マザー・テレサ「聖人」に=ローマ法王が宣言―バチカン (時事通信) - Yahoo!ニュース
2016年9月5日
インド東部コルカタを拠点に貧者の救済に力を尽くしたマザー・テレサ(1910~97年)が4日、カトリックで最高の崇敬の対象である「聖人」に認定された。
AFP通信などによると、フランシスコ・ローマ法王がバチカンのサンピエトロ広場での儀式で、認定を宣言。約10万人の信者らを前に「彼女のほほ笑みを心にとどめ、理解や優しさを必要とする人々に希望を与えていこう」と呼び掛けた。
マザー・テレサは5日で没後19年。ノーベル平和賞を79年に受賞するなど、業績に対する高い評価と世界的な知名度が定着していることもあり、極めて早い聖人認定となった。
現在のマケドニア・スコピエ生まれ。18歳で修道会に入った後、インドに渡り、教員を経て貧困層への奉仕に専念した。50年には「神の愛の宣教者会」を設立。飢えや病気に苦しむ人々の救済活動を世界に広げた。
カトリックの聖人・マザー・テレサは、一般に無私の聖女と賞賛されているが、一部では裏のある極悪人だと批判されている。
別におかしな話ではない。
宗派の内で聖者と賞賛され、宗派の外で蛇蝎のように嫌われる。
つまりは宗教者としては普通である。
マザー・テレサは、キリスト教という宗教の、さらに一分派、カトリックの聖人になった。もうこの時点で、彼女は万人に愛される立場にはない。
阪神ファンの巨人の選手への評価と同じで、カトリックのライバルであるプロテスタント、ヒンドゥー教のようなキリスト教以外の宗派、そしてアンチ・カトリックの無神論者たちからすれば、聖人ではなく、悪の象徴であり、攻撃対象だ。
だから、バイアス、毀誉褒貶はつきもので、カトリック側からの手放しの賞賛も怪しいが、批判が正当かどうかも検証しないと何とも言えない。
ただし、批判を読む限り、別に驚かない。「まあ、そういう部分もあるだろうな」という感想しかない。
マザー・テレサは聖人ではなかった | Krithika Varagur
2016年04月12日 www.huffingtonpost.jp
2016年の9月4日にマザー・テレサが聖人に列せられる。これは驚くことではない。2003年に彼女は福音に列し、列聖への道を一直線に進んでいるようだ。だが、彼女は聖人ではない。
マザー・テレサの列聖は、彼女の問題だらけの伝説に蓋をすることになる。改宗の強制、独裁者との疑わしい関係、収益の不適切な管理、それに、質の悪い医療などだ。最悪なのは、彼女が慈善の金を第三世界に浪費した典型的な白人だったこと。こうした理由で誰もが知る彼女のイメージが形成され、インド独立後の精神を深く傷つけ、分裂の根源となった。
インド人 Krithika Varagur 女史の、マザー・テレサへの批判は、ほとんど的外れである。
Varagur 女史は、ウソはついてないと思うが、それがどうした?という話である。
改宗の強制・・・クリスチャンならば当たり前だ。
信仰は、食い物の好き嫌いではない。カトリックを信仰していないことは、最後の審判での地獄行きを意味する。永遠の苦しみを前にして、たとえ強引でも正しい信仰へ導くのが当たり前ではないか。
独裁者との疑わしい関係・・・カトリックの歴史は、王侯貴族との癒着の歴史だ。
たとえば、戦国時代の日本へやってきた宣教師だって、戦国大名とコネを持った。そうしないと彼の支配地域で宣教できないからだ。そして戦国大名というのは、例外なく私利私欲で大量の人を殺し、理不尽に領土を奪った為政者である。20世紀、21世紀の後進国の独裁者よりもひどいことをやらかしてるケースが山のようにある。
収益の不適切な管理・・・カネの不正は世俗の罪であって、神の罪ではない。
質の悪い医療・・・彼女は、魂の救済を主眼とする宗教者であって、肉体を治す世俗の医者ではない。
彼女はその生涯に、100カ国で計517の慈善活動を行ったが、研究では、医療を求めた者はほとんど診療してもらえなかったという。医師は不衛生な、「適していない」環境で診療しなければならず、食料も不十分で、鎮痛剤もなかった。資金が足りなかったわけではない。マザー・テレサの呼びかけは海を越えていたからだ。研究者らによれば、診療環境が十分でなかったのは、彼女が「苦しみと死に対する独特の信念」を持っていたからだという。
「キリストの受難のように、貧しい者が苦しむ運命を受け入れるのは美しいものです。世界は彼らの苦しみから多くのものを得ています」。マザー・テレサはかつて、ジャーナリストのクリストファー・ヒッチェンスが投げかけた疑問に対し語った。
