在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

なぜ遠山の金さんは大江戸八百八町を守るのか?~エボラ出血熱VS桜吹雪。

子供の頃から時代劇を見てるけど、当時から不思議だった。

大岡越前」や「遠山の金さん」である。

 

彼ら武士は、なぜ、いったい、何のために、何が理由で、大江戸八百八町の庶民の生活なんかを守ったのだろう?

たとえば、大工の熊五郎が殺される。殺したのは丁稚の与太郎だ・・・で(笑)?

それでいいではないか。ほっとけば。

下郎同士が殺し合おうが、武士に関係ないじゃん。

 

武士である大岡越前や遠山の金さんが、無関係な庶民同士のイザコザに、わざわざ介入して、捕まえて、仕置きする。

そんなことをしたって、別に金さんはゼニが儲かるわけではない。逆にコストもかかるし、手間もかかる。損しかない。なのに、そんな仕事をする必要性がどこにあるのか?

 

昔から、人間が暮らしている限り、どんな場所でも、それぞれの地域で一番の暴力を保有する者が出てくる。

合法的なら「王様」とか「幕府」などと呼ばれ、

非合法的なら「親分」など呼ばれる。

彼らがその土地を仕切る。

 

で、彼らの支配する領域で、癌で死ぬ人間が出たとする。老衰で死ぬ人間が出たとする。
王様・幕府・親分は何かリアクションを起こすか? おそらく何もしないだろう。

 

今度は餓死者が出たとする。 

王様・幕府・親分は何かリアクションを起こすか? おそらく何もしないだろう。

まあ食い物よこせ!という貧者の暴動が起こったら鎮圧することはあるだろうが、黙って飢え死にする限り、そのままだろう。

 

しかし、伝染病で死者が出たらどうする?
死んだのが、ハナクソみたいな貧乏人だったとしても、王様・幕府・親分は彼の死体を放置したままにはできない。必ず「防疫体制」を取るだろう。たとえ金がかかっても死体は焼くか埋める。「神仏に悪霊退散を祈る」であってもその当時の文化からいえば「防疫」である。


なぜそんなことをするのか?と言えば、貧乏人の伝染病は支配階層にも感染するからだ。

伝染病は博愛なので貧乏人も金持ちも差別しない。王家も貴族も武士も平民も奴隷も区別しない。

貧乏人の病死体を放置すれば、明日には王様が死にかねない。

 

伝染病の前に、人間は平等なのだ。つまり伝染病は「神」なのだ。

しかし、伝染病に、罹る人間もいれば、罹らない人間もいる。死ぬ人間もいれば、治癒する人間もいる。

人間を「平等」にする伝染病は、同時に、人間を「差別」「選別」する。

しかも、その伝染病の人間選別のルールが人間には全く判らない。

ゆえに、その理不尽を説明する宗教を必要としたのだ。

 

釈迦は病を見て出家し、孔子は顔回・冉伯牛を失って天命を恨み、ナザレのイエスは病を癒す。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

その領域の暴力=権力が、自分から積極的にやりたいと思わなくても、手間と金がかかって損をしても、全体を管理しなければならない必要に迫られるのは、伝染病の発生の場合なのだ。

 

羽田到着の発熱男性、エボラ検査へ 西アフリカ滞在歴:朝日新聞デジタル

 

アメリカだろうが、日本だろうが、エボラ出血熱に対抗するのは、対応できるのは、政府だけである。

政府が、国民の行動の自由や選択の自由を制限する「独占的暴力」を保有しているからこそ、可能なのである。政府が独占的暴力を保有していなければ、防疫体制は不可能だ。

 

いや話はサカサマで、エボラ出血熱に対応できる独占的暴力」を保有する組織を「政府」と呼ぶのだ。

エボラ発祥の地・西アフリカでは、その地域を仕切る自称政府が、政府として完全でなく、暴力を独占し切れてないから、感染が止められなかったのである。

 

伝染病こそが、人間社会に、制度的暴力=権力=国家を生んだ、とも言える。

伝染病は、人間の肉体だけなく、人間の制度にも「悪」を植えつける。

 

歴史上、さまざまな地域の王朝国家に、警察的な組織が生まれるきっかけも、人間の犯罪よりは、伝染病対策がその起源であることがほとんどのようである。

伝染病に対抗する防疫体制の延長線上に、日常的な治安対策=貧乏人の管理体制の必要が生まれ、そこから大岡越前や遠山の金さんが登場するわけだ。

 

エボラが江戸の町にやってきたら、金さんの桜吹雪が黙っていないのである。

 

架空戦記「エボラ出血熱17世紀欧米に上陸す」「天然痘VS梅毒~インカ帝国船団・欧州遠征す」。 - 在日琉球人の王政復古日記