先進第11-16
子貢問、師與商也孰賢乎、子曰、師也過、商也不及、曰、然則師愈與、子曰、過猶不及也。
子貢問う、師と商とはいずれかまされる。
子曰く、師や過ぎたり、商や及ばず。
曰く、しからばすなわち師はまされるか。
子曰く、過ぎたるは猶お及ばざるがごとし。
兄弟子の子貢が問う「弟弟子の2名、子張と子夏はどちらが優れていますか?」
孔子先生は答える 「子張はやり過ぎ、子夏は物足りない」
子貢は受ける 「ならば、やり過ぎの子張の方が、足りない子夏より、まだマシですね」
孔子は返す 「いいや。やり過ぎも、不足も、正しく適量ではないという意味ではまったく同じだ。つまり二人ともまだまだダメだよ」
【韓国旅客船沈没】セウォル号船長に死刑を求刑 1等航海士ら3人には無期懲役 - 産経ニュース
事故は4月16日に発生。修学旅行中の高校生ら294人が死亡し、10人が行方不明となっている。
死者・行方不明者約304名。全員絶望。
とんでもない大惨事ではあるが、似たような事故は韓国だけの話ではない。先進国・日本でも発生している。
2005年4月、乗客106人と運転士が死亡、562人が負傷。
死者約107名。人数は韓国の1/3だが、こっちは市街地、あっちは海上である。
事故後の、被害者の生存環境、救援活動の難易度、などなどを勘案すれば、福知山線事故は、陸地の、しかも市街地の真ん中で、発生したからこそ、562名の負傷者が生き残れたわけで、海上だったら負傷者が負傷者のままでいられた可能性は、韓国の例の通り、グンと低くなる。
そういう事情を考慮すれば、福知山線脱線事故は、韓国客船沈没事故と、事故の深刻さにおいてはそんなに変わるもんではない。
よって「韓国だからこそ、韓国という国が三流だから、韓国人は馬鹿だから、今回のような大惨事が起きたんだ!」とは言い難い。だって日本だって福知山線脱線事故で100人以上死んでるんだから。
ただし、韓国客船沈没事故の原因や、その後の対応や世論などに、「韓国社会または韓国人の特殊性」が露わになってることもまた確かである。
それは、福知山線脱線事故の原因や、その後の対応や世論などに、「日本社会または日本人の特殊性」が露わになってるのと同じことである。
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さて、列車、客船、飛行機などの大量輸送機関はいったん事故ると大量の被害者が出る。
列車や船や飛行機自体の機械的トラブルや、台風、火事、地震などの外的要因を除いて、人的要因で事故がおこる場合、確信犯と過失の2つに分かれる。
確信犯というのは、故意に事故を起こす場合。そんなのあるのか?といえば世界貿易センタービルに突っ込んだ911テロである。あれは運転者が事故る目的で事故を起こしたわけだ。まあ事例は極少数だ。
大半の事故は過失で起こる。
ただ、過失と確信犯のちょうど中間、というヤヤコシイ事例もないではない。
典型例は羽田沖日航機逆噴射事故。これは機長が「心身症」または「精神分裂病」だったために、異常な運転を行い、事故が発生した。過失といえば過失だが、確信犯とも言えば言える。
残りの大多数は純粋に過失である。韓国客船も過失だし、福知山線も過失だ。韓国人船長も日本人運転手も事故を起こしたくて起こしたわけではない。
ただしその過失の出発点は日韓で異なる。
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韓国人船長および大半の船員は「無責任」であった。プロとして失格だ。
彼らの最大最悪の罪は、乗客に船内待機を命じたことである。
船が規制に反して過積載だったなんてことは、韓国だけの話ではない。
日本の道路を走ってるトラックがどれだけ積載量を遵守しているか怪しいもんである。
運転者のスキル不足やケアレスミスなんかも、他人事ではない。
日本の道路を走ってる長距離バスのドライバーが一日平均何時間睡眠なのか?恐ろしい話だ。
船がムチャな重量バランスで、更に操船を失敗した。まあ、これだけでも十分アウトだが、ここで1億歩譲って、それだけなら、まだ、何とかなった。
