貴方は「魔法使い」である。
たとえば、貴方は郵便局の場所が判らない。
でも貴方は「魔法の呪文」が使える。
道行くあかの他人に「お忙しいところ、申し訳ありません。郵便局の場所をご存知ですか?」と《呪文》を仕掛けると、貴方は他人を操ることができる。
他人は「ああ、郵便局なら、あの交差点を左折して100メートルくらいです」と自動的に喋り出す。貴方はタダで情報が手に入る。
コレは奇跡だ。コレは魔法である。
ただし《呪文》の唱え方を間違えるとダメである。
「ヘイ!ポストオフィス!」だの、
「こらオマエ、郵便局はドコだよ」だの、
ヘタクソな《呪文》だと、正しい情報を入手できる可能性はグンと低くなる。
人と人の間は直接にはつながらない。必ず「言葉」が介在する。
だから「言葉」を間違うと、人と人の間は断絶する。貴方は1人ぼっちだ。
もし「言葉」が正しければ、人と人の間は正しく繋がり、貴方の能力は2倍になり、10人力になり、万人が合力して、豊かな共同体を形成するのである。
弁当、牛丼…お持ち帰りの時に「いただきます」と言うだけで人生は少し豊かになる – しらべぇ | 気になるアレを大調査ニュース!
2015/01/03
以前、半年ほど大手牛丼チェーン店でアルバイトしていたという男性Tさん(20歳)は、大変な仕事のなかで嬉しさを感じたこととして、“お客さんからの挨拶”を挙げます。食事を終え、店を出ていく時に何気なく発せられる「ごちそうさまでした」は、仕事を頑張る原動力になったと。
そして、そんな「ごちそうさま」より嬉しかったのが、「いただきます」なのだそう。
“言霊”という言葉がありますが、実際に「いただきます」を口にすると、不思議なもので、普段食べる時よりも作ってくれた店員さんへの感謝の気持ちが芽生え、大切にひと口ひと口食べることができます。そして、「いただきます」と言ったことに呼応して店員さんが返してくれる「ありがとうございました!」は、食事をより美味しくしてくれるのです。
簡単に言ってしまえば、要は、これが「儒教」である。
孔子の言いたかった事の、全部ではないにしても、重要な一つはこれだ。
子路曰。衛君待子而爲政。子將奚先。子曰。必也正名乎。(略)
(意訳)
一番弟子の子路「政治家の衛公が先生を顧問に迎えたら、まず何をなさいますか?」
孔子「まず言葉を正すつもりだ。」
子路「ホント先生は毎度毎度回りくどいですねえ。政治なのに、なんで言葉なんですか?」
孔子「あまえは相変わらず雑だな。言葉を正さないと、意味が乱れる。意味が乱れれば、何事も正しく成し得ない。正しい行為がなければ、文化が成熟しない。文化が成熟しないと、統治は不可能だ。統治が不可能なら、人民の生活は安んじ得ない。だから君子はまず言葉を正すのだ~(略)」
正しい言葉遣いが、無料で、タダで、郵便局の情報をゲットできるように、
正しい言葉遣いが、バイト料の上乗せ無しで、牛丼屋のバイトの勤労意欲を奮い立たせるように、
正しい言葉遣いが、クズ肉で作った牛丼を美味しく感じさせるように、
正しい言葉遣いが、人と人を正しく結び、正しい政治を実現する。
それが孔子の思想だ。
しかし、キリスト教世界に救世主キリストに姿や形はソックリな、しかし本質が全く正反対のアンチ・キリスト(悪魔)が暗躍するように、
儒教世界でも、「名を正してる」ようで、逆に「名を混乱させる」だけの、ニセモノが跳梁跋扈する。
論語 学而1-3
子曰、巧言令色鮮矣仁。
子曰く、巧言令色すくなし仁。
(意訳)上っ面だけの虚言は礼儀ではない。
悪魔がキリストの御名を騙るように、詐欺師が仁や礼や徳を騙る。
指輪物語やハリー・ポッター同様、驚異の魔法世界には、魔法を逆用・悪用する悪い魔法使いが必ず出てくるのである。
そして人間には、キリストとアンチキリスト、君子と詐欺師の区別ができない。
だから
「言葉なんか信じたら騙されるのがオチだ」
「最初から言葉を信じるな」
「言葉という魔法を捨てろ」
「人間社会そのものを捨てろ」
というのが、同じ支那の荘子や印度の釈迦の反論、ということになるのだろう。
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マヤ、アステカの「孔子」、インカの「論語」その2~生贄、上げ馬神事、厄払い鯉、象のサーカス、ゲーム「もふもふはむすたぁ」ハムスター。 - 在日琉球人の王政復古日記