在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

《アナキズム映画列伝》「シティ・オブ・ゴッド」(2002年)~自由と平等だけの「眠れない」リバタリアンの世界。

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フランス革命のスローガン、自由(リベルテ)・平等(エガリテ)・博愛(フラテルニテ)。

 

「自由」については数多くの議論がある。
「平等」についても数多くの議論がある。
しかし「博愛」については、いつも後回しになりがちだ。

 

ブラジル警察、1日平均6人「殺害」 NGOが調査結果:朝日新聞デジタル

2014年11月13日
NGO「ブラジル治安フォーラム」によると、警官が5年間に相手を死亡させた件数は、11州だけで1万1197件。米国で起きた死亡件数は、30年間で1万1090件だったとしており、ブラジルでの多さが際だっているという。

 

 ブラジル、殺人、治安、といえば、この映画ですな。

 


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映画CITY OF GOD TRAILER (シティオブゴッド予告編)

 

ブラジル映画シティ・オブ・ゴッド」(2002年)。

ブラジル貧民街の犯罪少年たちの生と死を描いた、何ともいえないリアリズムとバイオレンスにあふれた映画。

 

この日記を読んでいただいてる方はご存知のとおり、私は「政治」好きだし、映画だって「政治映画」が大好物の変態だ。

しかしこの映画は「政治映画」ではない。

あえて言えば「非・政治」映画、「無・政治」映画である。

シティ・オブ・ゴッド」には政治がない。政治が欠如した世界を描いている。

 

この映画には「犯罪少年」は出てきても「犯罪組織」は出てこない。 

いや確かに、少年達は形式的には「徒党」を組んで抗争をやってるが、彼らの集団は、例えばアメリカ映画「ゴッド・ファーザー」におけるコルレオーネ・ファミリーや、東映映画「仁義なき戦い」の山守組のような、確固たる組織ではない。

彼ら少年たちの「群れ」は、その瞬間に、どっちが強いか?弱いか?、どっちが殺せるか?殺せないか?、どっちが拳銃を持ってるか?持ってないか?、それだけで(その瞬間だけの)上下関係が決まる群れである。

サルの群れでも組織内の安全保障上のルールやマナーが存在するが、彼らブラジル少年たちの群れは、下手したら「サル以下」だ。

孔子が尊ぶ「仁」も「義」も「礼」も「孝」も欠如した世界。

 

例えば、マフィアのボスと、八百屋の売り子は、どっちが強いか?

映画「ゴッド・ファーザー」の世界なら、マフィアのボスのほうが圧倒的に強い。
未来を予測する想像力を働かせれば、相手に忠誠を誓ってる連中の戦闘力を考えれば、八百屋の売り子がマフィアのボスに逆らうことなどありえない。

しかし「シティ・オブ・ゴッド」世界の倫理なら、その瞬間、果物ナイフを持ってる売り子の方が、素手のボスより強いのだ。そして本当に殺してしまうのである。 
マフィアのボスだろうがただのヒト。刺せば死ぬ。殺せば、少なくともその瞬間は八百屋の勝ちだ。

その後のマフィア仲間の報復なんて予測もしないし、そんな予測でその場その場の自分の欲望を抑制しない、もはや利害計算という理性を前提とした人間という生物ではない。

 

人間関係も、未来予測も、暗黙の了解も、ルールも、マナーも、慈悲も、共感も、そういうものが一切無い世界。つまり「政治」が欠如した世界。

映画「シティ・オブ・ゴッド」は、トマス・ホッブズ著「リヴァイアサン」にある自然状態「万人の万人に対する闘争」を描いている。

 

自然状態において、全ての人間は「自由」にして「平等」だ。

全ての人間は「自由」だ。

欲望に制限などない。欲しければ奪えばいい。彼のモノが私のモノでない理由などどこにも無い。何をやろうが自由である。

全ての人間は「平等」だ。

たとえ空手の黒帯だろうが、銃で武装してようが、眠っている人間なら小学生にでも殺す事が出来る。

 

マフィアのボスだろうが、八百屋の売り子だろうが、ボクサーだろうが、女子高生だろうが、アメリ海兵隊員だろうが、ヨボヨボの老婆だろうが、すべての人間は眠らなければならない。

万人は寝ている間は圧倒的に戦闘力が低下し無防備になる、という「生物としての限界」を持つ。

時間無制限ならば個人個人の実力差なんかほとんどゼロだ。人間の1対1の戦闘力は平等なのである。

 

いつ何時、誰が、自分を殺しに来るか判らない。眠れない。防御方法はただ一つ。殺される前に殺せ。

「万人の万人に対する闘争」「万人は万人に対して狼」の世界である。

「自由」と「平等」だけの世界、「自由」と「平等」しかないリバタリアニズムの世界とは、このような六道輪廻の修羅世界と化す。

 

