在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

時間と所有と飲酒と麻薬~「うちなータイム」「てーげー」琉球が土人である理由。

時間と所有と飲酒と麻薬~ヤマトの時間感覚は異常である。だからこそ異常な近代化に成功した。 - 在日琉球人の王政復古日記

の続き。

 

特に琉球人は、朝鮮人に比較しても、この時間感覚が非常に苦手だった。

時間感覚で言えば、琉球人より、朝鮮人の方がよっぽど日本人に近かったようだ。

実は、戦後、どころか、平成の今に至っても、琉球人はあんまり変わっていない。

午前9時と約束しても、午前9時を守れない。

いわゆる「うちなータイム」「てーげー」という言い訳である。

 

しかし、こういうルーズな時間感覚は、世界的に見れば多数派なのだ。

例えば、豚を食う琉球人と、豚を食わないイスラムは、ある面似ている。

イスラムにも「インシュアラー(神の御心のままに)」という言い訳がある。

未来のことはどうなるかわからない、アラーがお決めになることだ、人間にはどうにもできない、といって遅刻するのである。

 

もっといえば、日本でも特に西南日本は、琉球人に近い時間感覚があった。

「大概(たいがい)」「 大儀(たいぎ)」「大層(たいそう)」に近い発音の、「しんどい」「めんどくさい」「じゃまくさい」みたいな意味の方言がある地方は、前近代的に、琉球人の「てーげー」に近かったのである。

 

ヤマトにおいて朝鮮人は差別された、下宿や借家や求人には「朝鮮人お断り」と平気で書かれていた、というけれど、それは琉球人も同じ事で、朝鮮人お断り」の横には琉球人お断り」と明記されていたのである。

 

なぜ、当時のヤマトンチュ=大阪人は琉球人を嫌ったか?

 

琉球人の私がヤマトンチュを弁護するのもなんだか変な話だが(笑)、自分たちに都合の悪い歴史にはダンマリ、などというヤマトンチュには一人もいない(笑)、卑怯なことはしたくないので、客観的に考察すると、

異民族である、言葉が通じない、というのも確かにあったのだが、仕事をするうえで一番のトラブったのが「琉球人は時間を守らない」、もう一つ「琉球人は他人の持ち物を勝手に使う」というのが大きかったようだ。

 

これは琉球人が窃盗癖のある万引き常習者なのではない。

琉球人は知り合いになると他人のモノを勝手に使うことがある。しかし同様に、知人が自分のモノを勝手に使っても平気で、あんまり怒らないのだ。

この感覚は朝鮮人も共通だった。

今もそうかは知らないが、少し前には、友人になった韓国人が日本人の部屋にやってきて、勝手に冷蔵庫のモノを取り出して食い出してビックリした、みたいなエピソードがあったが、それと同じだ。

その韓国人は強欲なのではない。逆に、友人の日本人が自分の冷蔵庫から食い物を取り出しても、ビックリはしないのだ。だって、友人だから。

日本人だって、親子・兄弟、家族の間で、冷蔵庫の食い物を厳密に分けたりはしてないはずである。

韓国人は、友人になると、身内になると、所有感覚が、所有の線引きが、アイマイになるのだ。

 

実は「時間を守る」観念は、「所有権を守る」観念に通じる。

あの時間はあの時間、この時間はこの時間、オレのモノはオレのモノ、お前のモノはお前のモノ、時間やモノをデジタルに切り分ける、これは同じ観念である。

分単位で時間を守ることは、自分の所有物をと他人の所有物を1円単位で厳密に分別する、近代経済思想と同じなのだ。

家族で、知人の間で、集団内部で、所有権がアイマイになることは、時間を守れない感覚と同じなのだ。

仲間内だけで経済を回しているのなら、これでいいのである。ムラのオキテだ。

しかし、外部の他人と商売したり、貿易したり、契約したり、つまり近代化する時に、このアイマイさは大きな障害となる。

 

「飲酒」「麻薬」も実は時間に関わる問題である。時間感覚を失うからだ。

いや、話はサカサマで、酒や麻薬は、時間感覚を超越するために、人間が必要とした道具なのである。歌や踊りも、実は、この仲間だ。

しかし、祝祭空間、宗教儀式はそれでいいとしても、仕事の時間にパッパラパーでは困る。

ここら辺は、ウォッカをがぶ飲みするロシア人と、何かといえばすぐ踊り出す、泡盛を手放さない琉球人はよく似ている。近代化は無理である(笑)。

だからこそ、禁酒を主張するプロテスタントの影響が強いアングロサクソンが経済的に発展し、酒に甘いカトリックのラテン諸国や東方正教会のスラブ諸国は経済的に遅れた、一つの要因ではあるだろう。

 

「時間」にしても「所有」にしても、非常に高度な近代の概念であり、前近代人であった琉球人はその辺がなかなか理解できなかった。

逆に、有色人種で一番最初に近代化に成功した日本の、さらに一番市場経済が発達していた大阪の上流市民(シトワイヤン)は、時間と所有に対して近代的感覚をなんと明治以前の江戸時代から持っていたため、時間と所有にルーズな琉球人が馬鹿な野蛮人にしか見えなかったわけだ。

大阪人は正しかった。

平成の今でも、時間にルーズということは、いまだに琉球人は近代人ではないのであり、前近代人つまり「土人」なのである。

琉球人は前近代人なんだから、近代人である日本人とは、まったく別のカテゴリーなのだ。

ゆえに琉球人は日本人ではないのだ。

 

日本人と琉球人を分けるからって、何も中国共産党の回し者なのではない。

イギリスのマグナ・カルタアダム・スミスの回し者なのだ(笑)。