キリスト教では忍耐を神聖視しているとはいっても、どんなひねくれた考え方をしたら、そんな考え方になるのだろう。
ナニを批判してるのか、サッパリわからない。
マザー・テレサが世俗の医者ならば許されない犯罪だが、彼女はカトリックの修道女なのである。
病気を治すのが目的ではなく、魂の救済が目的なのだ。
「苦しみを肯定する」というのは、世俗の医学では狂気だが、カトリックなら普通の考え方だ。
「苦しみや困難が、人間を成長させる。神への道だ」なんて考え方は、カトリック以外の宗教でもよくあるではないか。断食だの、不眠だの、荒行だの、比叡山の千日回峰をはじめとして、いろんな宗教にある修業はそういう意味だろう。
クリストファー・ヒッチェンスというジャーナリストも、名前はキリスト教徒っぽいが、ググってみると、頭からカトリックに批判的な左翼の無神論者のようだ。中立的といえるかどうか、微妙である。
だいたいが、歴代のカトリックの聖人には、残忍な人殺しもたくさんいる。
たとえば、ローマ時代の聖人・アレクサンドリアのキュリロス。
カトリックだけでなく、東方正教会、イギリス国教会、プロテスタントのルター派でも崇敬されている聖人だ。
しかし、キリスト教徒ならぬ世俗の人間からすれば、彼はとても付き合いたい人間ではない。狂信者であり、権力亡者であり、キリスト教徒以外の人間の命を何とも思っていなかった。
地動説などの当時最新の科学を弾圧していたキリスト教に対して否定的だった、同時代の女性哲学者ヒュパティアへの虐殺にも間接的に関わっている。
彼女の殺され方は陰惨極まる。女性を裸にして、カキの貝殻で、生きたまま肉を骨から削ぎ落として、ブチ殺したのである。
いちいち論理的に考えて、不条理な神を受け入れない。女のくせに、男のやることに文句を言う、そういう「魔女」への処罰とはそういうものだ。
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「カリフォルニアのアドルフ・アイヒマン」と呼ばれる極悪非道の大量殺人鬼・フランシスコ会の宣教師フニペロ・セラも聖人である。
聖人セラ神父の墓荒らされる 訪米の法王が列聖、異論も:朝日新聞デジタル
2015年9月30日
訪米したローマ・カトリック教会のフランシスコ法王による列聖式で「聖人」に列せられたばかりのフニペロ・セラ神父の像や墓が荒らされた。18世紀にカリフォルニアで布教した神父は、先住民に残酷な仕打ちをしたとの批判が先住民系団体などから寄せられ、列聖には異論もあった。
聖人は、カトリックで最高の崇敬対象。ロサンゼルス・タイムズ紙によると、事件は26日夜から27日朝にかけて、サンフランシスコの南約200キロのカーメル伝道所であった。セラ神父の像が倒されてペンキがかけられたほか、同じ墓地の墓石が倒されたり、ペンキを塗られたりした。「大量虐殺の聖人」と英語で落書きもあった。欧州系入植者の墓石のみが狙われ、先住民系の墓は被害がないため、警察はヘイトクライム(憎悪犯罪)として捜査している。
スペイン人宣教師のセラ神父は、北米西部でカトリックを布教した。先住民を野蛮人とみなし、従わない者をむちで打つなど残虐行為をしたとの批判がある。
これに対し、フランシスコ法王は23日、ワシントンでの列聖式で、セラ神父が誤解されているとし、「不当な扱いや虐待から、先住民の共同体の尊厳を守った」などと語った。
具体的にどんな聖人だったのかは、誠に不愉快な内容だが、wikipediaをご参照。
彼ら偉大なる先達に比べれば、マザー・テレサなんて優しい老女である。
日本に池田大作という宗教者がいる。
彼の思想が宗教として高度なのかどうかは何とも言えないが、創価学会を日本一の教団に成長させた、彼の手腕は見事なものだ。
彼は創価学会員の間では非常に崇敬されている。創価学会の聖人である。
じゃあ、創価学会の外にいる、ライバルの日蓮正宗や、立正佼成会や霊友会などの日蓮系・法華経系宗教団体や、宗派の異なる浄土宗や真宗のみなさんや、世俗の我々にとって、池田大作は聖人か? 良き人か? 善人か?
池田大作の例ならば、創価とそれ以外では評価が正反対になる、という普通に判断できることが、マザー・テレサならば、聖俗を混同するのは変だ。
彼女が、カトリックを超えて世俗の価値基準でも良き人でないとおかしい、という理屈は、明らかにおかしいではないか。
創価学会の偉大な指導者は、世俗の善人を意味しない。当たり前の話である。
カトリックの聖人は、世俗の善人を意味しない。当たり前の話である。