朝日新聞や毎日新聞は、左翼に偏向している、とよく問題視される。
まあ、それが好きで読んでる人もいるので(笑)、一概に欠点ではないのだろうが。
じゃあ、産経新聞は、その反対に、右翼に偏向してるのが問題なのか?
実は、産経新聞の最大の問題は、右傾化ではない。
オカルトや非科学的主張に対して、かなりハードルが低いのが、産経新聞のおそらく最大の問題点なのである。
もちろん、朝日や毎日も、その政治的趣向のために、科学を曲げることは無いでは無い。
たとえば、原発問題で、かなり無理スジでも、反原発系の主張を取り上げやすい傾向にある。
しかし産経は、その頻度が群を抜いている。
おそらく文化保守のつもりなんだろうが、歴史や伝統や美化したいがために、非学問的なトンデモ説を採用することが多い。
たとえば、日本の大手新聞で、ダーウィン進化論の否定であり、キリスト教原理主義のオカルト思想である「インテリジェントデザイン」を、まるで科学であるかのように肯定的に取り上げたのは産経くらいだろう。
そういう意味では、聖教新聞に近い部分がある。
下記の記事も、かなりアブナイと思う。
全部が全部おかしいとは言わない。妥当な指摘もあるが、怪しい部分もある。
記者さんは、この記事を書く前に、ちゃんとした言語学者に取材したとはとても思えない。
【ことばの注意報】感情表現は「キモい」「ウザい」「ヤバい」3ワードのみ 子供たちのボキャ貧が深刻化 大学生も…(1/4ページ) - 産経ニュース
自身の気持ちを表現するのは「キモい」「ウザい」「ヤバい」だけ。比喩が理解できず、慣用表現を使いこなせない…。スマートフォンの普及により、毎日多くの情報に接し、SNSを日常的なコミュニケーションに使う子供や若者の日本語に異変が起きているようだ。(戸谷真美)
いきなり要件から
今春、都内の有名私大を卒業した女性(22)は昨年、所属する音楽サークルの後輩から受け取った一斉メールを見て驚いた。
「恒例のライブやります。来てください」…。続けて日時や場所が書いてあったが、OB、OGを含めた案内メールなのにあいさつ文もなければ、「OBの皆さま」といったあて先もない。「いくらサークル仲間といっても、目上の人に出すのに、いきなり要件から入るなんて。先輩には『しっかり教育しないからだ』と叱られました」
女性はいわゆる「ゆとり世代」だが、2、3年下の世代とは隔絶を感じるという。「敬語以前に、相手や状況に応じて言葉遣いを変えることができない子が多いように思います」
主語がない
中学受験専門の学習塾「スタジオキャンパス」(東京都港区)代表で、国語を長年教えてきた矢野耕平さんは「ここ4、5年は特に、他者への敬意や心遣いを感じない言葉遣いをする子が増えた」と指摘する。
例えば生徒とこんな会話をするのはしょっちゅうだ。
生徒「先生! 聞いてください。ひどいんですよ」
矢野さん「何があったの?」
生徒「ひどいんですよ。マジキモかった!」
辛抱強く尋ねなければ、「誰に」「何をされたか」一向にわからない。事情を知らない聞き手におかまいなく、自身の感情を訴えるだけの会話だ。「少し前まで、先生との間には一線を引く生徒がほとんどだった。でも今は仲間内とパブリック(外部)の線引きがない。自分だけで完結する言葉を使う子が明らかに増えました」
LINEが影響?
