在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

共産主義映画列伝「グッバイ、レーニン!」~「地上の楽園」は宇宙を目指した~社会主義的職業差別。


グッバイ、レーニン!(字幕版)

 

「お帰り、レーニン」 冷戦時代の像頭部、ベルリンで発掘 写真12枚 国際ニュース:AFPBB News

2015年9月11日
ドイツの首都ベルリン(Berlin)で10日、冷戦(Cold War)時代に市を東西に隔てていた「ベルリンの壁(Berlin Wall)」崩壊後に埋められていた、ロシア革命の指導者ウラジーミル・レーニン(Vladimir Lenin)の像頭部が、四半世紀ぶりに地中から掘り起こされ、「カムバック」を果たした。

(略)

 市内を横断して行われた頭部の輸送の様子は、東西統一をほろ苦く描いた2003年公開のコメディー映画『グッバイ、レーニン!(Good Bye, Lenin)』のワンシーンを想起させた。映画では、レーニンの頭部がヘリコプターでベルリンの上空を横断空輸される光景が描かれ、共産主義東ドイツの消滅を象徴するシーンとなっていた。

 

旧東ドイツが舞台のコメディ映画。

 

・・・東西冷戦時代末期。東ドイツドイツ民主共和国の首都・東ベルリンに母と姉の3人で住む平凡な青年が主人公。

ある日、熱心な党員である母が、反政府・反社会主義デモに参加した主人公の姿を目撃、ショックのあまり心臓発作で入院してしまう。

そして母が覚醒した時にはすでに東ドイツ政府は消滅、ベルリンも統一ドイツの資本主義世界に変貌していた。

祖国消滅を知れば、社会主義者の母の心臓はもたない!、と思いつめた主人公は、現在も東ドイツ国家が健在であるかのように、さまざまな「お芝居」を始める・・・

 

いたってハートウォーミングな万人向け映画。

だが、社会主義を考える上での材料にはなる。

 

この映画では、キューブリックへのオマージュを含め、宇宙開発にかかわるシーンが頻繁に出てくる。 

主人公の少年時代の夢は宇宙飛行士だし、統一後についた仕事は「衛星」放送のセールスマンだ。ドイツ人初の宇宙飛行士も重要な役で登場するし、最後のシーンはロケット花火の打ち上げ。

 

なぜ《宇宙》なのか?

 

もともと社会主義には「人類の歴史は必ず進歩する。その歴史法則を正しく把握する《科学》が社会主義である」という大前提がある。マルクス主義の別名を「科学的社会主義」と自称するくらいだ。
ゆえに科学技術の進歩こそ社会主義の正しさの証明となる。

最も重要な科学技術は「軍事技術」だが、最も宣伝効果のある科学技術となれば、それは「宇宙開発」だった。

ソ連東欧諸国が、アメリカ西欧諸国より、宇宙開発の分野でリードすれば、それは社会主義が正しいことの証明となる。


ゆえに地上の《楽園》社会主義は「宇宙」を目指す。

 

本当は、キレイに映るテレビや、排気ガスの少ない自動車を、低コストで大量生産する科学技術の方がよっぽど重要なのだが、なんせそういう分野は地味だ(笑)。

ソ連東欧諸国は、アメリカ西欧諸国相手に、宇宙開発みたいなハードでは競争する(その気になる)のに、サブカルチャーなどのソフトな分野で競争する必要性をあんまり理解できなかった(その気になれなかった)。
NASAアポロ計画に対しては危機感を感じても、ハリウッド映画やビートルズローリングストーンズには危機感を感じなかった。
なぜならジョン・レノンミック・ジャガーは「科学技術」ではないからだ。

 

ま、負けて当然といえば当然だ>社会主義

 

東ドイツ崩壊によって、ソ連圏のエリートだった東ドイツ人は職業を失う。 

まず、エリートだった党官僚は、今まで勉強してきた社会主義《神学》が、現実社会ではクソの役にも立たないし、テクノクラート・専門職も西ドイツレベルで見たら全然通用しない。教育関係者も同じ。

