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在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

《アナキズム映画列伝》「シティ・オブ・ゴッド」~自由と平等だけの「眠れない」世界(その1)

21.映画 17.アメリカ

フランス革命のスローガン、

自由(リベルテ)・平等(エガリテ)・博愛(フラテルニテ)。

 

「自由」については数多くの議論がある。
「平等」についても数多くの議論がある。
しかし「博愛」については、いつも後回しになりがちだ。

 

 ブラジル、殺人、治安、といえば、この映画ですな。

 

映画 City of God Trailer (シティオブゴッド予告編) - YouTube

 

 

ブラジル警察、1日平均6人「殺害」 NGOが調査結果:朝日新聞デジタル

NGO「ブラジル治安フォーラム」によると、警官が5年間に相手を死亡させた件数は、11州だけで1万1197件。米国で起きた死亡件数は、30年間で1万1090件だったとしており、ブラジルでの多さが際だっているという。

 

ブラジル映画「シティ・オブ・ゴッド」。

ブラジル貧民街の犯罪少年たちの生と死を描いた、何ともいえないリアリズムとバイオレンスにあふれた映画。

 

この日記を読んでいただいてる方はご存知のとおり、私は「政治」好きだし、映画だって「政治映画」が大好物の変態だ。

しかしこの映画は「政治映画」ではない。

あえて言えば「非・政治」映画、「無・政治」映画である。

シティ・オブ・ゴッド」には政治がない。政治が欠如した世界を描いている。

 

この映画には「犯罪少年」は出てきても「犯罪組織」は出てこない。 

いや確かに、少年達は形式的には「徒党」を組んで抗争をやってるが、彼らの集団は、例えばアメリカ映画「ゴッド・ファーザー」におけるコルレオーネ・ファミリーや、東映映画「仁義なき戦い」の山守組のような、確固たる組織ではない。

彼ら少年たちの「群れ」は、その瞬間に、どっちが強いか?弱いか?、どっちが殺せるか?殺せないか?、どっちが拳銃を持ってるか?持ってないか?、それだけで(その瞬間だけの)上下関係が決まる群れである。

サルの群れでも組織内の安全保障上のルールやマナーが存在するが、彼らブラジル少年たちの群れは、下手したら「サル以下」なのだ。

 

例えば、マフィアのボスと、八百屋の売り子は、どっちが強いか?

映画「ゴッド・ファーザー」の世界なら、マフィアのボスのほうが圧倒的に強い。
未来を予測する想像力を働かせれば、相手に忠誠を誓ってる連中の戦闘力を考えれば、八百屋の売り子がマフィアのボスに逆らうことなどありえない。

しかし「シティ・オブ・ゴッド」世界の倫理なら、その瞬間、果物ナイフを持ってる売り子の方が、素手のボスより強いのだ。そして本当に殺してしまうのである。 
マフィアのボスだろうがただのヒト。刺せば死ぬ。殺せば、少なくともその瞬間は八百屋の勝ちだ。

その後のマフィア仲間の報復なんて予測もしないし、そんな予測でその場その場の自分の欲望を抑制しない、もはや利害計算という理性を前提とした人間という生物ではない。

 

人間関係なり、未来予測なり、暗黙の了解なり、そういうものが一切無い世界。つまり「政治」が欠如した世界。

シティ・オブ・ゴッド」は、トマス・ホッブズの名著「リヴァイアサン」にある「自然状態」を描いている。

 

自然状態において、全ての人間は「自由」にして「平等」だ。

人間は「自由」だ。欲望に制限などない。欲しければ奪えばいい。彼のモノが私のモノでない理由などどこにも無い。何をやろうが自由である。

人間は「平等」だ。たとえ空手の黒帯だろうが、銃で武装してようが、人間はいつか眠らなくてはならない。眠っている間なら小学生にでも殺す事が出来る。

マフィアのボスだろうが、八百屋の売り子だろうが、ボクサーだろうが、女子高生だろうが、アメリカ海兵隊員だろうが、ヨボヨボの老婆だろうが、すべての人間は眠らなければならない、寝ている間は圧倒的に戦闘力が低下し無防備になる、という「生物としての限界」を持つ。時間無制限ならば個人個人の実力差なんかほとんどゼロだ。人間の1対1の戦闘力は平等なのである。

 

いつ何時、誰が、自分を殺しに来るか判らない。眠れない。防御方法はただ一つ。殺される前に殺せ。

「万人の万人に対する闘争」「万人は万人に対して狼」の世界である。

「自由」と「平等」だけの世界、「自由」と「平等」しかない世界とは、このような六道輪廻の修羅世界と化す。

 

《アナキスト/アナキズム映画列伝》「エリート・スクワッド」~自由と平等だけの「眠れない」世界(その2) - 在日琉球人の王政復古日記

に続く。