自分と、周囲のごく狭い内輪の視点でしか言葉を使えず、それ以外の人に配慮する言葉が選べない子供や若者が増えている原因の一つに、矢野さんはコミュニケーションアプリ「LINE(ライン)」に代表されるSNSの影響を挙げる。
「ラインは基本的に仲間内の会話で、短文。スタンプを使えば、言葉にせずに心情を表現できる。そうしたコミュニケーションが当たり前だと思ってしまっているのではないか」
また、都会のタワーマンションなどで暮らし、学校や塾などと家庭の往復で毎日を過ごす子供たちは、親以外の大人や高齢者、また生活レベルの異なる人たちと触れ合う機会が少ない。つまり、リアルでも限られた人としか接しないため、「仲間内」以外の人に配慮する機会のないまま、成長することになる。
気持ちを表す言葉が使えない子供も多い。例えば、『びびる』という心情表現は、『驚く』『すくみ上がる』『萎縮する』『恐れる』など、他の言葉でさまざまに言い換えられる。だがそれをすべて『びびる』で済ませてしまう子が多いという。
「煩わしい」「不快」「つらい」「げんなりする」などはすべて「キモい」で済ませ、「すごい」「面白い」「すてき」「感動した」は大抵「ヤバい」で片付ける。矢野さんは「自分の心情を把握するには言葉が必要。心情表現ができなければ、自分の心情を正しく認識できず、他人にも伝えられない」と指摘する。
日記をつけよう
若い世代の言葉遣いに、大人が眉をひそめるのは今に始まったことではない。言葉にはある程度時代とともに移り変わってゆく面もある。
だが、矢野さんは「ラインでのやり取りに代表されるように、相手の心に踏み込まず、本音で交わす会話が少ない。本音を出せる環境の少なさは子供にとっても不幸だ」と指摘する。4月に出版した『LINEで子どもがバカになる』(講談社+α新書)では、「比喩が理解できない」「季節感がわからない」といった例を挙げながら、子供たちの日本語運用能力、さらには取り巻く環境にも警鐘を鳴らした。
他者の視点や立場に配慮し、正しい言葉を使えるようになるために、また読解力を伸ばすために、矢野さは小学5、6年の子供たちに「ことばしらべ」という課題を出している。例文のなかから、少し難しい言葉を抜き出し、辞書でその意味を調べて書き出した上で、その言葉を使った文を作らせるものだ。語彙が増えると同時に、最初は多少おかしい文を作る子供も、添削を繰り返すことで徐々に誰が読んでも意味のわかる文を作れるようになる。
もう一つは日記をつけること。それも「楽しかった」「悔しかった」だけではなく、1日の出来事を、丁寧に文章にすることを勧める。「スマートフォンで打つのではなく、紙に書き付けることです。続けるうちにオリジナリティーのある表現が身につく」。親も子供に迎合せず、なるべくたくさんの言葉で子供に接することが大切だという。
基本的主張は、あいも変わらず「昔は良かった。今はダメだ」である。
いつまで同じことを書けば気が済むのか? いい加減、飽きたりしないのか(笑)?
しかも、「昔は良かった。今はダメだ」と主張する人に限って、ちゃんと学問的に昔を調べずに、自分の記憶やイメージだけで書くのである。
新しいテクノロジーの登場によって、それまでの生活様式に変化が生じる。
そんなことは当たり前の話である。
たとえば、貴方や私が、現在の日本人および琉球人、だけでなく、韓国人も支那人も通常生活で書いている文章の、ほとんどが、今読んでいただいているのと同じ「横書き」である。
もともと、日本語、琉球語、朝鮮語、支那語は「縦書き」がスタンダードのはずだ。それが、欧米生まれのコンピュータ文化の影響で「横書き」が主流になってしまっている。
本来「縦書き」のはずの言語を「横書き」にしていることは、それぞれの言語に、重大な変化をもたらしているはずである。
「新しいテクノロジーと日本語」の問題を考えるのならば、たかがガキンチョの乱暴なボキャブラリーより、こっちのほうに疑問を持つべきだろう。
逆に、もし、生活様式の変わらない、そんな新しいテクノロジーがあったら、教えて欲しいくらいだ。というか、もしそんなもんがあったら、それは失敗したテクノロジーではないか。
日本語の変化。そんなもん、平成の今、コンピュータやインターネットの登場で、史上初めて、発生したわけではない。
日本にまだ文字の無かった時代に、漢字(漢民族の文字、外国産の文字、新しいテクノロジー)を導入した時、日本語は大きく変貌している。それこそLINEがどうしたこうしたのレベルの変化ではない。
じゃあ漢字導入は、価値判断として「嘆かわしい」ことだったのか?
明治維新以後も、江戸時代とは、日本語は大きく変わっている。
たとえば
「恒例のライブやります。来てください」
なんだか批判しているが、これ、日本語としておかしいだろうか?
別におかしくない。意味は十分通じている。
ただし「話し言葉」ならば、である。
「書き言葉」としては乱暴である。
相手にしゃべる場合は上記で良いが、
相手に書面を出す場合は上記ではダメだろう。
なんで、こんなことになったのかといえば、LINEやSNSの影響よりは、明治時代の「言文一致」運動の影響のほうがはるかに大きい。
明治以降、「話し言葉=口語体」で文章を書くようになったことが、「書き言葉=文語体」をあんまり使わなくなったことが、一番の原因だろう。
それまでは、「話し言葉=口語体」と「書き言葉=文語体」は厳然と、別々だったのである。
これが「嘆かわしい」のならば、文句を言う相手は、平成のLINEではなく、明治の知識人たちである。
主語がない
この記者さんは、恋人に対して「私は貴方を愛しています」と喋るのだろうか?
