在日琉球人の王政復古日記

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エメリッヒ「ゴジラ」(1998)~ドイツ人監督とフランス人ジャン・レノがアメリカをコケにした「反米映画」。

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評判の悪いエメリッヒの「トカゲ」映画(笑)。

しかし「政治映画」という視点から、ちゃんとした「怪獣」映画なのだ。

 

1954年の東宝ゴジラの場合、

ゴジラから被害を受けたのは、日本。 

ゴジラを生み出した責任者は、核実験をやったアメリカ。

 

そして日本人は、その原因がアメリカの核実験であることを重々承知していた。

判っていながらアメリカに一言も文句も言えない敗戦国の悲哀はあれど、少なくとも日本人は「マヌケな存在」として表現されてはいない。

日本人のゴジラに対する戦いは、非力ではあったが、見当違いではなかった。悪戦苦闘の末なんとか自力でゴジラを退治する。

しかし大損害を被った日本は、原因を作ったアメリカへ抗議したり、賠償を求めたり、復讐したりは出来なかった。泣き寝入りである。

 

1998年のエメリッヒ・ゴジラの場合、日本は主役ではない。 
ゴジラから被害を受けたのは、アメリカ・ニューヨーク。
しかし、ゴジラを生み出した責任者は、核実験をやった「フランス」なのだ。

  

そしてアメリカ人は、ニューヨーク市当局・アメリカ陸海空軍・マスコミは、その原因がフランスの核実験であることを、最後の最後まで真相に気付かないまま映画は終わる。つまりアメリカ人は全員「マヌケな存在」として表現されている。

さらに、アメリカ人のゴジラに対する戦いは、ビルを吹っ飛ばすくらい強力ではあっても、まるで見当違いの連続であり、それでもなんとか親ゴジラを退治するものの、ゴジラの卵には気づかず、卵を何とかするのはフランスの諜報機関なのである。

当然、アメリカは、原因を作ったフランスへ抗議したり、賠償を求めたり、復讐したりはしていない。日本と違って、できる能力はあるけれど、気が付いていないのだ。

 

この映画に登場するアメリカ人は、ニューヨーク市もアメリカ軍も主人公の学者も、総じて馬鹿に描かれている。

主人公のギリシア系アメリカ人学者は、途中でゴジラがフランスの核実験で生まれたと真相を知るが、それは自力で探し当てたわけではなく、当のフランス諜報機関から教えてもらってる始末である。

このフランス人たちは、アメリカ政府から何の許可も取らず、アメリカの領土であるニューヨークのど真ん中で、自分勝手な軍事作戦を実行する。フランス人のやってることはアメリカ国家主権への明白な侵害であり、ヘタしたら対米侵略、911のテロ行為とほとんど変わらない。 

そして主人公のアメリカ人は、フランスの「国家犯罪」に協力したうえ、祖国アメリカを滅茶苦茶にしたフランスに対して、ただの一度も怒ることすらない。

 

この主人公の設定は、ハリウッド映画として全くおかしい。
たとえば、イスラム原理主義者の秘密兵器が暴走してアメリカに甚大な被害が発生したのに、真相を知ってる主人公のアメリカ人が、イスラムのテロ組織に何の抗議も報復もしない。
たとえば、支那の大企業が廃棄した汚染物質でアメリカ人が死んだのに、真相を知ってる主人公のアメリカ人が、支那の大企業のスキャンダルを暴露しない、責任を追及しない。
アメリカがやられっぱなしなのに泣き寝入りする、そんなアメリカ映画がありえるだろうか? 

 

このハリウッド映画、実はローランド・エメリッヒというドイツ人監督なのだ。そして実質的な主人公はフランス人のジャン・レノなのだ。

ドイツ人とフランス人だからこそ、ヨーロッパ人だからこそ、アメリカをコケにしたこの映画は成立するのである。

 

エメリッヒ・ゴジラに登場する「怪獣」とは、卵を産んだトカゲではなく、2匹のリヴァイアサン、近代を産んだ2つの革命、アメリカとフランスなのだ。

無敵の世界帝国アメリカは、ロシアにも強い。ドイツにも強い。日本にも強い。イスラムにも強い。しかし、革命のご本家フランスにだけは、なぜか、心情的に弱いのである。 

 