人間が眠るためには、自分が眠ってる間、別の人間に守ってもらうしかない。

当然、その別の人間も眠るわけで、彼も守ってもらわないと眠れない。

両者には、お互いにお互いを殺さない、何らかの信頼関係が絶対必要になる。

その信頼関係こそが 、フランス革命のスローガン「自由・平等・フラタニティ」の一つ「フラタニティ」であり、これが「政治の起源」である。

人間が眠るためには=生きていくためには、「フラタニティ」が決定的に重要となるのだ。

 

近年、フラタニティを日本語で「広く愛する=無差別の愛=博愛」としたのは誤訳であると言われている。

フラタニティ」は英語の「ブラザー」と同じ語源である。よって「兄弟、仲間同士の愛」である。敵は愛に含まれない。よって「友愛」と訳したほうが良いだろうということになっている。

「友愛」だろうが、「同胞愛」「兄弟」「団結」「互助」「血盟」だろうが、イロイロ訳せるだろうが、何であろうとフラタニティは「集団」を意味する。

 

「万人の万人に対する闘争」「万人は万人に対して狼」の世界から抜け出すには、普通に眠るためには、人間は集団を組織するしかない。

 

「オマエが眠ってる間はオレが守る。オレが眠ってる間の命はオマエに預ける」

 

夫婦、親子、兄弟、家族、一族、村落、友人、宗派、軍隊、国家、なんと呼んでもいいけれど、この相互安全保障の基盤となるのが、集団内部の人間と人間との関係であり、相互の信頼関係の構築であり、相互の友好儀礼であり、ルールであり、マナーだ。

それこそが、支那孔子ならば「礼」と呼び、韓非子なら「法」と呼んだモノだ。

世俗からの解脱を願った釈迦の出家集団にすら、集団である限り「戒」があった。

サルの集団すら関係を再確認する「毛づくろい」や「マウンティング」がある。

逆に、「礼」「法」「戒」「毛づくろい」という「フィクション」が信用できない人間やサルの社会は、治安維持が不可能になる。眠れなくなる。

 

ブラジル地元の日系新聞「サンパウロ新聞」。

殺人は10分に1件の割合 「ブラジル治安年報」発表

また、ブラジルで法律の順守が尊重されていないことを裏付けるデータとして、ジェツリオ・バルガス財団(FGV)によるアンケート調査で国民の81%が「法律に背くことは容易だ」と回答していた事例も紹介されている。さらにこの調査では、同じく81%の国民が「ブラジル人は可能であればいつでも法の抜け穴を利用している」と答えたという。さらに、ブラジルでの法による裁きに対して32%、警察に対しては33%の国民しか信頼を寄せていないことも示された。これらの調査は全国8州の7100人を対象に13年4月から今年3月にかけて行われた。

 

自由に殺し合わない為の、平等に全滅しない為の、お互いにお互いを縛り上げる【鎖】、つまりそれが「政治」なのだ。

 

私のいう「政治」とはこういう話である。総選挙がどうした、消費税がどうした、原発がどうした、韓国がどうした、という「高尚」な話題は、そのはるか先にある。

 

人間が「自由」であり「平等」である限り、必ず「政治」が必要になる。
「政治」を無くすには、「自由」と「平等」を放棄するしかない。

そうしなければ、お互いに殺される恐怖で人間が誰一人眠ることができない「シティ・オブ・ゴッド」の世界になる。

 

先日の日記に、 

法VS人間~《決闘》は「暴力」ではない~ボンクラ小僧どもの「国家反逆クーデタ」。 - 在日琉球人の王政復古日記

オレとオマエは対等な人格だ。しかも国家権力は必要ない。
これは自由至上の世界、リバタリアンの世界である。

なぜ、喧嘩・決闘などの暴力行為に、人間は魅せられるのか?
それは、人間がそこにリバタリアン的なアナーキーユートピアを見るからではないかと思う。

 

こう書いたが、今回の話は、これのちょうど逆方向からみた話になる。

自由で平等で、権力の無い世界で、果たして人間は眠れるのだろうか?

 

じゃあ政治があれば万々歳か?、集団になればぐっすり眠れるのか?、といえば、そうもいかない。

1対1の殺し合いが、政治のせいで、集団のせいで、多数対多数の殺し合いになる。

「オマエの命はオレが守る」という兄弟仁義は、敵の大量殺戮の引き金になる。

 

人間が人間を殺さない状態=治安を維持するための暴力装置・警察が、お互いにお互いを守る、仲間内の血の絆、血盟の友情によって、兄弟仁義によって、外部に対して猛烈な殺戮マシーンに化していく。

人間という生物は、とことん呪われた存在ではある。