コロナ “中等症以上の人は原則入院” 政府が方針を明確化 | 新型コロナウイルス | NHKニュース
2021年8月6日
新型コロナウイルスの感染者の入院をめぐり、政府は、中等症以上の人は原則入院とするという方針を明確化しました。
(略)
よく誤解されるのだが、「トロッコ問題」は、
「トロッコを脱線させて、全員助ける」みたいな、トンチ問答ではない。抜け穴を探すクイズではない。
1人か?5人か?やるか?しないか?しかない。二者択一だ。
そして、「どっちが正しい」という正解があるわけでもない。
どっちを選んでも、回答を拒否しても、間違いはない。正しいもない。
死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」 岩国の小中学校が保護者に謝罪 | 毎日新聞
2019/9/29
山口県岩国市立東小と東中で、「多数の犠牲を防ぐためには1人が死んでもいいのか」を問う思考実験「トロッコ問題」を資料にした授業があり、児童の保護者から「授業に不安を感じている」との指摘を受けて、両校の校長が授業内容を確認していなかったとして、児童・生徒の保護者に文書で謝罪した。
市教委青少年課によると、授業は5月に東中の2、3年生徒、東小5、6年児童の計331人を対象に「学級活動」の時間(小学校45分、中学校50分)であった。同じスクールカウンセラーが担当し、トロッコ問題が記されたプリントを配布して授業した。
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トリアージ「免責法制化を」 判定ミス恐れ萎縮懸念: 日本経済新聞
2020年10月4日
救急医療の現場で負傷者の治療や搬送の優先度を判定する「トリアージ」の法制化を求める声が上がっている。現状では法律に基づく免責規定がなく、判定に誤りがあったとして訴訟に至った事例もある。救急医らは「現場が萎縮して救命率の低下につながりかねない」と懸念しており、関係団体は制度化に向けた提言づくりを始めている。
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谷原章介、政府の原則自宅療養方針に「命の緩やかなトリアージが始まっている印象」 : スポーツ報知
2021年8月4日
俳優の谷原章介が4日、フジテレビ系「めざまし8」(月~金曜・午前8時)にスタジオ生出演した。
番組では、東京都の3日の新型コロナウイルス新規感染者数が火曜日としては過去最多の3709人だったことを報じた。
さらに、こうした感染拡大を受け、政府は重症者と重症化リスクの高い人以外は原則自宅療養を基本とする方針を固めたことを伝えた。
菅義偉首相は3日、日本医師会の中川会長ら医療関係団体幹部らと会談し、急激な感染拡大を受け、重症者やそのリスクを抱える患者などに限って入院してもらうよう従来の方針を転換したと説明した。その上で、それ以外の患者は原則、自宅療養となることから往診やオンライン診療などによって、引き続き適切な医療を提供するよう要請し、往診の診療報酬を拡充する考えを示した。
政府の方針転換に谷原は「正直、ホント、これ命の緩やかなトリアージが始まっているような印象もします」とコメントしていた。
希少な医療資源をいかなるルールで分配するのか?
救命可能性などに基づいて、治療の優先度を決定して、患者を選別することを、命の選別=トリアージと呼ぶ。
トリアージは、経済学でもあり、政治学でもあり、哲学倫理学でもある。
トリアージに関する有名な思考実験がある。
「トロッコ問題」
制御不能となったトロッコが走っている。
このまま進むと、線路上の5人の人間を轢き殺してしまう。
あなたの目の前に分岐レバーがある。
レバーを動かし切り替えれば、5人は助かる。
ただし、切り替え先にいる1人の人間を轢き殺してしまう。
あなたは、レバーを動かすべきか?動かさないか?
同様な設問は、他にもある。
「臓器くじ」
全国民参加の公平なくじで、ランダムに健康な人間を1人を選び、殺す。
殺された人間の臓器を、死を待つ5人の人間に移植する。
くじに当たった1人は死ぬが、臓器移植した5人の人命は助かる。
臓器くじは認められるか?
興味深いことに、
トロッコ問題で「レバーを動かす(5人を救い、1人を殺す)」と回答した人が、
臓器くじだと「認めない(5人を救うために1人を殺すことに反対)」と回答するパターンが多いらしい。
気持ちは解かる。
「故意に人間を殺す」のと、「傍観して人間を見殺しにする」のは、違うのか?、同じか?
量の問題。「1人の命」と「5人の命」はどっちが重いのか? 命の価値は数で決まるのか? 人数が変われば、判断も変わるか? 「5人対1人」ではなく、「1000人対1人」なら判断は変わるか? 「全人類対1人」ならどうか?
別にフィクションの話ではない。
この瞬間も、世界では飢饉や戦争や貧困で苦しむ人は多いが、われわれは自分の全財産を寄付したりはしない。他人は見殺しである。
近代思想に、功利主義(帰結主義)というのがある。イギリスのベンサムが有名だ。
同じく、義務論というのがある。ドイツのカントが創始した。
ベンサムの功利主義とは「最大多数の最大幸福」というもので表されるように、計算できる正義である。
ベンサムなら、「レバーを動かす(5人を救い、1人を殺す)」となる。
カントの義務論は、「~ならば、~せよ/~するな」(仮言命法)ではなく、「無条件に、~せよ/~するな」(定言命法)という考え方だ。
「給料が貰えるから、働く」のではない。「何であろうが、働く」のだ。
「警察がいるから、盗まない」のではない。「何であろうが、盗まない」のだ。
カントなら、「レバーを動かさない(5人を救うことは関係ない。とにかく自分の手で人は殺さない)」となる。
法律の分野なら、「英米法」「法の支配」に通じる。
思考が「帰納法」であり、「科学的」「工学的」だ。
カントの義務論の背景には、「大陸合理論」がある。
思考が「演繹法」であり、「数学的」「形而上学(神学)的」である。
法VS人間~ #英米法 #法の支配 #イギリス経験論 VS #大陸法 #法治主義 #大陸合理論 ~ アキレスと亀 - 在日琉球人の王政復古日記
5人を救うために1人を殺す(一殺多生)か?
5人を見殺しでも1人は殺せない(不殺生)か?
欧米の近代思想家だけじゃなく、アジアの古代宗教家ならどう答えるか?
「意志に罪が宿る」インドの釈迦ならば、「傍観して多数を見殺しにする」より「自己の行為で少数を殺す」の方を罪と見なすだろう。
「結果に罪が宿る」ジャイナ教ならば、「自己の行為で少数を殺す」より「傍観して多数を見殺しにする」の方を罪と見なすだろう。
同じ大乗仏教でも、
阿弥陀信仰の親鸞は「私のような無能力者には何もできない」となるから「不殺生」を選ぶか。
法華経の日蓮は「この私こそが衆生を救う地涌の菩薩なのだ!」となるから「一殺多生」を選びそうだ。
ナザレのイエスは、「99匹の群れの羊より1匹の迷える羊」だから「不殺生」、
支那の孔子は、個人より孝(生命の連続性)だから、「一殺多生」か。
「一殺多生」は、経済の論理である。計算できる世界だ。
「不殺生」は、宗教の論理である。計算度外視だ。
どっちが正しい!ではない。どっちも正しく、同時に、間違っている。
私はどう答えるか?
私は、迷ってる内に、時間切れ。結果的には「5人見殺し」になると思う(笑)。
#コロナ #トリアージ #トロッコ問題 ~孟子~以羊易牛~君子遠庖廚~他人を見殺しか?家族を見殺しか? - 在日琉球人の王政復古日記
に続く。