全体として、面白かった。
原作から変更した、後半のどんでん返しは、ドラマチックで素晴らしい。
素晴らしいのだが、文句を言うつもりもないのだが、ケチをつけるつもりもないのだが、
あのクライマックスの改変で、序盤の「砂占い」シーンの理屈がおかしくなってしまっている。
ネタバレで書く。ご注意。
三島東太郎は「悪魔の紋章」の意味を知っている。
つまり、新宮利彦の背中に「悪魔の紋章」があることも知っている。
知っているからこそ、序盤の砂占いで、風神雷神トリックで、悪魔の紋章をスタンプして、椿家、新宮家、玉虫家の人々に恐怖を与えたのだ。
しかし、クライマックスの最後の最後まで、三島東太郎自身が、自分の背中にも「悪魔の紋章」があることを全く知らなかった、という改変はいかがなものか?
彼だって、生れてから今まで、熱い風呂に入ったことはあっただろうし、酒を飲んだ経験もあっただろうし、軍隊生活で他人に背中を見られてるはずである。
他人から教えてもらうチャンスが全くなかった、成人まで自分の背中の「悪魔の紋章」を知らないまんま生きてきた、というのは、ちょっと考えられない。
三島東太郎は、自分の「悪魔の紋章」を知っていたはずだ。
そして、椿家に潜り込んで、新宮利彦の「悪魔の紋章」を知った。
相手に、自分と同じ、「悪魔の紋章」がある。
ここで、三島東太郎が自分自身の出生の秘密を疑わないはずがない。
さかのぼって、小夜子が自殺した理由も理解したはずだ。
別に、自分の「悪魔の紋章」を知っていたら、あんな連続殺人は起こさなかったはずだ、ではない。
逆に、さらに、加速度的に憎悪を爆発させて、椿家、新宮家、玉虫家の責任者皆殺しに燃えただろう。
だから、全体からすれば、些細な矛盾だ。
あの改変がダメだったというのでもない。改変は大いにアリだ。賛成する。
しかし「原作からの改変」は、将棋倒し的に、予想外の部分に矛盾を波及するので、注意が必要なのだ。
さて、それ以外の感想も。
以下は今回のNHK版への批判ではなく、原作への批判である。
本格ミステリとして「悪魔が来りて笛を吹く」最大のトリックは、「フルート」である。
当時から、専門家に協力してもらって、曲の「楽譜」を創作して、小説の冒頭に載せていれば、つまり最初からフェアに伏線を張っていれば、日本ミステリ史に残る傑作トリックになっていたのに、という声はあった。
この曲が吹ける人間が悪魔だ。椿子爵はそう告発しているわけだが、
しかし、原作でも、その「容疑者」が、ぜんぜん少ないのだ。
登場人物で、指が使えないのは、中指と薬指の無い三島東太郎と、小指の無い菊江の、たった2人しかいない。
横溝正史は、もっともっと「指の使えない容疑者」を登場させるべきだった。
新宮華子は人差し指が欠損しているとか、目賀博士は怪我で片腕が動かないとか、そういうキャラ付けで怪しい容疑者を増やすことは可能だったと思う。
指が使えないとフルートは吹けない。このパターンの指の欠損も、あのパターンの腕のケガも、この曲は吹けない。だから彼ら彼女らは「悪魔」ではない。
しかし、三島東太郎のパターンだけは、指が無くとも吹ける。つまり椿子爵が告発した「悪魔」とは!
これなら、ミステリとしてもっと面白かっただろう。
楽譜を載せて、指が使えない登場人物が増えれば、もっと傑作になっていた。
次は「八つ墓村」らしい。
原作は金田一耕助が活躍しない作品なので、おそらく脚本は改変してくるだろう。
まず、8人も殺すので、尺が2時間で収まるのか?という問題もある。
どう料理するか?期待したい。
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