 

イラク戦争当時、ブッシュ政権はフランス政府に戦争強硬を批判されたが、フランスを黙らせることも、有効な外交的仕返しもできなかった。

フレンチフライの名称を「フリーダムフライ」に変えるのが、アメリカとしての精一杯の反撃だったのである。

もし、フランスと同じことを日本がやれば、庵野シン・ゴジラ」でも明白なように、こんな程度のお仕置きでは済まない(笑)。

普段のアメリカの、日本政府への、中東諸国への、エラそうな態度とは雲泥の差である。

 

フランス対外保安総局DGSEのリーダーを演じるジャン・レノは、映画の中でアメリカ文化をバカにしまくる。

「とてもコーヒーとは呼べない」薄いアメリカンコーヒーを一口飲んで吐き出し、「朝なのにクロワッサンすら用意できない」アメリカのファーストフードに呆れ、人前でガムをくちゃくちゃ噛めば、フランス人は簡単にアメリカ軍に化けることができる。

マンガチックなまでにデフォルメされた「アメリカ人から見た、ステレオタイプのいけすかないフランス人(アメリカを小馬鹿にするキザ野郎)」を演じている。

 

同じく、まるで見当違いの現状分析で、物量だけはムチャクチャな戦いしかできしない、この映画のアメリカ陸軍、ニューヨーク市当局、マスコミも、「西ヨーロッパから見た、ステレオタイプのアメリカ(物量だけは豊富だけど、田舎モノでマヌケ)」の戯画なのだ。

 

エメリッヒ・ゴジラは、フランス人にコケにされるアメリカ人を描くドイツ人監督、というややこしい構造がある。

1954年東宝ゴジラが「南太平洋から極東まで」の政治映画だとすれば、
1998年エメリッヒ・ゴジラは「北大西洋の両岸」の政治映画なのだ。

 

コメディだけではない。政治の本質もえぐり出す。

アメリカに黙ってゴジラ抹殺を謀るフランス諜報機関のジャン・レノは、主人公のアメリカ人に告白する。

 

私は愛国者だ。祖国を愛している。祖国を守りたい。
祖国が犯した過ちからも祖国を守らねばならない。
時には祖国が犯した過ちを隠さねばならない。

 

く~~シビレるねえ(>_<)! ←馬鹿

これが、クリント・イーストウッドの傑作「ミスティック・リバー」にも通底する、革命の倫理、帝国の倫理、国家の倫理、政治の倫理である。

国家権力は、たとえ悪を犯しても、けっして頭を下げられないのである。

 

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このセリフ、フランス人俳優に言わせるが、ひょっとしたらドイツ人監督が自分自身の心情を重ねてるのではないか? 

前世紀初頭、ドイツ人が無謀な民主主義「実験」で生み出した、チョビ髭のゴジラと彼が産卵した黒い軍服のミニラ達もすさまじい殺戮と破壊を繰り返したが、それでもドイツ人はそのゴジラ伍長の災厄から祖国ドイツの名誉を守らねばならないのだ。

 

一つの例外もなく、現在生き残っている国家や民族は、「生き残っている」という事実そのものが、その本質が「悪」であることの証明である。

彼ら、いや、われわれは、他の国家や民族を皆殺しにして、生き残ったのだ。

もしも、奇跡的に善良な国家や民族がいたとすれば、彼らはすでに博物館と遺跡と古文書の中で眠っている。

 

だから、われわれ琉球人も、今はかわいそうに見えるアイヌもアメリカインディアンもチベット人も、過去において、何らかの「核実験」「アウシュビッツ」をやらかしているはずなのだ。

 

それぞれの国家や民族の保守思想は、その醜悪な過去を隠蔽する。それは本質的にある程度しょうがないことでもある。そうしなければ生き残れないからだ。

しかし隠蔽はしょうがないとしても、「俺たちは自分の過去を隠蔽した」という記憶まで忘れてしまうと、そこから保守思想のとめどない堕落と腐敗が始まる。

その事実をえぐり出すことが、リベラルの真の役割であり、本質は悪でしかないナショナリズムをかろうじて健全に保つ唯一の方策である。

 

それを忘れた国家や民族には、また原爆が落ちるか、怪獣が裁きにあらわれる。