この映画でも、東ドイツの国家的英雄だった宇宙飛行士は栄光と名誉を失ってタクシードライバーとなり、主人公の学校の校長は失業してアル中になり、主人公の姉は大学を辞めてバーガーキングで働き始め、主人公もテレビ修理工としての技能は役に立たないので衛星放送のセールスマンに転職する。

 

彼らは全員「自分は落ちぶれた」という挫折感を抱えている。

彼ら旧東ドイツの人間も「職業には上下がある」と思っていることになる。

われわれ資本主義世界の住人にはあっておかしくない感覚だが、彼らは(ウソでも)社会主義世界の住人だったのだ。職業差別があったらダメな世界に住んでいたはずなのだ。しかし彼らも職業で人を差別するのだ。つまり科学的社会主義の「プロレタリア皆平等」「職業に貴賎なし」なんて、ウソッパチだったわけだ(笑)。

 

ただし「資本主義的職業差別」と「社会主義的職業差別」はその基準が異なる。

 

映画の中で、主人公は母親にショックを与えないように、さまざまな「ウソ」をつくが、その中で、われわれから見て奇妙な「ウソ」をつく。


主人公は、デモをキッカケに、ロシア人看護婦と知り合って恋人同士になる。

その恋人を母に紹介する時に「彼女は看護婦をやってるんだ。お父さんはロシアで聾唖学校の校長先生なんだ」と紹介する。

でも、ロシア人の恋人は「私の父はコックよ。なんであんなデタラメを」と主人公に怒る。


この「ウソ」はちょっと変だ。

 

ドイツ人の母にとっては、息子の彼女がロシア人、ということは若干ショックかも知れないが、彼女の父親が教員だろうがコックだろうが、それほどショックを受けることもないはずである。


だからこれは、母のための「ウソ」ではなく、主人公自身のための「ウソ」つまりは「見栄」なわけだ。

 

ここでもし、主人公が資本主義世界の住人ならば、彼女のお父さんを「貿易会社を経営している」とか「大企業に勤めている」とか、つまりは「高収入である」という見栄を張るだろう。

しかし、社会主義世界の住人だった主人公の場合は「聾唖学校の校長先生」というのが見栄になるだ。


つまり主人公には「聾唖学校の校長先生は職業として上。コックは職業として下」という露骨な職業差別意識があることになる。
この「聾唖学校の校長先生」という見栄の張り方が社会主義的だ(笑)。
「聾唖学校=弱者の味方」という《タテマエ》でありながら、「校長先生=組織のトップ」という《ホンネ》が顔を出す。

 

この辺の絶妙にイヤらしい感覚が、正に《岩波書店》的というか、《週刊金曜日》的というか(笑)、あの界隈の愛読者特有の差別感情をうまく表現していて素晴らしい。

日本もドイツも左翼は左翼なんだなあ、と。

 

もちろん、だから《週刊金曜日》的左翼はダメなんだ!、なんて言わない。
週刊金曜日》的左翼の皆さんが取り組むべきは、「コック」も「聾唖学校の校長先生」も、できれば「金持ち」も「自衛官」も含めて、同じくらい尊敬される社会を作るための思想構築なんだから。がんばれ>左翼。

 

ところで何故、ロシア人の彼女が、わざわざ東ドイツで看護婦を? 
ひょっとしたら、当時の東ドイツには看護婦の成り手がいないため、ロシア人が出稼ぎに来ていたのかもしれない。これもまた民族差別+職業差別だ。

 

異民族の出稼ぎといえば、主人公がアパートに住んでるベトナム人に衛星放送を売り込むシーンもある。
かつて西ドイツが労働力不足になった時、トルコ人移民を増やした。いまでもかなりの数のトルコ人が西ドイツ地域に住んでいる。 

また2015年現在、統一ドイツはシリア人を受け入れている。

対して、東ドイツの場合は、同じ社会主義国ベトナムから労働者を受け入れていたのだ。彼らベトナム人東ドイツが資本主義になっても帰る気はない。

 

石作りのドイツの街並みで、アジアの西の端のトルコ人と東の端のベトナム人が巡り合う。

ラブストーリーでもマフィアの抗争でもいいが、これだけで、もう一本イイ映画が作れそうだ。

 

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