。江戸時代になって、やっと実質的な全国政権が誕生し、史上初めて「国境」を管理することが可能になったわけだ。

 

だから江戸時代は、「鎖国」というより、「国境の誕生」というべきなのだろう。

 

大和朝廷」は、当時まだ「朝廷」の概念がなかったのではないかとの研究から「大和政権(大和朝廷」に変更。

 

これは、ある程度、賛成である。

というか、思い切って「幕府」もやめたらどうだろう?

 

北条氏も足利氏も徳川氏も「幕府」なんていう言葉は使っていない。当時の人もそう呼んではいない。

天皇の権力機構が「朝廷」ではなく「政権」ならば、武家の権力機構も「幕府」でなく「鎌倉政権」「室町政権」「江戸政権」または「北条政権」「足利政権」「徳川政権」でいいではないか?

平清盛の権力機構に正式名称がなく、源頼朝権力機構が「鎌倉幕府」というのは、バランスが悪すぎる。

どっちも「平家政権」「鎌倉政権」に統一するか、逆に「鎌倉幕府」を残す代わりに、平清盛の権力機構も所在地にちなんで「六波羅幕府」「福原幕府」と呼ぶべきだろう。

 

100年も半独立政権だった奥州藤原氏も同じで「平泉幕府」と呼んでもおかしくない。

いかに期間が短くとも、武士による史上初の独立権力・平将門だって「岩井幕府」「坂東幕府」、いや「新皇」を自称した王権なんだから「平氏王権」「坂東朝廷」と呼ぶべきかもしれない。

 

日華事変」はより一般的に使われている「日中戦争」に表記を変えた。

 

これは絶対反対。

というか、聖徳太子厩戸王に変えたのと、理屈が全くサカサマである。

聖徳太子が後世の命名だからダメなら、日中戦争だって後世の命名だからダメだろう。

整合性が全く取れていない。

 

もともと私は、中国は中国と呼ぶが、支那支那と呼ぶ。

なんじゃいうての、日本語の中国は、四国とワンセットになった関西と九州の間にある地域のことじゃけん。大陸の支那と一緒にしたらイケンじゃないの。のう、山守のおやっさん(笑)。

 

日中戦争は、戦後臭い、左翼臭い命名である。

それ以上に、彼らに思ってるのとは逆方向に、歴史に歪めてしまう。中国と呼んだ方が支那へのヨイショになる、戦争と呼んだ方が日本の犯罪性は明確になる、と思っているのだろうが、逆だ。

支那事変という名称は、正式な戦争ではない「事変」だからこそ、当時の日本の長期戦略の無さ、不誠実さ、どうしようもなさ、を明確にするのだ。

戦争とは、自国の軍隊を相手国に送り込むこと「だけ」ではなく、相手国の軍隊が自国を焼け野原にする、そして占領することも意味する、という当たり前を知るのはその数年後である。

戦争を戦争と呼べなかったからこそ、そういう現状認識だったからこそ、挙句の果てに、真珠湾に突っ込んでしまったのだ。

支那皇軍のやってる行動は、《事変》であって、《戦争》ではない」は、

南スーダンで起こってることは、《武力衝突》であって、《戦闘行為》ではない」という、どこかの時代のどこかの政権と、ほとんど変わりはないのである。

言葉を変えれば現実も変わると思ってるマヌケさ、戦争してるつもりはなかったというマヌケさ、を表現する意味でも、事変の方が相応しいのだ。

 

中学社会の「元寇(げんこう)」は、世界史の内容を充実する観点から、当時のモンゴル帝国をイメージできるよう「モンゴルの襲来(元寇

 

たしかに、

鎌倉幕府(北条政権)は、ヨーロッパの神聖ローマ帝国や、当時世界一の文明国・アッバース朝と同じ立場だったのだ、

あの戦いは、極東の島国の博多湾だけで起こったことではなく、当時のロシアやポーランドイスラム世界のバクダッドにまで広がる、ワールドワイドな世界史の一部しての現象なのだ、

という歴史認識を持つためにも、漢字の「元」より、カタカナの「モンゴル」の方がイイという意見はわかる。

 

元寇は、高麗が主体であり、つまり朝鮮人による侵略行為だ、なんていう、日中戦争と同じくらい歴史感覚の欠如した、どうしようもない人たちの意見よりは、はるかにマシである。

ただし、支那文明圏の住人としては、元寇や蒙古襲来という漢字の持つ味わいも捨てがたい感情はある。ただし歴史学としては、モンゴル帝国に軍配を上げるべきだろう。

 

「あの惑星には生命がいてほしい、だから水があるはずだ」なんていう天文学は近代には存在しないが、

「我が国は正しい!だからあの戦争は聖戦だ、または侵略だ」なんていう、科学からは39光年以上離れた「思い込み」や「好き嫌い」が、歴史学には混入しやすい。

だからこそ、歴史教科書から殺し合いの記述が無くならないわけでもある。