在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

極私的偏見御免 #ベルセルク はシールケに敗北した~永井豪・デビルマン、山口貴由・覚悟のススメ、松田優作・探偵物語。

※ご注意※ 純粋な「ベルセルク」ファンは見て見ぬ振りをお願いしたい。

 

私にとっての「ベルセルク」は、途中で終わってしまった。

途中で読むのを止めたので、どんな結末なのかは知らない。

 

もちろん、漫画はあくまでも「商品」であって、芸術品では無いのだから、商売になる萌えキャラをじゃんじゃん追加して、延々と話を伸ばすのは、資本の論理からいて、(特に日本の連載漫画は)当然の選択ではあるが、個人的には、返す返すも残念であった。

 

ベルセルク」は素晴らしい漫画であった。

シールケとかいう魔法使い少女が出てくるまでは。

 

彼女の登場が、絶望と恐怖と孤独を排除し、全てを「甘く」した。

そこで私は脱落した。申し訳ない。

 

それまで物語を支配していたのは、圧倒的なまでの「絶望」であった。

 

敵である使徒の力量は人知人力をはるかに超え、こんなもんに人間が勝てるわけがないだろう、という絶望的な展開の中、あくまで人間の筋肉で戦い続ける(傷付き続ける)ガッツの明日無き姿が感動的であった。

彼の武器は物理的なものだけであり、ファンタジー全般に出て来る「魔法」という「楽ちんお便利ツール」が無いところが、彼の絶望的な道行をさらに魅力的にしていた。

 

ガッツが孤独なのも良かった。

過去において仲間を生贄にされ、仲間を失ったことが彼の復讐の始まりだ。

さらに生贄の烙印を刻まれた彼には、魔物が引き寄せられる。よって、彼と共にいる普通の人間は死を免れない。

仲間を作る事を許されない。

 

もちろんシールケ登場以前、物語の初めから、髑髏の騎士という、ある意味「楽ちんお便利ツール」がいる。ガッツに味方する魔法が一切ないわけではない。

しかし、ガッツの筋肉だけで、グリフィス達ゴッドハンドに勝てるはずがないわけで、話のクライマックスのどこかで、ガッツにも人間の力を超えた「切り札」が必要になる。それが髑髏の騎士というわけだろう。

しかも、髑髏の騎士はガッツの仲間ではない。ガッツの孤独を癒さない。

 

それでも全くの孤独だと、エンタメ的にまずい。会話する相手がいないと、話が転がらない。

ホームズにワトソンが付くように、パックというコメディリリーフを付けている。暗黒一色の物語の中、パックが一服の清涼剤として良いアクセントになっていた。

しかし清涼剤はパックだけで十分だった。これ以上清涼剤が増えては、物語が明るくなり過ぎる。

 

それがシールケの登場で、全てオジャンである。

 

彼女の登場によって、物語における絶望と恐怖と孤独が急速に無くなる。

どんなに屈強で醜悪で陰惨で怪奇な魔物が出てこようが、シールケは全然恐怖しない。彼女が恐怖しないから、読者も恐怖を感じない。

 

ガッツからも絶望が消える。

だって魔法があれば、使徒だろうが魔物だろうが、互角の相手でしかない。

「楽ちんお便利ツール」によって、人間の力ではどうしようもない、つまりはガッツの運命の象徴であったはずの生贄の烙印も効力を封じることができる。

 

髑髏の騎士はガッツと一緒に旅をしない。付かず離れず、圧倒的危機の時だけやってきて、しかし全てを解決せずに、謎を残して立ち去る。

しかし、シールケは一緒に旅をする。常にガッツの仲間であり友人であり味方だ。ガッツの絶望も恐怖も孤独も簡単に癒してしまう。

そして、絶望も恐怖も孤独もなくなったガッツには、なんだか知らない内に、仲間が雪だるまのように増えていく。1人や2人ではない。いったい何人いるのやら。

絶望と恐怖しかない孤独な地獄旅のはずが、いつの間にか、楽しい仲間たちとの団体冒険ツアーである。

シールケ登場以降、ガッツの同行者たちは、どれだけ危険な目に会っても、誰も殺されないし死なない。

魁!男塾」の雷電じゃあるまいに、どいつもこいつも「戦いの実況アナウンサーと観客」である。目の前でアトラクションが展開されるだけの、なんと安全な修学旅行であることよ。

 

シールケ以降、しばらくして挫折したから、その後の展開は知らない。

ひょっとして、シールケをはじめとする仲間たちがばんばん惨殺されるような展開だったのなら、私に作品を見る目が無かったことになる。

 

松田優作のテレビドラマ「探偵物語」の最終回を思い出す。

街の仲間たちと和気あいあいの毎日を過ごしていた、おちゃらけ探偵が、自分の仕事のせいで仲間を惨殺される。その死体を前にしてゲロを吐きながら独白する。

「昔、女がいて、その女が殺されて、、、昔、仲間がいて、その仲間も殺されて、、、もう二度と仲間は持つまい、仲間を作るまい、そう思っていたのに、、、」と号泣する。

その後の松田優作は、笑い無しの復讐鬼と化して孤独な死出の旅路に出る。

 

ガッツも過去に仲間を持ち、その仲間を殺されて、二度と仲間は持つまい、いや魔物に追い回される自分に仲間を作れるわけがない、と孤独な旅を続けた。物語の法則において、ガッツの仲間は殺されなければならないのだ。

それがシールケのお陰でだいなしである。

 

ラブクラフトの「クトゥルフ神話」の面白さは、旧支配者の力量が圧倒的で、人間にはマトモな対抗手段がないことにある。

旧支配者が本気になれば人類は一瞬で滅亡する。たまたま本気になっていないから、人間はかりそめの繁栄を続けられているだけで、われわれの繁栄なんてはかない夢のようなものだ、という絶望感が魅力だ。

もし人間が、魔法の杖からクトゥルフを倒せるビーム光線を発射できるような展開になったら、神話もおしまいだ。

 

永井豪デビルマン」だって、人間にデーモンを倒す魔法が無いから面白かったのである。

もし「ベルセルク」も、シールケ無しで、終われば、平成の「デビルマン」と称される大傑作になっていたかも知れない、と思うと、やはり残念である。

 

ベルセルク」と「デビルマン」は構造が似ている。

と言ってもこれは悪口ではない。当たり前だ。

人間が紡いできた漫画、小説、物語、神話は、すべて同じ構造を持つ。

 

同じような構造を持つ漫画として、山口貴由覚悟のススメ」も挙げとこう。

 

 「ベルセルク」 「デビルマン」 「覚悟のススメ
 ガッツ_____不動明_____葉隠覚悟
 グリフィス___飛鳥了_____葉隠
 キャスカ____牧村美樹____掘江罪子 

 

男臭い主人公には、女性の恋人がいる。

が、実は、カリスマ性のある敵役との間にも、ホモセクシャルな愛憎がある。

被虐的人体破壊、マゾヒズム(サディズム)の要素も共通する。 

この三角関係だけで物語を展開することが重要なのだ。他のキャラクターが混じると、構造が壊れる。

 

時代遅れの戯言、ご容赦いただきたい。 最期に故人のご冥福をお祈りする。

 

漫画家 三浦建太郎さん死去 54歳 「ベルセルク」などの作品 | おくやみ | NHKニュース

2021年5月20日
30年以上にわたって漫画雑誌に連載され、テレビアニメや映画にもなった「ベルセルク」などの作品で知られる漫画家の三浦建太郎さんが、今月6日、急性大動脈解離のため亡くなりました。54歳でした。
(略)