在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

「死後の世界」は2つある(ただしどっちも無い)~パッケージに笑顔の写真「私が育てました」 #尊厳死 #安楽死

よく「死後の世界はあるのか?」みたいな話がある。

 

そこでいう「死後の世界」とは、「死んだ後、死者(の霊魂、意識)が行き着く場所」という意味である。要は、天国、地獄、極楽、浄土、霊界などなどだ。

 

しかし「死後の世界」という言葉は、別の意味にとらえることもできる。

「私が死んだ後に、私以外の、他人が生き残ってる世界」つまり「(死後の)この世」という意味だ。


まず、「死んだ後、死者(の霊魂、意識)が行き着く場所」については、あるのか?ないのか?、そっちは確かに明白ではない。 

 

「天国だの地獄だの、あの世なんてもんは無い!人間は生きてる間が華。死んだらそれで終わり!」という不信心な人はけっこういらっしゃる。

私は半分賛成で半分否定である。

天国なんていう都合の良い場所は確かに無いだろう。

ただ、地獄の方はあるんじゃなかろうか? 堕ちるべき連中がこれほどたくさんいるんだから、無いと困るだろう。

 

他方、「私が死んだ後に、私以外の、他人が生き残ってる世界」つまり「(死後の)この世」については、確実に言える。そんなもんは、無い(笑)。

 

私が、今現在、生きている、この世界は、この宇宙は、手で触れられるモノ、触れられないモノ、近くで見たモノ、遠くで聞いたモノ、心が感じたモノ、頭に浮かんだモノ、その他一切合財は、この私の脳味噌が、不安定ながら、何とか活動しているから、かろうじて意味を持っている。 かろうじて存在する。

だから、もし私の脳味噌が活動を停止すれば、この世界の一切合財は、これを読んでいるあなたも含めて、その瞬間に消滅する。 

 

世界が存在するから、私も存在する、のではない。
私が存在するから、世界も存在するのだ

 

だから世界には、「他人の死体」は山ほど存在しても、「私の死体」だけは、現在も、そして将来も、たとえ私が死んだ後でも、存在しない。
私が死んだ時点で、世界=(死後の)この世も消えるんだから、私の死体も消える。というか初めから、「私の死体」なんてものは「ありえない」。

 

しかし、「私が死んだら、世界も消える。他人だけが生きている(死後の)この世なんてもんはない」という、私と同意見の人は少数派のようだ。

私もケンカしてまで私の考え方を押し付けるつもりはない。どうせ死ねば結論は出る。

 

だから世間に妥協して、「(死後の)この世も存在する」と考えてみよう。
さて、そうなると、(死後の)この世には「私の死体」も存在する。

これをどう処分するか? 死んだ後だから、私の手では処分のしようがない。


私は、生まれてからこれまで、たくさんの息を吐き、たくさんの汗をかき、たくさんの小便を出し、たくさんのウンコをたれてきた。
私の息も汗も小便もウンコも、その直前まで私の中にあった私の所有物だが、私から離れてしまった瞬間、だいたいは、たんなるゴミ、廃棄物として捨ててきた。丁重に管理したり、長期間保存したりはしていない。
私の死体だって、その直前までは大事な大事なこの私だったが、私から離れてしまった後は、息や汗や小便やウンコと大して変わらないのではないか?

だったら、私の死体の扱いも、私の息や汗や小便やウンコの扱いと同様に処分しても問題ないように思う。


ただし、そのまま放置してもすぐに腐って悪臭を放つ。

埋めるには場所が必要だし、焼くにも燃料が無駄だ。 

じゃあ私の死体は、ウンコ並みに邪魔で無価値か?


ここで私の死体の中身を考えるに、基本、水分とタンパク質と脂肪とミネラルである。そういう意味では他の動物の死体とあんまり変わらない。ということは、私の死体は、他の肉食動物のエサには向いているのだ。


浄土真宗親鸞なんぞは「それがし閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし」とかなんとか、漁業関係者への無償提供を申し出たようだが、なんだかカッコつけ過ぎだ(笑)。

同じく樹木葬だの散骨だのがイヤなのは、それが無償提供だからだ。

私の死体はタダで渡せない。

 

確かに、今現在こうして生きている私が、何の価値も無い、ゴク潰しのクズなのは大いに認めるが、死体までタダとなると、フランス革命が保障した基本的人権を持つかけがいのない身としては不満である。

  

生きている私には「魂」がある。私の死体からは「魂」が消えている。

魂というゴミ=マイナスが消えた分、私の死体は、生きてる私の心身よりもプラスの価値があるはずなのだ。それが数学の公理だ。

私の死体は必ず売る。それが人権である。

 

とりあえず私の死体を食用として販売するとして、私はヒューマニスト=人間中心主義者なんで、他の畜生なんかより、まずは人類の役に立ちたい。

だから、私の死体を食用加工するのなら、まずは人間用を希望する。

しかし残念ながら、メソアメリカ文明以外の人々は、食の趣味にうるさくカニバリズムを嫌う傾向がある。

 

となれば、次善の策として、家畜か愛玩動物向けがいい。

実用本位の私としては、愛玩動物より、最終的に人間の栄養になる家畜に貢献したいのだが、家畜に肉食はあんまりいないので、どうしても、ワンちゃんかニャンコに食べてもらうのが最適となろう。

 

最近は食の安全性なんかが気にされてるようで、食品のパッケージに、賞味期限や産地表示だけでなく、「私が大切に育てました」だの「私が生産者です」だの、生産者の顔写真をプリントしているものがある。

 

あれはいい。 

 

私の死体も、重量、タンパク質、脂肪、ミネラルなどの成分表、賞味期限、そして、生前の笑顔と一緒に「中身は私です」「それなりに育てました」とかメッセージを印刷して、足首にでも針金でくくり付けて、ペットショップの棚にでも並べてもらうのが、もっとも合理的な「私の終わり方」だと思う。 

 

50%オフの見切り商品コーナーでも、まあ、しょうがない。

生きてる間、人生は妥協と敗北と屈辱の連続だった。

死んだ後も、妥協と敗北と屈辱の連続であったとも、特別驚きも怒りもない。

 

私が死んだ後、もはや存在しないこの世で、もはや存在しない私の死肉を売って稼いだゼニは、もはや存在しない銀行口座に振り込んでもらう。その臨時収入で、もはや存在しない近所のステーキハウスで、もはや存在しないウシの死肉をたらふく食うつもりである。もちろんミディアムレアだ。もはや存在しない私の消化器官がどうやって消化するのかは、その時になって考えることにしよう。

 

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