在日琉球人の王政復古日記

NATION OF LEQUIO

法VS人間~犯罪は理性が行う~殺意があれば正義の復讐でも死刑。酔っ払い、基地外、殺意がなければ死刑はない。

全体を俯瞰するには対象から遠く離れる必要がある。

人間は、他人事だと客観視できて理性が働く。

言い換えれば、自分に近いと主観だけになって感情を爆発させる。

ヤマトンチュも、朝鮮民族も、おそらく琉球人も、そこに違いは少ない。

  

この判決が出たときの、日本のネットの反応が興味深かった。

 

CNN.co.jp : 韓国セウォル号船長に懲役36年 殺人罪は認めず

2014.11.11 Tue
(CNN) 韓国で今年4月に起きた旅客船セウォル号の沈没事故で、同国の裁判所は11日、船長のイ・ジュンソク被告に懲役36年の刑を言い渡した。
イ被告は乗員3人とともに、救命ボートや救命胴衣などの装備を利用せず、乗客に避難を呼び掛けなかったとして殺人罪に問われた。検察はイ被告に死刑を求刑していた。韓国では1997年以降、死刑は執行されていない。
5カ月に及んだ裁判で、弁護側はイ被告に殺意はなかったと主張。被告は法廷で乗客救助に必要な措置を取らなかったことを認め、反省と謝罪の言葉を述べていた。判決では殺人罪は適用されなかった。
(略)

 

「ありゃりゃ? 法治でなく情治の韓国、感情暴走の韓国、愚かなバ韓国にしては、案外マトモな判決。意外だなあ」という反応が多かった。

そして、この韓国人遺族の反応に 「死刑出るまでって、、、やっぱり執念深い韓国人(笑)」という嘲笑が多かった。

 

セウォル号船長の殺人無罪に遺族「誰のための法なのか」と強く反発 : 政治•社会 : hankyoreh japan

2014-11-11
(略)
 この日の裁判を傍聴したセウォル号遺族たちは判決に激しく反発した。遺族たちは「ひどすぎます」、「いったい何人の子供たちが死んだのか…」、「私たちの子供たちの命の価値はこれだけなのか」、「いっそのことみな釈放しろ」と叫び、嗚咽を漏らした。
(略)

 

「誰のための法なのか」・・・私だってその感情は理解するが、

少なくとも、近代司法における刑法は「被害者のための法」ではない。

まあ、その話は長くなるので、次の機会に。

 

法VS人間~刑法は犯罪を禁じていない~近代は自由意志・自己責任のネオリベ思想。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

法VS人間~刑事裁判は、被告を裁いていない。検察を裁いている~近代VS反知性主義。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

法VS人間~刑事裁判は被害者や遺族の怨念を晴らせない。近代は感情に反する。 - 在日琉球人の王政復古日記

  

しかし、理性的であるべき裁判が感情に流されたり、理性的な判決に遺族や世論が納得しなかったり、というのは、何も韓国の専売特許ではない。

 

地震予知失敗で禁錮6年 伊の学者ら7人実刑判決: 日本経済新聞

2012年10月23日
ラクイラ=共同】多数の犠牲者が出た2009年のイタリア中部地震で、大地震の兆候がないと判断し被害拡大につながったとして、過失致死傷罪に問われた同国防災庁付属委員会メンバーの学者ら7人の判決公判が22日、最大被災地ラクイラの地裁で開かれ、同地裁は全員に求刑の禁錮4年を上回る禁錮6年の実刑判決を言い渡した。
地震予知の失敗で刑事責任が争われる世界的にも異例の事件。同地震では309人が死亡、6万人以上が被災した。
(略)
公判で、検察側は「委員会の報告がなければ犠牲者は用心深く行動したはずだ」と主張。弁護側は「地震被害は誰の責任でもない。まるで中世の裁判のようだ」と争っていた。
(略)

 

伊大地震で過失致死問われた科学者ら、逆転無罪に 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News

2014年11月11日
【11月11日 AFP】2009年4月6日にイタリア中部を襲った大地震の6日前に、危険性を過小評価する発表をしたことが被害を大きくしたとして地震学者ら7人が過失致死罪に問われていた裁判の上訴審で、被災地ラクイラ(L'Aquila)の高裁は10日、7被告に禁錮6年を言い渡した一審判決を破棄し、6被告を無罪とした。
(略)
 今回の裁判については、科学そのものを裁くもので、専門家たちが告訴を恐れて危険性評価の公表を止めてしまう恐れがあるなどとして、世界各国の科学者から批判されていた。
 だが、検察側は判決を不服として上訴するとみられる。(c)AFP/Angus MACKINNON

 

これも、近代科学の立場からすれば当たり前の判決で、怒る遺族のほうが理性的ではない。

が、ちょっと引っかかるのは「安全宣言」の具体的内容である。例えば

「今後、大規模地震の発生する可能性は低いと思われる」

みたいな内容だったら、この判決も妥当だが、

「もう地震は起きません。安心してください。科学的に保障します」

みたいな内容だったら、かなり問題である。

もちろんマトモな地震学者は、後者みたいな非科学的で無責任な宣言はしないだろうが、科学者の出した報告をそのまま住民に広報したわけじゃないだろう。途中で住民向けに「翻訳」した役人がいるはずで、その翻訳が地震予知の不確実性なんか知らない一般住民を誤解させるに十分な誇大表現だった可能性はある。

