在日琉球人の王政復古日記

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人生を「0で割る」~数学は、「現実=科学」ではなく、「定義=神学」である、らしい(汗)。

数学の超難問・ABC予想を「証明」 望月京大教授 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

2017/12/16(土)
 長年にわたって世界中の研究者を悩ませてきた数学の超難問「ABC予想」を証明したとする論文が、国際的な数学の専門誌に掲載される見通しになった。執筆者は、京都大数理解析研究所望月新一教授(48)。今世紀の数学史上、最大級の業績とされ、論文が掲載されることで、その内容の正しさが正式に認められることになる。

 

もちろん、サッパリわからない(笑)。

 

しかし、さすがは朝日新聞(笑)。

政治の世界では「朝日は左翼。産経は右翼。」ということになるんだが、

別の領域では「朝日は科学に強い」のいうのが一種のウリになっている。

対して「産経はオカルトに弱い(溺れやすい)」という特徴もある(笑)。

 

文句は、平成のLINEじゃなく、明治の二葉亭四迷に言え~3つの要素で満ち足りた宇宙。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

阪神淡路大震災東日本大震災では、被災地や被災者による幽霊の目撃など、心霊現象が多発したが、そういう騒動を、できるだけ無視する、最後まで拒否するのが、新聞では朝日、テレビではNHKである。

 

さて、今でこそ、政治なんていうクソまみれの分野に頭を突っ込んでいるが、私だってカワイイ幼少時代はあった。

その時代、もしも私の脳みそが優れていて、もしも実家が金持ちだったら、最初の望みは、数学を勉強したかったのだ。

ウソじゃないよ。今や自分でも信じられないが(笑)。

 

しかし、皆さんよくご存知の通り、一般平均よりも知性がかなり劣り、さらに致命的なことに貧乏だった私に、その可能性は0だった(笑)。

 

その0の話だ。

 

南蛮土人少年が、数学(算数)で最初に印象に残ったのは、「数字を0で割る」だった。

学校の教科書では四則演算の一覧はこうなっていた。

 

a+b=x
a-b=x
a×b=x
a÷b=x(b≠0) 

 

「美しくない」・・・私はそう思った。

 

世界は完璧かつ単純だと信じていた(顔真っ赤)幼い私は、この一覧の「複雑さ=醜さ」を許せなかった。

キレイに4つに整理された(はず)の四則演算のうち、なんで割り算だけ「(b≠0)」などという「余計なもの」が付いているのか?

 

0は数である。

数である限り、どんな計算でもできるはずだ。と幼い私は信じていた。

そして「絶対クリアな答えがあるはずだ」と自力で考えた。

 

幼い土人の答案は 

a÷0=∞(無限)

私は「0で割る=無限∞」だと思った。

 

しかし「数字を0で割る」の答えは「無限」ではなかった。

答えは、「0で割ってはいけない」または「0で割ることはそもそも定義しない」という、ルールつまり文章、なのだ。

 

数学の答えが「文章」? 数学なら答えは「数字」だろ! 変じゃね?、と私は思った。
本当は「答えが文章」なのではなく「答え自体が存在しない」。
なぜなら数学は「数字を0で割る」ことを定義してないから。
定義してないモノは、数学ではないから、答え自体が無いわけだ。
0は数字と定義されるが、0で割ることは定義されない。
「0は数字だ」と人間が人間の都合で勝手に決めるが、「0で割ること」は人間が人間の都合で勝手に「決めない」ことにしたわけだ(※数学に詳しい方、この理解でいいよね(汗)?) 。

 

その後、二乗して-1になる数・虚数iを学んだ。
こんな矛盾のある変な数字ですら、いろんな計算ができる。
しかし、それでも、ワケのわからない虚数と違って、存在を実感できる確かな数字であるはずの0で数字を割ることは出来ない。

 

虚数より0の方が厄介な数字なのだ。

 

その後、無限∞の不思議も学んだ。

無限に大きさはない。
たとえば、ある直線上に並ぶ点の個数と、ある平面に分布する点の個数は、同じ個数である。
直感なら、直線上の点より平面上の点の数の方が圧倒的に多いはずだ。
しかし、直線上の点と平面上の点は1対1で対応する。1対1で対応するということは個数が同じということなのだ。


ここまできて、この馬鹿にもようやく「数学は定義なんだ」と実感できた。
数学は、人間が人間の都合で作った「決まり事」なのだ。

 

数学は、現実ではなく定義、科学ではなく神学(形而上学)の領域なのだ。

 

しかし私の貧弱な脳みそではここまでが限界。数学から「破門」された。

 

それまで、宗教なんかとことん馬鹿にしていた。無知蒙昧、基地外のタワゴトだと思っていた。

しかし、数学が神学ならば、神学は、科学に匹敵する、実はモノスゴイ世界なのではないか? 


単純な無神論者だった私が、孔子論語をマジメに手に取った。

仏教もイロイロ読み、一番軽蔑していたキリスト教にまで興味を持った。 

まあ、科学の緻密さに付いて行けなかった低能の馬鹿が、楽ちんそうな形而上学に逃げ場所を探しただけ、の可能性が大きいのだが(笑)。

 

今から振り返れば、やめときゃよかった(笑)。

その愚かな思い付きの、挙句の果てが、政治なんていう、ヘドロだらけの下水溝で遠泳するような、この悲惨な末路である。

 

タイムマシンで過去に戻れるなら、私は、私に、

少年よ、君は日本人だ。

というか、日本人であることすら意識するな。

爺さんが弾く《蛇皮の三味線》や、親戚がお土産で持ってきた《スパムの缶詰》に、大した意味はない。理由を考えるな。意味を探すな。

少年よ、君は馬鹿だ。

馬鹿なら馬鹿らしく、数学なんかに、歴史なんかに、興味を持つな。

幸せになりたかったら、世界を見るな。論語なんて焼き捨てろ。 

と忠告したい。いや、殴ってでも矯正したい。

 

ホントに間違いだった。

数学なんか、0なんか、真剣に考えなきゃよかった。

 

数学は正しい。0で割ってはいけないのだ。

 

論語先進11-11
季路問事鬼神。子曰。未能事人。焉能事鬼。曰。敢問死。曰。未知生。焉知死。

未だ人に事うること能ず、焉んぞ能く鬼に事えん。未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。


近くの人間を理解できてないのに、遠くの神なんか解るはずがない。

浮世のシステムも改善できてないのに、あの世なんか考えてるヒマはない。

 

自分の人生さえ満足に割り切れないくせに、遠い世界を0で割ってる場合ではないのだ。

 

やはり、論語なんていうウンコ本を読むんじゃなかった。本当に愚かだった。