普通の日本人なら「あなたが好きだ!」とか「愛してる!」で十分通じるし、そっちのほうが自然な日本語である。
桜の散ってるのを見て、日本人は「綺麗だなあ」と言うのだ。
「私は、桜を、綺麗だと感じました」なんて言わない。
主語がないとダメなのは、英語であって、日本語ではない。
日本語は、主語を省略する言語なのである。
一説には「日本語にはそもそも主語は無い」とも言われている。
たとえば、英語に人称代名詞「I」があるが、該当する日本語は何か?
わたし? ぼく? おれ? ソレガシ? 小生? 自分?
そもそも「わたし」や「ぼく」は、文法的に代名詞か?
日本語には一人称単数の代名詞が複数あるのか?
実は、「わたし」や「ぼく」は、「犬」や「リンゴ」と同じ、単なる名詞なのだ。
たとえば、「自分はそう思います」の「自分」は英語の「I」に該当するが、
「自分のやったことを反省しろ」の「自分」は英語の「YOU」に該当する。
文章によって「I」になったり「YOU」になったりする単語が代名詞なわけがない。
つまり日本語には、人称代名詞の代用品はあるが、文法的な人称代名詞は無い。
だから日本語は、多くの場合、特に口語は、主語を省略しても文章が成立するのだ。
逆に、英語は「主語がないと文章が成立しない」という融通がきかない部分がある。代名詞無しの「雨だ」とは書けない。「It's Rain」と代名詞が必須になる。
つまり「私」という代名詞の代用品を、話し言葉で、多用・常用するようになるのは、明治以降、西洋語の翻訳の必要から生まれたのである。
だから
「恒例のライブやります。来てください」
のほうが、古式ゆかしい日本語なのである。
「われわれは、恒例のライブやります。あなたも、来てください」
なんていう言い方を聞いたら、江戸時代以前の日本人なら「なんだか回りくどい言い方だな」と感じるはずだ。
その場合も、「それは、なんだか回りくどい言い方だな」などと代名詞は付けずに省略するのが普通の日本語なのだ。
都会のタワーマンションなどで暮らし、学校や塾などと家庭の往復で毎日を過ごす子供たちは、親以外の大人や高齢者、また生活レベルの異なる人たちと触れ合う機会が少ない。
あのさ、1億2千万のうち、「都会のタワーマンション」に住んでいる人口って何パーセント? 多数派なのか?
「生活レベルの異なる人たちと触れ合う機会が少ない」って、江戸時代の人間なら、生まれてこの方、自分の村から一歩も出ずに死んでいった人だっているだろう。国境(くにざかい)を越えたことがないなんていう農民は山ほどいた。
今や、高速道路が通り、新幹線があり、飛行機が飛んで、九州の人間が東京ディズニーランドに行って、大阪の人間が札幌雪祭りを見るのである。
ハワイへ行ったり香港へ行った子供が「生活レベルの異なる人たちと触れ合う機会が少ない」のか?
「ラインでのやり取りに代表されるように、相手の心に踏み込まず、本音で交わす会話が少ない。本音を出せる環境の少なさは子供にとっても不幸だ」
もう言ってることが矛盾である。
日本人は、いつから、親以外の大人、つまり他人に対して、相手の心にズカズカ踏み込んだり、むき出しの本音を言ってもイイ文化になったのか? そういうのは日本の文化で「無礼」「失礼」というのではなかったか?
思っていることも、あえて、言葉にしない、そういう惻隠の情を、日本文化は否定してるのか?
気持ちを表す言葉が使えない子供も多い。例えば、『びびる』という心情表現は、『驚く』『すくみ上がる』『萎縮する』『恐れる』など、他の言葉でさまざまに言い換えられる。だがそれをすべて『びびる』で済ませてしまう子が多いという。
「煩わしい」「不快」「つらい」「げんなりする」などはすべて「キモい」で済ませ、「すごい」「面白い」「すてき」「感動した」は大抵「ヤバい」で片付ける。
それでイイじゃん。
「キモい」「ウザい」「ヤバい」の3つの言葉で困らないということは、
彼ら彼女らの世界認識は3つしかないということである。
彼ら彼女らの宇宙は3つの要素だけで構成されているのだ。
それで満ち足りた人生ならば、生物ならば、外宇宙からとやかく言う必要は無い。
昆虫は、痛いと感じる「痛覚」がないらしい。それで昆虫が困っているか?と言えば困ってない。普通に生まれて普通に死んでいく。昆虫に向かって「痛みを感じろ」とアドバイスしてもしょうがない。そういう生物なんだから、それでいいのである。
この場合も、日本語は「痛みを感じろ」であって、「キミたちも、痛みを感じろ」は回りくどいのである。