実は、この映画、「慰安婦」は登場しない。
しかし、まぎれもなく、「慰安婦映画」なのだ。
「新東宝」という会社は、今もある東宝ではない。1960年代に倒産してしまった映画会社だ。
脚本は、あの黒澤明(ただし、途中降板)。
主演男優は、東映・昭和残侠伝シリーズ「風間重吉」こと池部良。
主演女優は、「李香蘭」こと山口淑子。
製作は1950年、つまり昭和25年。
戦争に負けて5年目。もちろんGHQの占領下・検閲下である。
よって当然ながら、戦前日本を批判する「反戦映画」である。
舞台は、どんづまりの昭和20年、支北戦線。
砂塵の荒野をボロボロの日本皇軍が行進する。
陣地の城砦には、小奇麗な女性たちがいる。
しかし、ヒロインの山口淑子含む彼女たちは「私たちは慰安婦じゃない。慰問団よ」と言う。
あれれ?原作の「春婦伝」は確かに朝鮮人慰安婦が主人公のはずなんだが・・・いろいろ調べてみると、もともとの脚本化の時点では、ヒロインたちは、原作通り、慰安婦だったらしい。
戦争末期の交通手段が遮断された無名の戦場。いくらなんでも慰問団は場違いだ。劇中の山口淑子もとにかく激情のカタマリみたいな存在で、朝鮮人慰安婦ならば納得のキャラクターだが、いくら芸人でも戦前の抑圧された日本女性としてはちょっと激しすぎる。
で、なんで、女性主人公の民族・職業が変わったか?、というと、なんと、天下のGHQから横槍が入ったらしい。
しかし、GHQ肝いりの「反戦映画」である。「旧皇軍の非人間性」がたくさん描かれている。当然ながら、出てくる女性は「日本人慰問団」ではなく、悲惨な境遇の「朝鮮人慰安婦」の方が、「軍国日本の非人道性」をアピールできるはずである。
しかしGHQは「主人公を朝鮮人慰安婦にするな。」と止めたのだ。
なぜなら、慰安婦が主人公だと映画が「扇情的」になり過ぎるから、という理由だったそうな。
ここから判る事は2つ。
一つは、GHQが日本人を道徳的に矯正しようと思っていたということだ。それも平和教育だけでなく、キリスト教ピューリタン的倫理も教え込もうとしていた。
もう一つは、当時のGHQにとって、慰安婦の持つ意味が、「戦争犯罪」でも「性犯罪」でもなく、「エロチック」だったということである。清く正しい反戦教育映画が、エロチックなロマンス映画になってはケシカラン!というわけだ。
つまり、1950年当時は、日本も、GHQも、朝鮮人慰安婦を「許されざる悪行・犯罪」とは考えていなかったのだ。当然ながら、当時の朝鮮も支那も同じであろう。
余談だが、この慰問団の斡旋業者(本当は、慰安婦を管理していた女衒軍属)、なぜかコテコテの大阪弁なのだ(笑)。
「またも負けたか八連隊」ではないが、大阪人は根っからの商人で、軍人には向かない、というイメージが1950年代にも残っていたのである。
「またも負けたか八連隊」~本来の大阪はヤクザ&ヨシモトではない~上品で軟弱な文楽人形浄瑠璃&宝塚歌劇。 - 在日琉球人の王政復古日記
この「暁の脱走」、後年1965年に、日活の鈴木清順監督でリメイクされている。
《慰安婦映画列伝》日活「春婦傅」(1965)~鈴木清順まる出し(笑)。時代は反体制。 - 在日琉球人の王政復古日記
こっちは、原作どおり、ヒロインは慰安婦である。
(まとめ)昭和銀幕絵巻★慰安婦映画列伝 - 在日琉球人の王政復古日記