平成の花魁&ヤンキー成人式を見て感じるのは、文化からの逸脱、ルールの破壊、ではない。
全く正反対の、文化という「牢獄」、ルールの「奴隷」としての人間である。
黒ギャルのド派手成人式が今年も話題に 脚露出の“ミニ花魁”、頭に特大ぬいぐるみ - ネタりか
強め黒肌ギャルユニット「black diamond(ブラックダイヤモンド)」に所属するみゆぴょんが、ド派手な成人式コーディネートを披露した。
成人式を迎えたみゆぴょんは10日、自身のTwitterに「成人式 ミニクロス丈花魁」というコメントとともに成人式に向けた振り袖姿と、ネイルを公開。
「頭に大好きなマーシー連れて全身みどり色にしたよ」と“マーシー”と名付けられたお気に入りのトラのぬいぐるみを頭にのせ、緑と黒がベースの華やかな“ミニ花魁”の着こなしで足元を露出。
やれやれ。思い上がりもはなはだしい(笑)。
何が「前代未聞」だ。こんなもん大昔からありふれたファッションである。
派手な髪型というけれど、こんなの、一番上の画像にも示したように、18世紀フランス社交界には普通にあったファッションである。
18世紀フランス社交界は奇妙奇天烈傾奇者の世界である。21世紀ジャポンの黒ギャルなんて大人しいもんだ。
貴族がこんな浪費をしてれば、平民も怒る。そりゃ革命もおこって当然である(笑)。
女性だけでなく、ボンクラどもの荒れる成人式も、「戦後日本の劣化」でもなんでもない。「戦前」はもっと酷かった。
戦前の旧制高等学校の男子生徒は「弊衣破帽」、わざわざ汚いボロボロの格好をして暴れまわった。いわゆるバンカラ(蛮カラ)学生である。
彼らの集団的乱痴気騒ぎを「ストーム(嵐)」と呼んだ。
酒を飲んで暴れるくらいは当たり前で、深夜の学生寮で寝ている下級生を叩き起こす、酒を強要する、水をぶっ掛けあう。学校中の窓ガラスを叩き割る。
学校内だけでは収まらない。
「街頭ストーム」といって、街中に繰り出し、住人の迷惑を顧みず、大声で歌う、酒は飲む、集団で踊る、勝手に焚き木を燃やす、モノは盗む、モノは壊す、ケンカはする、路面電車を止める、カフェーの女給にチョッカイを出す、果ては警察署を取り囲んで、投石までした。
その粗暴さは、平成のヤンキー成人式も顔負けである。
で、平成の警察がやりすぎのボンクラ成人を逮捕したように、戦前の警察もバンカラ学生の乱痴気騒ぎを取り締まったか?・・・といえば、ほとんど傍観だった。
というのも、旧制高校の学生は社会エリートであり、彼らの親や学校のOBはほとんどが社会的影響力の持ち主で、学生を逮捕なんかしたら、警察に圧力がかかるからだ。
そして庶民も、「エライ学生さんのやることだから・・・」と彼らの無茶苦茶を治外法権として黙認していた。
そして、同世代の圧倒的多数の貧乏人は、高等教育なんて夢のまた夢で、バンカラ学生と同じ歳には、親の代から小作人で農作業、商家へ丁稚奉公、工場の見習い職工、不幸な少女なら遊郭に売り飛ばされ、好き勝手に暴れるなんて自由も特権も無かった。
18世紀フランスの奇抜な髪型だって、農家の娘に許されたわけではなく、社交界の上流階級だけの話だ。
戦前バンカラ学生の「街頭ストーム」も、18世紀フランスの「奇抜なヘアファッション」も、学籍差別であり、階級差別であったのだ。
それが、平成の成人式ならば、中卒でも、高校中退でも、貧乏人の小倅・小娘でも、小銭をためて、派手な羽織袴を着て大騒ぎし、花魁ファッションで馬鹿みたいな髪型をネットに流すことができる。
金持ちと貧乏人で生活レベルが違うのはしょうがないにしても、
高学歴と低学歴で就職先が変わるのはしょうがないにしても、
同じ犯罪行為でも、高学歴=金持ちは許してもらえて、貧乏人は逮捕される(というかそもそも不可能)、
というのが戦前と戦後の違いである。
「戦後日本はダメになった、戦前の日本は素晴らしかった」というオメデタイ人たちがいるが、戦争や徴兵はヌキにしても、言ってる当人が戦前の貧乏人の待遇に耐えられるとはとても思えない。
貧乏人の小娘に、フランス上流階級の真似事ができる。
学歴のない小僧に、学歴エリートの特権学生と同じ憂さ晴らしができる。
フランス革命前より革命後の方が、戦前より戦後の方が、確実に歴史は進歩しているのである。
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