最悪だったのは、船外脱出を誘導しないで、それどころか正反対に、乗客が確実に死ぬしかない閉鎖空間での待機を指示したことである。
もし、船が傾いたときに、「全員すぐに部屋を出て、甲板に上れ、海に飛び込め!」と指示していれば、死者ははるかに少なかっただろう。うまくいけば2ケタ以下に収まった可能性は十分ある。
ここでさらに2億歩譲って、プロとして「現段階は船内待機で妥当」と判断したとしよう。
だとすれば、船長も船員も自分たちが判断したように、乗客と同じように船内に待機しているべきだろう。判断は間違っていたかもしれないが、自分たちも間違った自己判断どおり船と一緒に沈んでいれば、まだ情状酌量の余地はある。無能だとしても少なくとも誠実だからだ。
しかし彼らは自分たちだけチャッカリ海へ避難しているのである。
これは乗客に「自分たちも正しいと思っていない指示」を出していたことになる。
もはや能力的にも倫理的にも救いようがない。
韓国人船長および大半の船員は「無責任の過失」であった。無責任ゆえに事故が起こった。
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対して日本の福知山線はやや異なる。
事故を起こした運転手は無責任ではなかった。怠慢や手抜きや不注意はなかった。それどころかマジメで必死だったのである。
尋常ではない秒刻みの過密スケジュールの中、少しの運転ミスも許されない。例えば停車位置を少しオーバーするとか、何分か遅延するとか、そういうミスは上司に報告され、「日勤教育」という「懲罰」が待っている。運転勤務から外され、炎天下に長時間直立不動、特別な場所でさらし者、延々と反省文を書かせる、上司が寄ってたかって罵詈雑言を浴びせる、鬱病やノイローゼになっても不思議はないシゴキである。当時はまだそういう言葉はなかったが正にパワハラである。殴らない以外は昔の徴兵と変わらない。
人間は、怠慢や不注意でもミスするが、過度のプレッシャーで緊張し過ぎてもミスを起こす。
恐怖の日勤教育を免れようと、遅れを取り戻そうと必死になった運転手はスピードを上げまくり、曲がりきれないカーブに突っ込んでいったわけだ。
もちろん、彼も「プロ失格」であった。プロの運転手として、第一に優先すべきは安全であって、ダイヤ通りの運行は二の次三の次にすべきだったのである。
しかし、われわれは、彼の心理と行動を非難できるだろうか?
本来、安全のための時間厳守、安全のための正確な停車、だったのが、時間厳守のために、正確な停車のために、あえて危険を冒すという逆転を引き起こす。安全のための社内教育が、懲罰となり、恐怖となり、電車を暴走させたのだ。
彼は間違ってはいたが、必死だったし、マジメではあった。彼は持ち場から逃げなかった。自分自身を猛スピードの弾丸列車の先頭にしてマンションに突っ込み、真っ先に死んだのである。
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乗客はそのままに、わが身可愛さの余り自分の持ち場(責任)からさっさと逃げた韓国人船長。
乗客の先頭に座り、持ち場(責任)から逃げずに、いや、逃げた後に待っている懲罰の恐怖に耐えられなくて持ち場(責任)から逃げるに逃げられず、持ち場(責任)ごとコンクリートの塊に突っ込んだ日本人運転手。
もし福知山線の運転手が、韓国人船長のような無責任男だったら、あの日の福知山線のダイヤは大いに乱れたかもしれないが、100人以上が死ぬこともなかったかもしれない。
300人を殺した「無」責任な韓国人船長は最悪だが、だからといって、自分を含めて100人も殺した「過」責任な日本人運転手がマシだ、という事にはならないのである。
孔子曰く、過ぎたるは猶お及ばざるがごとし。
「過」責任は「無」責任と同じことなのだ。
過猶不及也~過責任は無責任、過反省は無反省、厳罰は免罪と同じこと~韓国セウォル号沈没事故船長死刑求刑。 - 在日琉球人の王政復古日記
に続く。