 

つーか、イタリアまで飛ばなくとも、「韓国のお隣」にも、けっこう感情的な住民は住んでいるのである。

 

舞鶴高1女子事件の逆転無罪の男、女性メッタ刺し容疑で逮捕(1/3ページ) - サンスポ

2014/11/06
 5日午前8時40分ごろ、大阪市北区の雑居ビルで女性(38)が胸などを刃物で刺され、大阪府警曽根崎署は殺人未遂の疑いで同市西成区の無職、中勝美容疑者(66)を現行犯逮捕した。中容疑者は2008年に起きた京都府舞鶴市の女子高生殺害事件で、殺人などの罪に問われたが、今年7月、最高裁が検察側の上告を棄却し無罪が確定したばかりだった。
(略)

 

この事件に対する「その国の住民」の反応は、「ウソ八百で舞鶴の人殺しを無罪放免にして、キチガイを野放しにした極悪弁護士の責任はどうなる!」という批判が山のようだった。

 

法VS人間~「ストライクです」と申告するバッターはいない。「死刑です」と主張する弁護人もいない。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

同様の反応は「光市母子強姦殺人事件」でも起こった。「ドラえもんが・・・云々」と言い出した弁護士を悪魔のように罵倒した。

近代裁判制度における弁護人の役割を、完全に無視、というか曲解した、まず理性的とは言い難い反応であった。

 

そして上記のの事件が特別なのではなく、どっちかといえば、普通の殺人事件よりも、過失致死事件(ただし悪質な)のほうが、日本のネットは激怒する。

 

小樽の4人死傷ひき逃げで男起訴 「危険運転」の立件断念 - 47NEWS(よんななニュース)

 酒気帯び運転による事故で地検は自動車運転処罰法危険運転致死傷)の適用も視野に入れて捜査していたが「アルコールの影響で正常な運転ができずに事故を起こしたと認定することが困難だった」と説明している。

 

酒やドラッグでラリパッパ状態になって人を轢き殺す。まず「殺意」は認めにくい。

なぜなら酩酊してるということは、「殺したい」という意思つまり理性が麻痺・喪失してるんだから。

理性つまり自由意志つまり殺意が無いのなら、殺人ではなく、過失致死になる可能性が高くなる。

 

同じようなカテゴリーに「心神喪失」「心神耗弱」「少年法」も入る。

マトモな精神状態の人殺しは重罪になり、基地外減刑か無罪放免だ。

どんな極悪非道も、未成年は罪が軽くなる。

 

近代司法制度は「責任主義」を取るので、責任が取れない、自由意志が弱い、理性が喪失した、酔っ払い、キチガイ、少年の罪を軽くするのである。

近代司法制度は殺意=自由意志=理性を重視する。これは、理性を重視する近代思想、自由意志を尊重する人権思想がバックボーンにあるからだ。

近代人(モダーンマン)は理性ある存在であり、犯罪者も理性ある存在である。その理性に基づいた犯罪行為を、理性に基づいて裁くのが、近代司法制度の基本である。

このシステムでは、最初の想定から、酔っ払い、基地外、少年を「例外扱い」にしているのだ。 

理性を重視するあまり、理性から外れたモノへの対応が苦手。ここに近代司法制度、だけではなく「近代そのもの」の弱点がある。

 

安珍(小朝、船越英一郎)VS清姫(泰葉、松居一代)~ #浦和レッズ サポーター平成道成寺。 - 在日琉球人の王政復古日記

 

「殺意」があるから1人殺しても殺人。

「殺意」がないなら、何人轢き殺そうが、何百人海に沈めようが、過失致死。

それが「近代」の冷酷非情である。

 

そんな「切り分け」が、果たして本当に正しいのか?、というのなら、弁護士を批判してる場合ではなく、われわれが頭の先までどっぷりハマッている、罪刑法定主義責任主義、近代裁判制度、近代科学、理性万能、人権思想、つまり「近代そのもの」を疑う必要があるのだ。

 

日本の酔っ払いのひき逃げは「殺意」がない。だから過失致死で、殺人より、罪が軽い。

韓国の船長も、未熟な操船と無責任な職場放棄であっても「殺意」はない。だから過失致死で、殺人より、罪が軽い。

 

セウォル号に対して「韓国にしてはマトモな判決だな」と理性的に冷笑している、おそらく同じ日本人が、ドラえもんを持ち出して人殺しを弁護する行為に怒り、飲酒運転のひき逃げをもっと重罪にしろ!と憤っているのだ。

 

お隣の韓国の「感情的」な言動を、「感情的」だ、と「理性的」に冷笑するのに、

日本の司法の「理性的」な判断を、「理性的」だ、と「理性的」に評価せずに「感情的」に批判する。

こういう手前勝手な使い分けを「感情的」と呼ぶのである。

 

日本人だろうが、韓国人だろうが、イタリア人だろうが、琉球人だろうが、人間が「感情的」になるのは当たり前である。

ただ、人間は【この私】を含めて「感情的」だ、という認識=自戒を持ち続けることが「理性的」なのである。

 

その「理性」が人間の本性として本当に正しいのかどうか?

つまり「近代」が本当に正しいのかどうか?

は、また別の難題ではあるが。